:17)どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
:18)あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
:19)また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
エペソ人への手紙 1章17~19節
キリストの花嫁(妻)たる教会は、花婿(夫)であるキリストの前では
どうあらねばならないのであろうか?
:22)そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
:23)この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
エペソ人への手紙 1章21~22節
以下のサイトにはエリザベス女王夫妻が、若かりし時と晩年の並んだ御写真が掲載されている。女王陛下は実質的なトップではあられるが、それでもご本人の位置は右ではなく左である。夫は国王ではない。主客正しく並んで大変仲睦まじい御写真である。
「フィリップ殿下がエリザベス女王に仕掛けたいたずら」海外の反応|暇は無味無臭の劇薬
サンクチュアリを指示する方が批判した独生女神学三位一体が少し前にアップされた。
三大王権・真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 문신준님 !: 非公認!とある一サンクチャリ人(びと)による「家庭連合の非原理的教育教材829」その二
三大王権・真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 문신준님 !: 非公認!とある一サンクチャリ人(びと)による「家庭連合の非原理的教育教材829」その三
今までに、見過ごされがちな事象がいくつか続いてきた。
御父母様の御写真が反転されて用いられ、左右逆に御父母様が立っておられる写真に改竄されていたり、本来お父様がお座りに為られる右の席に、何らかの妥当な理由が推測し得ないにもかかわらず、お母様が座られることが度々あった。
清平では御父母様の御写真が掲げられた部屋があったが、お父様の聖和後には、これがはずされお母様だけの御写真にわざわざ変更されていた。
これは、天使長主導の祝福式において新郎新婦が交換した祝福リングにも、同様な意図があると思われるような事態、すなわちリングの内側は以前は何も刻印されていなかったのに、お母様の名前だけがしっかり刻まれることになっていた。
お父様の聖和後、はじめて為された祝福では、お母様が祝祷をされたことを指摘する兄弟もいる。
女性が主体で男性が対象であるということを既成事実化するためか、善進様はご主人の右側に必ず立たれる。
誉進様以来このような姿を我々は見てこなかったことと思う。
本当に気の毒でならない。
いつまでこのようにしなければならないのであろうか?
お父様の聖和以後独生女神学によって牧会者は教育を受け、これを受け入れ理解した者が次々に教会に送り込まれてきたのである。どれほど現場に混乱をもたらすことであろうか。悲しいことである。
サンクチャリ人によって明らかにされたことは、本来原理講論によって説かれてきた三位一体の内容と、正反対のものに置き換えて、お父様ではなくお母様を主体の立場に据えて、お父様は対象挌位となってしまっているというのである。
これを太田朝久氏は反論解説できないだろう。
反論すればお父様を否定しお父様の敵になる。
肯定すればお母様を否定しお母様の敵になる。
にっちもさっちもいかない。
亨進様御自身ではなく、アメリカのリーダーによる太田氏批判で留まってくれて、
私は幾分ほっとしている。
日本人信徒は、全て上から下まで、基本的には、まるごとひとつの真の御家庭に侍るということと、侍義の信仰は決まっている。
真のお父様の指示でない限りは、特定の誰かの立場に立つ者ではない。
常に真の御家庭が一つに集い、神の御旨に集中できるよう支えたいと考えている。
神様は全てご存知である。
この難題をどのようにしてクリアするか苦悶してきた。
従って、このような事情や心情を知らない、また理解できない外国の信徒に単純に誤解されることは不本意であろう。
また、太田氏は動画で語る以上は、上司やスタッフとは違い矢面に立つ事になってしまう。
これほど大きな問題に膨れあがっている状況下では、もはや太田氏の立場に丸投げすることはできないのではないか?
自分を支えてくれた部下を守って差し上げるときではないのか?
太田氏をお父様や亨進様の敵にしてしまうかも知れないのである。
徳野会長は亨進様の言葉に感じて、今までの会長ができなかった、一部信徒のしでかした問題の責任を取って辞任したではないか?
会長自ら矢面に立つべきであろう。
我々が主の路程でお父様に学んだことの一つは、
心情とはどのような状況下に自分が置かれていたとしても
天宙復帰を任された公的な身であったとしても
価値なき者のために、一切の精誠を尽くすと言うことであった。
心情は決して見過ごさず見捨てない。
だが、罪心は見過ごし見捨てていく。
頭のいい人は組織防衛を訴えるかも知れない。
本当にそれで良いのか?
:14)キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
:15)数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
:16)十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
エペソ人への手紙 2章14~16節
キリストが
十字架によって、霊肉二つの体を一つにされるように、
お父様の御心は
聖和を頂点として 複数に分かれた体を一つの体にされることである。
それが叶わなければ無駄死になってしまう。
:12)わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
エペソ人への手紙 6章12節
桂小五郎の詩に託して筆を置く。
天道は未だ知らず是か非か
天道未知是邪非 天道は未だ知らず是か非か
陰雲四塞日光微 陰雲四塞して日光微かなり
我君邸閣看難見 我が君の邸閣 看(み)れど見難し
春雨和涙満破衣 春雨(しゅんう)涙に和して破衣(はい)に満つ
天道のはたらきが正しいか、そうでないか、まだわからないが、
今の世の中の状況は暗雲がたれこめてあたりいちめんを塞ぎ、
日の光はかすかにのぞいているにすぎない。
わが主君の邸閣はこわれて見る影もない。
まるで春雨がわたしの涙に和するかのように、
わが破衣をぬらしている。