原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

世の中に精誠ほど恐ろしいものはない     知られざる精誠を我が身に受ける恐ろしさよ!

以前にこのブログで久保木会長がお父様と群衆に囲まれている法王を見た時に、久保木会長が本来は人類にこうして侍られるべきお方が、今は誰も解さず、主がたった今ここに立っておられるにもかかわらず、気づくことがない有様を見て胸を痛められました。

「お父様は淋しいだろうな。」そう久保木会長が思われ、主に対して申し訳ないと思っておられたら、お父様が語り始められたといいます。

ローマ法王はかわいそうだね。」

久保木会長は耳を疑いました。

「申し訳ないが、かわいそうなのはローマ法王ではなくて、お父様の方ではないのか?」

するとお父様は続けられたのです。

ローマ法王はかわいそうだね。久保木、ローマ法王はかわいそうだね。」

「えっ、先生はどうしてそのようにおっしゃられるのだろう。反対ではないのか?」

久保木会長が戸惑っているとお父様は語られたそうです。

ローマ法王は世界中の人から愛され、精誠を尽くされている。」

「そうであるのに、もし、責任を果たすことができないとしたら、大変なことになる。だから、かわいそうなのだ。」

 

私はそのお話を聞いて、思い知らされたのである。

 

「世の中に精誠ほど恐ろしいものはない。」

 

ナイジェリアのジョナサン大統領はお父様を国賓として迎えられ、王の王として迎えられた。

かってどんなに摂理的国家とその元首をお父様が真の愛で愛されたとしても、数十年に渡って尽くされたとしても、誰一人精誠を込めて主を迎えるものは現れなかった。

カモメのジョナサンのように、全ての国家と元首をあっさり抜き出でて、お父様を大歓迎されたのである。

「あなたこそ、生ける神の子、キリストです。」

 

そこでお父様は次に訪問されるための、飛行機の離陸時間に搭乗して出発しなければならないにもかかわらず、お構いなしに精誠を尽くされお話をされるのでした。

 

精誠を尽くされて、そのまま何もせず、立ち去ってしまうことができましょうか?

 

精誠を尽くされたなら、なお一層の精誠を込めてお返ししたい。

そう願うのが授受の道です。

 

この国が神に祝福されるための御言葉を携えて、この地にやってきた身ではあるけれど、今まで受けたことのない真心で迎えた国家元首とその国をさらにいっそう祝福したい思いに溢れるけれど、また別の国でお父様を待っている人々がいる。

だが そこで受けるであろう精誠以上にここで尽くされている。

この心はどうして動くことができようか?

いつまでも どこまでも ここにともににいてあげたい父の心が

この地を去って行くことを許すことができない。

この血にまみれた民族の行く末を案じるならば、行かなければならない民族の苦難の道を、どうにか払拭してあげたい。せめて和らげてあげたい。

だが この身は一つ。

為す術もない。

ここに父母としての心情を何とか残さないわけにはいかない。

時間がどうであれ、事情がどうであれ

その心は超然として大地を抱き、受難の民を抱く。

 

行かなければならない自分を打って足を止め

最も近い腹心の助言を投げ捨て、張り飛ばしてでも愛し返さなければならない

神の面目がある。

誰もどうにもならない中で、亨進様が説得されても

我が身と思って愛する息子を打ってでも、その一心を現さないわけにはいかない。

格闘技をして殴られるくらいは大丈夫な息子であるならば

その代わりに 自分と息子が愛する、かよわい嫁を捕まえて、

はり倒さなければメシアとして来た、

その心情を残すことができない。

精誠を尽くされたなら、それ以上なおいっそう尽くし返したい父の心がある。

あらゆる正当な事情があったとしても、それがなんだ、責任を果たさずしては行くことができない。

お父様、あなたのその心とお姿を決して忘れることができません。

 

 

亨進様を不信する「神様大好き」なる者がいる。

亨進様だけでは飽きたらず、だが一見控えめに今度は李 妍雅様の証を取り上げているようだ。ご本人も大変立派なお母様の証だとお考えであろうが、ここでも亨進様の時と同様に特に厳選したご本人の言葉をもって、「何故あなたはこのようにかってお母様を証されたのに今はお母様にたてつくような道を行くのですか?」とでも言わんばかりである。

李 妍雅様(文 亨進様のご夫人)が涙ながらにお母様の事を語る - 神様大好き!

 

そこでは例えば以下のような文章に注目している。

 

1992年4月10日お父様の隣の座 真の母の一に上られました。
お父様に敬礼する位置から同じく敬礼される位置に至るまで・・・・
それが2003年になって初めて公式的に許諾されたのです。

 

「天の前に真なる子女の使命
夫の前に真なる夫人の使命
子女の前に真なる父母の使命を完遂されました。」

 

私達がお父様を愛するならばお母様も愛さなければなりません。
なぜならお二人は一つであり真の父母だからです。

お母様は天宙のお母様であられ
また 私達を再び生んでくださった「私のお母様」なのです。

私達はみな お母様の子女なのでその方の心を痛め傷つけるならば

お母様のお心はより一層痛むのです。

私達はお母様を愛し、また尊重しなければなりません。

真のお母様は「天宙のお母様」であると同時に
「私のお母様」なのです。

 

真のお母様は真の妻として影のような存在です。
先生が右側に行けば右側に行くのです。
全く同じく歩いていかれます。
これで世界復帰を全て終わらせました。
全て成し遂げたのです。
主管性を転倒して復帰したのです。

ですから初めて先生がお母様を世界の前に立てるのです。
個人を代表し 家庭を代表し 民族 国家 世界を代表して
先生の隣に立てるのです。

これが天国のアダムとエバを失っていない 本然的家庭基盤になっているので
家庭を中心として夫婦が天国に向かって正面から神様に対することができる
時代に入ってきたというのです。

 

ここで証されている世界は真の母を持つことができた、私と人類の喜びの心情である。

 

至福の喜び。

 

このように証したあなたが、今は何故?と考える前に

このように証したあなたは、何故どのような心情を通過されて今に至ったのだろうか?

そのように見つめることはできないものだろうか?

 

はじめは亨進様の語る言葉や行動についていけなかった妍雅様、大変戸惑われたのである。夫は本当に大丈夫なのだろうか?そう思ったかも知れない。

尊敬して止まない、愛して止まないお母様。

そのお方を妍雅様は3つの観点から見事な、見事なお母様の証をされている。

 

第一は、真のお父様にこの上なく侍られる真のお母様。
第二は、真の子女様をこの上なく愛される真のお母様。
最後は、食口の皆様をこの上なく愛される真のお母様

 

いったいこのような美しい証が誰にできようか?

先ずその事を心にとめなければならないだろう。

 

愛する夫が語ることは、お母様をこよなく愛するがゆえに、到底受け取ることができなかったはずである。

受け入れることができないので、悲しみで一杯になったことだろう。

誰よりも深く愛し、仰ぎ見られてきた憧れのお母様。

アメリカに来られてので挨拶に行きたい。

だが 今はそれさえ許されない。

そのせつない悲しみを天は知っておられる。

あなたには知ることができないのだろうか?

 

お二人を愛する妍雅様は、初めはお母様よりであった。

そこで神様に談判祈祷して、夢ではっきりと行くべき道を示してくださいと祈られたのである。

だが 予想に反して夢は、違ったものであった。

亨進様が車を運転なされていて、そこにはお父様も同乗されていた。

亨進様はいちいちお父様に、「右に行きなさい」「左に行きなさい」と支持を受けて

その如く100%従って運転されていたのであった。

 

驚くべき結果であったが、神に祈り求めて示されたものを、どんなに受け入れがたいものであったとしても、否定することはできない。

お母様をこよなく愛されていたがゆえに、天意を受け入れて立つ身は、喩えようもない悲しみに包まれてしまったのである。

 

さらに追い打ちをかけるように、お母様がお父様を主体として、対象挌位には立たず、離れてしまっていることを代わって取り戻すために、お母様とは比べることのできない不肖な身と誰よりも感じられながらも、行かなければならない苦痛の道が妍雅様に待っていたのである。

お母様が本来のお姿を取り戻されて、栄光を現して頂けたらと、どれほど思われたことだろう。だが その願いは叶わなかった。

そこで亨進様は妍雅様と蕩減条件を立てられることに進んで行かざるを得なかった。

 

イエス様の母マリアが果たすことができなかった神の恨み

お母様が現在まで悟られることがなかった神の恨み

これを払拭し神に喜びを帰すべく重要な儀式をされたのである。

マリアはイエス様に侍ることができなかった。

 

だが 妍雅様は違う。

信俊様に敬礼を捧げられた。

母が勝利したので子供たちも見習って

信俊様に敬礼する道を容易に築くことになり

神の御心による伝統が亨進様家庭に確立できたのである。

天一国の雛形を我々はそこに見ることができる。

 

私たち夫婦は妍雅様の生きた証人である。

お父様は私たちに語ってくださった。

あまりにももったいなく受けがたい栄光のお話。

「君たち祝福家庭の子女と、イエス様とではどちらが価値があるや」

「イエス様は祝福を受けた両親から生まれることができなかった」

お父様が与えてくださった祝福は驚天動地の恩恵である。

申し訳なくて、申し訳なくて、ただ震えるばかりである。

これから祝福を受ける兄弟達よ!

父の祝福を地に堕とさないでほしい。

 

ヨセフとマリアの失敗を決してすることなくがないよう

神の霊に導かれて、われわれ夫婦は、10年間子供たちが生まれたときから三拝敬礼を続けた。

神と真の父母様に捧げて、次に子供たちを真の父母様の子供として御前に座らせて

夫婦で敬拝を捧げてきた。

かぐや姫の両親のように私的に扱いはしない。

レバレンドよ。

けっして止めたりはしない。

 

 

だが 妍雅様は違う。

全く違う!

信俊様神の子としてばかりか、さらにお父様が指名された万民の「王の王」として侍られ

敬礼を捧げられたのだ。

私たちには分かる。

妍雅様の崇高なお姿を。

われわれは妍雅様の生きた証人である。

何人も妍雅様の心情を蹂躙してはならない

 

お二人は望んだわけではなかったが

神の御手に導かれて

我々信徒と人類の永遠の命に責任を持たざるを得ない立場に立たされることになった。

亨進様ははじめて、イエス様やお父様が行かれた道に同期したのではないだろうか。

また、妍雅様もはじめてお母様の行かれた苛酷な道に立たれたのだろう。

 

これから妍雅様のために三位基台をつくって祈り支える女性が現れるだろう。

それはあなたかもしれない。

 

若き日にイエス様に、我が使命を継承し完成してほしいと願われたお父様は

その責任の大きさを考えれば考えるほど即答してハイとは言うことができなかった。

あなたが行かなければ、神の御旨は流れさり延長し、神の胸に消えることのない悲しみが残ってしまう。

男として初めて抵抗した真のお父様が

一変して覚悟を決められたように

亨進様も妍雅様も

天下に身を晒して

託され見護られる神のみを相手に

道を切り開いてくださっているのである。

何故分からないことがあるだろうか?

 

現在のお二人はお父様によって王冠を三度頂いた時のお二人ではもはやない。

お二人が抱く心に何人も、どうして敬拝を捧げないでいられようか?

天心の心を秘めたお二人を!

 

世の中に精誠ほど恐ろしいものはない     

知られざる精誠を我が身に受ける恐ろしさよ!