原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

善きサマリア人の霊的十字架越えと      亨進様と妍雅様の心情の十字架越えの道

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  :22)すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。

:23)それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。

:24)あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

:25)するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

:26)彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

:27)彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

:28)彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

:29)すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

:30)イエスが答えて言われた、「ある人エルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

:31)するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

:32)同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

:33)ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い

:34)近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した

:35)翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

:36)この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

:37)彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 

 

神は決して見過ごさず、見捨てることができない。

また、神の霊に満ちた者も、同様に見過ごさず見捨てることができない。

 

読んで字の如しで、イエス様の譬え話は極めてわかりやすく明解であるが、せっかくであるのでこれを、亨進様を中心とする現在の摂理に照らし合わせて学びたいと思う。

 

お父様による三度の戴冠式を経て、お父様の後継者になった亨進様、聖和されお父様に全権を与えられ天命を拝受された亨進様は、まさに以下の如しである。

よくよくあなたがたに言っておくと主は語り給う。

 

「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません

 

さらに警告して強調してくださったことは何か?

 

多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」

 

多くの篤信者や牧会者や分封王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」

 

そこに主イエス(亨進様)を試みる者が現れる。

 

「ある律法学者」というのは対策委員のことである。

なんたらかんたら、ぐだぐだと屁理屈をひねって頭で神を礼拝する者たちである。

 

「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」

御言葉にはどう書いているかと聞いているのである?

そこでイエス様はこうおっしゃられるのである。

 

「律法(御言葉)にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」

逆に質問を向けておられる、さすがイエス様である。

暗記するほど御言葉に通じていたであろう律法学者は答えた。

 

「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

 

信仰基台と実体基台であると言ったので、そのとおりだ、あなたもそのようにしなさいと、権威ある者としてイエス様は語ったのである。

 

御言葉は誰より知ってはいたが、実践はしていなかったことを

イエス様に見切られたことを悟った律法学者は狼狽しアリバイを模索して

 

「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」

と聞いた。

 

「わたしが律法を実践していないと言うのであれば、私の「隣人」具体的には誰れを隣人として私が実践していないと言うのか?」

 

そのように思ったことだろう。

そこでイエス様は有名な「善きサマリア人のたとえ」を語られたのである。

 

ある旅人が強盗に襲われ身ぐるみ剥がれて瀕死の重傷を負ったが、強盗たちは逃げていった。エルサレムからエリコへの道は強盗が現れるところとして有名であったのだろう。

 

息も絶え絶えで死にかけている旅人を見た

通りがかった人々がいた。

 

最初に見たのは重責を担った神殿(清平)にいる祭司(牧会者)であった。

次のレビ人というのは、レビ人から祭司が選ばれるので、信仰のある信徒のことである。

 

だが、彼らは皆「向こう側を通って行った」

向こう側というのは「関わりたくない。関係を持ちたくはない」という

意思表示である。

同じ立場に身を置いていたら、私もそこら中に蔓延る盗賊どもに袋だたきにされるかも知れない。くわばらくわばら。

イエス様の下に集まった全ての人々は、ただ通り過ぎていくばかりの、見物人であり、無関心な人々であった。その魂は常に眠っていて神の声を聞くことができなかった

 

ところが、ユダヤ人に忌み嫌われ蔑まれていた異邦人である「あるサマリア人が同じようにして通りがかったその時、

我が身の安全を顧みることなく、捨て身で僕のように仕え介抱したのである。

 

「あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い

近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」

 

「向こう側」ではなく「近寄ってきて」、

「その傷」に「オリブ油」と「ぶどう酒」とを注いでほうたいをしてやり

 

イザヤ書53章5節

 

:3)彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

:4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

:5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

:6)われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

:7)彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

:8)彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

 

イエス様が語られている「善きサマリア人のたとえの」物語の本当の主人公イエス・キリストである。

 

少なくとも、この物語は二段構えか三段構えになっている

神の視線。イエス様。サマリア人

 

「翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。」

 

我々の永遠の命のために、血の代価を払って贖ってくださったイエス様が、特に窮地に陥っていたときに、同様に代価を差し出して恩返しする者に、神の祝福あれ!

 

イエス様は語られた。

 

「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか

 

律法学者は答えた。

その人に慈悲深い行いをした人です

 

その人とはイエス様のことである。

現在の摂理では当然、亨進様のことである。

 

そこでイエス様は律法学者に言ったように、我々にも語ることだろう。

あなたも亨進様の下に行って同じようにしなさい」

 

さて、我々は御言葉によって復活する。

 

蘇生 旧約時代の御言葉を信じ実践して復活

長成 新約時代の御言葉を信じ復活

成約 成約時代の御言葉を信じ、直接主に侍って復活

 

蘇生旧約時代は肉の復活

長成新約時代は霊の復活

完成成約時代は心情復活

 

サマリア人は「肉を捨て霊を得る」新約の信仰

現在のサンクチュアリ人は「霊を捨て心情を得る信仰」

 

善きサマリア人は、命を省みず捨て身で瀕死の主を救った。

だが、善きサンクチュアリは、命ばかりか霊をも捨てて瀕死の主亨進様を救う。

 

イエス様同様亨進様は、主自ら先駆けて3年間死の谷を彷徨われた。

何故?

価値なき隣人である我々異邦人を救うためである。

その代価は?

亨進様の命よりも魂よりも大切なお母様を糾弾して祭物とされた

妍雅様も命よりも魂よりも大切なお母様

席をお母様の逆賊とされても、戻ってこられるその日まで護るべく、

身も魂も捧げられた

その痛みの心情を神は知っておられる

 

心情は命と霊の先にある。

 

何故神はかくも江利川姉を愛するのか?

お母様にお会いして訴えるとき

命がけであったという

その心は亨進様とも妍雅様とも通じる

孝子の秘密の心情がある。

天知る 地知る 我が知る。

秘密荘厳の心情

 

教会で復活できないなら

サンクチュアリの亨進様の礼拝で復活すべきである。

アージュ

 

 

国家メシヤ、さくらの会、777双家庭会は

善きサマリア人になることができるであろうか?

亨進様の隣人とはその人に慈悲深い行いをした人です

 

「江利川氏を中心とする日本サンクチュアリ教会問題、UCIグループ及びその他の分派問題について」

日時
(1)【東日本集会】2015 年9月21日(月)敬老の日 午前10 時~午後4時
(2)【西日本集会】2015 年9月22日(火)国民の休日 午前10 時~午後4時

会場
(1)【東日本集会】新宿教会 (東京都新宿区高田馬場3-44-2 Tel 03-5386-5041)
(2)【西日本集会】大阪教会 (大阪市阿倍野区阪南町2-22-15 Tel 06-4399-6188)

 

聖和されたお父様永遠の命を得よ警告なされる。

 

大義に立つ勇気の道は生涯の勝利を招く!