助野健太郎著 「島原の乱」に紹介されている
10月11日に徳野会長は長崎に行くという。
私は上記の壁画、すなわちマニラセントオーガスチス聖堂の壁画であることを
今倉真理著 「天草四郎時貞、真実の預言者」によって知った。
今倉は語る。
「カトリック教会の聖堂内部に描かれたり、その絵が飾られたりする人々は、聖人であるか、聖なる人々と教会が認知した人々なのである。」
「島原の乱」は、天草から始めて島原に及んだ、天草四郎とそのグループが起こした「キリスト教復興運動」を下地としており、島原(高来たかく)の偶発的な代官殺傷事件を契機に、四ヶ月にわたる本格的な宗教戦争、国内戦にまでなった。その後の日本史に多大な影響を及ぼした一大事件であった。
天災があり、重税が課せられ、「海に火が燃え、十字架がったった」とか、十字架の形をした星が彗星と共に空に現れたとか、朝夕の空が異様に赤く焼けるとか様々な奇跡とみなされる事が起こった。
炎の中に十字架が燦然と輝いて現れ、しかもそれは二時間も続いて、さらにその様子を信徒ばかりか異教徒も見ている。
奇跡はあり、士農工商の制度下で、代官殺害事件が起こった。
大勢の村人が集まり「聖画」を礼拝していたところ、代官が来てその聖画を踏み破ったことがきっかけであったという。
天草四郎の父は益田甚兵衛といい、熊本の宇土の江部に住んでいた。細川藩資料によれば、島原の乱の勃発後は母親のマルタと姉レジイナ福、妹の万たち親族は細川藩に捉えられたという。甚兵衛は天草大矢野島の出身、母マルタは天草蔵々村の出身であった。
義人として高名な高槻の高山右近は小西行長を信仰に導いた、小西は関ヶ原の合戦の責任を問われ、切腹が言い渡されたが、キリシタンとしては自殺が御法度である。
あえて体面を捨てて、斬首を願い出ている。天晴れな人物である。
ユスト高山右近は、小西行長を信仰に導き、その小西行長の祐筆であったのが天草四郎の父、益田甚兵衛好次である。主家小西家の関ヶ原の戦い後の没落により、甚兵衛は肥後宇土郡江部村に隠棲し、農業に従事した。江部村で誕生したとも考えられている四郎の本名は、益田四郎時貞(1622~1638年)であり、天草四郎とは後世に付けられた通称である。
ところで、四郎は原城に立てこもった際などは、天野四郎と名乗っている。
四郎がの登場以前には予言があった。
著者によればミカエル中島と思われるイルマン(修道士)が予言した内容が「水野家島原記」に紹介されているという。
島原で捕縛されたイルマン(修道士)が、松倉豊後守重政により島原城下で長い間牢に留め置かれたあげくに雲仙の地獄で拷問を受け、最後に「天野四郎」の出現を予言して死んだ、という記述がある。
「天野四郎が現れる時、日本中がキリシタンの宗旨となり、そのものは聖母マリアの生まれ変わりであり、その時には思い知るだろう」と、死の直前にそのイルマンが言ったとある。当然天野四郎とは天草四郎を指している。また、「この予言が九州中に広まり、キリシタンの宗旨に心残りのある者たちはいつもこのことをささやいていた」というのである。
こうして、奇跡と予言に後押しされ1637年秋に島原・天草で勃発した一揆は大規模なものとなり、一揆側が女子供を含めると37000~41000人と言われ、幕府連合軍は125000人に及んだ。
原城に立てこもった期間は4ヶ月。そして全滅した。
我々が「隠れキリシタン」と呼ぶ人たちはカトリックでは「潜伏キリシタン」と呼ばれている。カトリックが公認していない、部分的にはキリスト教の特徴がみられるが、本質的にはキリスト教でなく土着の宗教を信仰しているとされているものを、「隠れキリシタン」と呼んでいるのである。
とはいえ、隠れも潜伏も日本語のイメージとしては、ネガティブなので、なかなかいい言葉が見つからなかったのだろう。
忍者ではないが昔「隠密剣士」というサムライ劇があった。
神の意志を受けて隠密の行動する、隠密キリシタン。
なかなか難しいものである。
さて、キリシタンの遺跡群を世界遺産として申請しようと運動中の長崎。
かっては、日本のローマとまで言われた。
九州はキリシタン大名が多く存在した。
長崎の大村純忠が日本のキリシタン大名の嚆矢であり、洗礼の先駆けであった。
以下ウィキペディアより引用する。
使節の少年たちはセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13~14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる
* 伊東マンショ(主席正使) 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。 後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。* 千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。純忠の甥で晴信の従兄弟。後に棄教。
* 中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。 2007年に福者に列せられる。
* 原マルチノ(副使)後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
人間は若い頃にいち早く志を持てば、大成するようだ。
知識の習得より、志の確立が大切と言うことだろう。
長崎や九州の二世の方には奮起して頂きたい。
さて、天草四郎が戦いで掲げた陣中旗は
天草四郎の陣中旗は、カリス(聖杯)の上にホスチア(聖体)があり、それを二位の天使が礼拝している。
一方ジャンヌ・ダルクの旗は、中央にイエズス・キリストがおられ、その方を二位の天使が礼拝しているという構図になっている。
前述したように、ホスチア(聖なる体)とはイエズス・キリストの御体であり、カリスに入っている葡萄酒はイエズス・キリストの御血である。聖体にはイエズス・キリストの聖なる人性と神性のすべてが宿っている。つまり、イエズス・キリストご自身であるとして、二位の天使は礼拝をしているのである。そういうわけで、この二つの旗は構図も同じであり、その意味するところも本質的に同じである。
今倉はオルレアンの少女が「乙女」を自称したように、四郎も予言の成就のため、天野四郎を用いたことの共通性を指摘している。
今倉が各章の初めに選んだ聖句がとてもいいのでご紹介したい。
神である主は、僕である預言者に、
そのはからいを示さずにことをなさることはない。
アモスの書3章7節
神のみ業とは、神から遣わされた者を信じることだ、
とイエズスは答えられた。
人間よりも
神に従わなくてはなりません。
使徒行伝5章29節
私の目が開かれれば、
あなたの法の不思議を見る。
詩編119-18
われわれは主の勝利を祝い、
神のみ名を旗印にかかげよう、
主があなたの望みに答えた給わんことを。
詩編20-6
私が注ぎのいけにえとして注がれ、帆をはって去るべき時はもう近づいた。
私はよい戦いを戦い、去るべき道を走り尽くし、信仰を守った。
すでに私のために正義の冠が備えられている。
ティモテへの第二の手紙4章6節
主よ、私の正義を取り上げたまえ
私は罪無く歩み、主によりたのんでゆるがない
詩編26-1
預言は未信者のためのしるしではなく、
信者のためである・・・
コリント人への第一の手紙14章22節
今倉真理氏に感謝!
長崎の方々、どうか説教に来られる徳野会長が
目覚められるようお祈りください。