原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

マーガレット・サッチャーは語るだろう        江利川に頼みなさい!

In politics,

政策で

if you want anything said,

言ってほしいことがあるなら

ask a man;

男に頼むがよい

if you want anything done,

だが 成し遂げてほしいことがあるなら

ask a woman.

女に頼みなさい

 

鉄の女 マーガレット・サッチャーはそう語ったと聞く。

「In politics、」は、通常「政治において」と訳されているようだ。

たった一人の女性に家庭連合の男性陣は振り回され,

あたふたとご苦労なことである。

突貫娘はもう誰も止めることが出来ない。

痛快である。

突貫、進め!

777のO氏の故郷の熊本で48人も退会するとは驚いたものである。

サンクチュアリは必ずしも退会し移行せよと強行しているわけではない。

ほとんど自主的離脱である。

これがもし霊的にお父様が現れて、亨進様に直ちに退会離脱しサンクチュアリに結集せよとでも号令をかけようものなら、地滑り的に人々はサンクチュアリになだれ込むことであろう。

九州の人は熱いね!

東北も頑張ってほしいね。

昔は熊本で神風連が暴れ回った。

キリスト教では熊本バンドの興隆。

熊本バンドは「八重の桜」でも出てきたが

ウィキペディアでは以下のように紹介されている。

一部引用する。

 

1871年熊本洋学校が設立された。招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズの信仰と情熱が青年達を動かし、多数の入信者を産んだ。ジェーンズは平信徒であったので、長崎在住の宣教師と相談の上、洗礼の礼典を行った。ジェーンズの教育方針は、道義的国家の確立のために、神の信仰に生きる自主的な個人を形成することにあった。こうした教育観が、士族の子として生まれながら、藩制の解体で忠誠の対象を失った青年達に、新しい目標を与えた。
1876年(明治9年)1月30日[2](29日説もある[3])、洋学校の生徒35名は熊本城外花岡山で集会を開催し、賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた後、「奉教趣意書」に誓約した[1]。こうした契約によって結ばれた人々をバンドと称した。この趣意書は「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す。」[1]とあるように、個人的な誓約や教会形成を意識したものというよりは、キリスト教と国家との関係を意識した宗教国家樹立を宣言[1]したものであった。

 

教会の解体で忠誠の対象を失った全国の信徒。

昔、兄弟達と見た「八甲田山」の映画を思い出す。

リーダーの判断によって

生きながらえたグループあり、

また別のリーダーの判断によって

死に絶えたグループあり。

従順な羊たちよ!

おまえたちの永遠の命をどうしよう?

 

次はどこだろうか?

札幌バンドか?

横浜バンドか?

 

 札幌バンドについて、ウィキペディア

ウィリアム・スミス・クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団は札幌バンドと呼ばれる。「誓約」は、キリストの告白、十字架のキリストへの感謝、その表現としての「真実基督教徒たる諸々の義務」を求めると共に、信仰の基準としての聖書を「神の人の言語を以て顕せる唯一なる直接の天啓」として信ずることも要求されている。ことに注目されるのは、適当な機会がくれば、信仰の諮問を受けた上で受洗し、「或る福音主義の教会に加入すべきこと」を誓約した。青年達は、1878年メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた。1882年、「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になっている。しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになった。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会を創始する。

 

横浜バンドについて、ウィキペディア

 

1859年10月、アメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンが神奈川に、同じくオランダ改革派の1861年11月にジェームス・ハミルトン・バラが横浜に着いた。しかし、キリスト教が禁止されていたために表だった伝道はできなかったので、日本語を習得して塾を開き、日本人青年を教育した。
ブラウン門下からは島田三郎・植村正久・押川方義・井深梶之助・本多庸一・熊野雄七・山本秀煌・奥野昌綱などキリスト教会で活躍した人材を輩出した。1864年にバラに日本語を教えていた矢野元隆が洗礼を受けた。
1871年年末から翌年第1週にかけて、横浜在住の外国人が福音同盟会の提唱する初週祈祷会を開き、1872年最初のプロテスタント教会が横浜に設立された。
同じ日に押川方義、篠崎桂之助ら9人がバラ宣教師から洗礼を受けた。この9名と以前に洗礼を受けていた2名の会員11人で、バラを仮牧師として教会は始まった。この日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれる。この公会は純粋な福音信仰に立ち、無教派主義をとったとされているが、まったくの無教派であったわけではなく、改革派教会と長老派教会の合同した教会である。このプロテスタントの精神は後に加わった植村正久によって受け継がれた[1]。またこれは公会主義として日本の合同教会で理想化されることになった。

 

日本のプロテスタントの大きな流れは、この3つのバンドから始まった。

 

さあ、天一国創建ののろしを高くあげる者は何処に?

 

この戦いは、数の問題ではない。

質の問題である。

 

もし数を増やせても 質的変換をサンクチュアリができなければ、人々は言うだろう。

「ここもまた同じだ」と。

 

教会長、牧会者として選ばれた方は、

矜持を示していただきたい。

戦いの相手は我々自身である。

我々自身が生まれ変わり、

我々の教会が生まれ変わったなら

そこにお父様は住まわれることであろう。

 

主は悲しまれた。

龍は天から墜ち、徳は野に散ってしまった。

主なるあなたの真の父を愛せよ!

 

オウムのように繰り返された「お母様が本流です。」は、

もはや信徒にとっては 急速に逆効果になってきた。

対策のための集会での説得力のない話しは

オウムにさえ顔を背けられるかも知れない。

「またか?それだけか?」

教会サイドの信徒たちでさえいらだっている。

言葉は空しい。

 

聖和された主と共にいるサッチャーは語るだろう

 

「宗教政策において

言ってほしいことがあるなら

宋や徳野に頼むがよい

だが 成し遂げてほしいことがあるなら

江利川に頼みなさい!」

 

アージュ