原理講論を読む

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かくも情けない               8月全国会議 サンクチュアリ教会対策          2時間講義 レジュメ

8月全国会議 サンクチャリ教会対策 2時間講義 レジュメ

という文章が以下のサイトによって紹介された。

三大王権・真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 문신준님 !: 8月全国会議 サンクチャリ教会対策 2時間講義 レジュメ

 

私より先に読まれていた温厚な一般信徒の方が言われた。

「何が言いたいのかさっぱり分からない。ずれていて、ぜんぜん答えになっていない」

わたしはその方に尋ねた。

「何処か部分的にずれているようでしたか?」

その方は言われた。

「どれもこれもです。」

さらに訊いてみた。

「批判に対する反論はいくつぐらいあるのですか?」

すると、

「5つです」

 

それがこれから転記する以下の文章である。

上記の方の御意見で充分で、読めばもうお分かりかと思うが、

いくらか意見を青い字で書いて区別し述べてみた。

 

--------------------------------------- 

 


 「真の母」を重んじることが、「お父様」との一体化の鍵である
(「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」1コリント12・3)

 

私ばかりではなく、全ての信徒はこの聖句に異論はないであろう。

私はお母様がお父様の御心を尋ねて、御旨の先頭に立っておられるものとずっと信じていた。お母様の異変を指摘する者が現れ消えたが、心に響かなかった。

だが、亨進様が心情的に語られ始め、しかも詳細に次々に語られ始めるに至って、暗い心霊に一筋の光が差し込んできた。

我々が知らない間にサタン勢力がお母様をすっかり取り囲んでしまい、魔法をかけ、あたかも毒リンゴを食べさせられた姫が眠りに就いてしまったように、本来のお姿を活き活きと我らの前に現すことがなくなってしまわれていたのである。

何よりもこうしてお母様をお守りできず、苦難の道に追い立ててしまった自分に悔い改めを天が要求するままに、灰をかぶってひれ伏したい。

お母様!本当に申し訳ございません。

だが、お母様が勝利された、とりわけお父様が体恤された絶対心情を相続することができた多くの御子女様をお生みになられ、生活のほとんどを食口と共に過ごすため、僅かばかり残された時間で、立派にお育てになられた。

それ故、天の厳格な伝統をお父様が確立された一切を子女様に相続継承することができた。

どんなに感謝しても尽きることがない、真の母の責任を完遂された

だが、聖和以後、おかしなことがいくつも続いてきた。

あり得ないことである。

最近では、祝福リングの内側に、

今までは何も彫られていなかった(普遍性)のに、

お母様の名前だけ彫られていた。(特殊性)

何故、今まで何もなかった所に、突然お母様の名前だけが記名されたのか?

その意図は?

もしお母様がお父様と考えを同じくしているのであれば、

「直ちに今までのように直しなさい。私の名前を消しなさい。誰がこのような愚かなことをしたのですか?私の前に連れてきなさい。」

と言うようなことがあっても良いはずである。

ところが、そのような話は一向に聞くことができい。

1コリント12・3のイエス様をお父様に変えてみれば

聖霊によらなければ、だれも『お父様は主である』と言うことができない」

この言葉と矛盾してはいまいか?

ホームズや刑事コロンボやコナン君でなくても

不自然だと考えるのが普通である。

リングの問題は聖霊こそ主であるという意思表示と受け取ることができる

これは聖書の聖句と矛盾してはいまいか?



 1.サンクチャリ教会を支持するある人物は、「聖書の中に、メシヤが亡くなった後で、女性が相続することについて書かれているところはありません」と述べ、真のお母様が、お父様の聖和後、祝福家庭をはじめ食口たちを指導することに対し批判的に述べています。しかし、このような主張は、聖書に対する“無知”が生み出した誤った考え方です。聖書には、イエス様が十字架で亡くなった後、霊的真の母で高る「聖霊」が信徒たちを導いて指導していくことについて記されており、しかも聖霊によらなければ、だれも『イエスを主である』と言うことができない」と述べています。

 

相続することと、「イエスを主である」と証すことは全く別のことである。

この方は、一言で言えば「論点」が何であるかが、いやおそらく論点そのものの理解が希薄であるように感じられる

22日までにはまだ時間がある。以下の本をお薦めしたい。

 

論点思考

論点思考

 

 



2.イエス様は十字架で亡くなる前、十字架と復活の後、聖霊(霊的真の母)が信徒を導くことについて次のように語っておられました。「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。...助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ14・16-26)。また、復活後、弟子たちに現れたイエス様は、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたし(イエス)の証人となるであろう」(使徒行伝1・8)と語っておられました。これらのイエス様の預言通り、ペンテコステ以降は、聖霊がイエス様と共にクリスチャンを導いていくようになりました。

 

正しい聖霊であれば

「またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」

というようにお父様の御言葉への忠実な回帰を促されるはずであるが

実際には改竄や削減やお母様の位相をお父様の上位に据え付けるべく赤字の注釈までつける聖典になっている。

3.原理が教えているように、霊的真の母である「聖霊」を通じてこそ、クリスチャンは霊的に重生されます。ゆえに、聖書には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスを主である』と言うことができない」(Iコリント12・3)とあり、さらには「聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テトス3・6)と書かれているのです。

 

論点がずれている。だれもその聖句に異論をはさんではいない。

全文を通して、これほど論点がずれている文章にお目にかかったことがない。

御自身が一番分かっていての、よっぽど苦し紛れの弁護なのか、基本的論理に向かないかのいずれかであろう。

4.このように「重生」の役事は、真の父だけで成されるのではなく、必ず真の母を通じなければなりません。ゆえにイエス様は、「人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」(マタイ12・31-32)と警告しておられます。また、聖霊にあずかった者に対しては、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である」(ヘブル6・4-6)とも警告されています。

 

聖霊の役割と価値について異論を述べているのではなく、

聖霊自体が主の御心から遠ざかった際でも有効なのかを問うているのである。

5.イエス様は、地上での肉身生活において、実体の真の母を復帰することができませんでした。それゆえ原罪を清算することができず、十字架と復活の後で、霊的真の母である聖霊と共に「霊的重生」の役事だけを行うようになりました。新約時代は、霊的救いで終わったのです。しかじ再臨主であられる真のお父様は、実体の真の母を復帰され、原罪を清算する道を開かれました。それゆえ成約時代を迎えることができたのです。『原理講論』に、「イエス再臨以後の完成制約時代は、妻の時代、すなわち、雌牛の時代であることを知らなければならない。ゆえに、雌牛は、とりもなおさず、完成を象徴するのである」(321ページ)と説明されていますが、そこには示唆に富む、意味深いものがあると言えます。
   
真の母を重んじたいのはやまやまだが、肝腎のお母様に異変が生じていると食口は感じているのである

指摘のヨハネ14章16~26節聖句の前後を確認してみよう。

 

  :6)イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」

 

あくまで、イエス様が主体であり主役である。

それに対して聖霊は、主体であるイエス様に導く対象であり、脇役である。

 

 :16)わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。  

  :17)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。    

:18)わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。   

 :19)もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。

:20)その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

:21)わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。   

 :22)イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。   

 :23)イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。   

 :24)わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。   

 :25)これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。  

  :26)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 

 

  ここで大切なことは、

「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。」

つまり主の言葉を正しく守ることである。

だから、

「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。 

主であっても天父の御言葉に一致することを心がけておられ、見本を示された。

「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。」

だからこそ聖典が父の意思どおりに著されているか否かが、信徒にとって死活問題なのである。

 

 :27)わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。   

 :28)『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。   

 :29)今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。   

 :30)わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。   

 :31)しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

 

『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。 

主はそう言われ、その理由は

「今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。」

 

だが主は去って行かれ、帰ってきた再臨主は別人であった。

同じ主が来られなくとも、同じ使命を持った方が現れれば信じなければならない

それが現在の亨進様である

 

 
「天基元年」を「天一国元年」に変更したという批判に対して

1.真のお父様は、2010年に「天基元年」を宣布されました。そして2013年天暦1月13日の「基元節」を期に、真のお母様は「天一国元年」を宣布されました。そのことに対し、真のお母様は「天基元年」を「天一国元年」に変えたと言って批判する人がいます。しかし、真のお父様が進められた天の摂理は、常に真のお母様の勝利圏と共にあったという事実を踏まえて、そのことを理解しなければならないでしょう。

 

何故お父様が「天基元年」とされたものを、お父様の指示なく、あえて「天一国元年」にした理由の説明になっていない。

不自然であり、主管性転倒である。

宋総会長が説教を語ろうと題を決めたが、ご婦人が、私はあなたと一体であるし、私の勝利の支えがあるのだから、その題はこのように変更するけど、問題ないわよね。

そんな風に言われるだろうか?

不自然極まりない。

 

2.真のお父様は1977年2月23旦の聖誕日に「天紀元年」を発表されました。その日は「地勝日(天地勝利の日)」でもあります。そして次のように語られました。「きょう、陰暦の1977年の1月6日は私と妻の誕生日であり、また歴史的新紀元の年(天紀元年)を発表した日として、全員でそれを祝いました。全宇宙も祝ってくれます。事実なのです。それは天宙的新紀元が始まるからです。きょう、妻は34歳を越えます。イエス様は33歳以上行くことができませんでした。イエス様は、34歳の誕生日を神と共に祝いたかったのです。しかし、十字架のゆえにできませんでした。今年、妻は、34歳を越え、イエス様の33歳を越えていくことになります。ですから、そういう意味でも、きょうは最も記念すべき日なのです」(『御旨と世界』545ページ)

 

要点は何なのか?

「天紀元年」をお父様が発表された時も、お母様が変更したのであるのなら示して頂きたい。

3.真のお父様は1993年に「成約時代」を宣布され、「成約時代」を数えられましたが、その年の「父母の日」に次のように語っておられます。「きょうは第34回父母の日です。33周年です。33は完成を意味します。それは、きょうの父母の日はイエス様の年齢だということです。イエス様は、33歳の時に家庭をなすはずでしたが、十字架上で亡くなり、その立場をなせませんでした」(『祝福』1993年夏季号、55ページ)。そしてイーストガーデンで特別なお祝いをされ、お母様に指輪を送られました。「この前、イエス様の33回目の誕生日を祝いましね。・・・それで先生は、イエス様を解放して、イエス様が家庭を持つて43歳(2003年)になるまでに、完全な世界的基盤をつくらなければならないので急いでいるのです」(『ファミリー』1993年9月号、34~35ページ)

 

何が言いたくて引用しているのか理解不能である。

4.真のお父様は2001年1月13日、清平で「神様王権即位式」を挙行され、「天一国」を宣布して「天一国」を数えられました。「2001年1月13日を中心として、天一国一年、二年、三年に、天一国開門祝福聖婚式(2度目の結婚式)をしました。祝福聖婚式をしたので、天一国家庭において、真の父母が王の位置に立つことができるのです。それで、天宙・天地父母が四位基台を備え得る位置に立って天国に入っていけることにより、天国が開いて心情的一体圏ができるのです」(『後天時代の生活信仰』59ページ)と語られました。2003年はお母様の還暦でもあります。この2度目の結婚式の時に、アダムとエベが堕落せずに完成したなら行うはずの神様の結婚式をされ、婚姻申告、出生申告をされました。

 

だから何が言いたいのであろうか?

論理というのは、事実があって理由があって主張がある。

主張したいことは何?

主張がないから、理由も不明でわけが分からない。

 

 5.真のお父様は2010年2月14日、第43回「真の神の日」「神様王権即位式」9周年に天暦を発表され、「天基」を数えられました。そして、「1945年から7年間である1952年に終わるものを、キリスト教とカイン・アベルの国家、宗教が一つになって文総裁に反対し・・・歴史が延長したのです。2013年1月13日は、天一国の紀元となる日です。...摂理が掛かっている日付までに教育を完了し・・・すべて(の摂理)が終わるのです」(2010.2.14)と語られました。このように、お父様はお母様と共に「天紀」「成約時代」「天一国時代」「天基」を数えていかれましたが、「2013年1月13日は、天一国の紀元となる日」と語っておられたように、2013年1月13日「基元節」をもって「天一国元年」を発表され、「天一国」を数えていかれることは、お父様の御意であると言えます。
   
天一国元年」という言葉をお父様が使われている証拠を挙げなければ、「天基元年」をあえて変更しなければならなかった理由にはならない。


真のお父様の聖和後は、真のお母様を絶対中心として一体化すべきとき

「伝統はただ一つ!真のお父様を中心として!他の誰かの、どんな話にも影響されてはいけません。先生が教えた御言と先生の原理の御言以外には、どんな話にも従ってはならないのです。今、先生を中心としてお母様を立てました。先生が霊界に行ったならば、お母様(韓鶴子夫人)を絶対中心として、絶対的に一つにならなければなりません。今、お母様が行く道は、お父様が今まで立てた御言と説教集を中心として、行かなければならないのです。他の言葉を述べるのを許しません」(『祝福』1995年夏季号68ページ) 

 

あくまで、「先生を中心としてお母様を立てました」であって

お母様を中心に立てても

「お母様が行く道は、お父様が今まで立てた御言と説教集を中心として、行かなければならないのです。他の言葉を述べるのを許しません」

なのであって、そうでないときには、お母様であろうが

「真のお様を中心として!他の誰かの、どんな話にも影響されてはいけません。」

と言っているのである。

 

「アダムを中心として女性を創造した時と同じく、天の男を中心として女を再創造するのです。...世界的女性完成圏を代表した一人を中心として創造するのです。それを成してこられたかたがお母様なのです。先生の後にびったりとくっ付いてきたのです」(『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』77ページ、1992.7.1)

 

ところがそうではないという疑惑が次々に明るみに出てきたのである。

「これからは先生がいなくても、お母様ー人でみ旨に何の支障もないというのです。今までは、女性が天地を代表する摂理の代表者として立つことはできなかったのですが、父母の愛と一体的理想を中心として、はじめてお母様を中心とする女性全体の解放圏が地上に宣布されたのです。...ですから、先生が一人でいても真の父母様の代身であり、お母様が一人でいても真の父母様の代身です。」(同115ー116ページ、1990.3.27)

「お母様は私の影のようです。ついてまわる影のようなので、私は実体をもった主体の教主であり、お母様は対象の教主です。それで、私は第一教主、お母様は第二教主です。何を中心としてですか。愛を中心としてそうだというのです」(同116ページ、1990.5.6)

 

つまり、お父様を主体として、お母様が対象になっていれば、はじめてお母様は第二の教主の資格を持つことができるとおっしゃられているのである。

ところが・・・

「お母様を中心として皆さんが一体になっていかなければならない時が来ました。もう先生がいなくても、お母様が代わりにできる特権を許諾したというのです。お父様がいないときはお母様のことを思わなければなりません。...先生の代わりにお母様に待る心をもち、祈祷もそのようにするのです。今までは先生を愛してきましたが、これからはお母様を愛さなければなりません。...先生が第一教主であれば、お母様は第二教主であると世界的に宣し、天地に宣布します」(同116ー117ページ、1994.11.27)

お母様は第二教主を放棄して第一教主に出もなったかのように見えることが多すぎる。偶然にしては不自然である。

「先生が霊界に行ったとしても、お母様が地上にいれば、霊界と地上界の統一圏ができるので、いつでもお母様がいる地上に来て一緒に暮らすことができるのです。今、統一教会のメンバーの中にそのようなカップルがたくさんいます。一緒に生活しているというのです。誰も知らないところで対話しながら、『あなた、これはどうしましょうか』と言えば、すべて教えてくれるのです。『きようはどこどこでこのようなことが起きるから注意しなさい。このような男性が現れてこのようなことがある』と言えばそのとおりになります。そのようなカップルがたくさんいます。霊界に行ったとしても、地上にいる人と一緒に生活することができるのです」(同、117ページ、1993.10.15)
このように真のお父様は、聖和後は、真のお母様のところに降りて来られ、共に生活すると公式的に宣言しておられました。
一以上一


 お母様が対象各位におられてこそ可能である。  
また、子女様が若く後継者となる資格を有することができない時代の古い御言葉ばかりで、時代制約に拘束されるものと思われる。

二十年前には子女様たちはおいくつだったとお考えであろうか?
 
 
『天聖経』を改竄したという批判に対して

1.改竄しておりません。八大教材・教本『天聖経』と天一国経典『天聖経』は明確に区別されており、別のものです。そして、両者は共に重要です。どちらかが優れ、どちらかが劣っているなどと、比較することはできません。今も、八大教材・教本『天聖経』は各家庭で大切にされ、訓読されています。

 

私はこのような馬鹿げた編集をしてきた責任者が公的に何らかの処分をされるべきであると主張してきた。誰も責任をとらなければお母様の責任になってしまうと思ったからである。

だが、今日までそのように誰にでも分かることができないということは、反対に、誰も責任を追及できない方が主導してきたことなのではないか?(相対思考)と考えるようになった。

少なくともお母様の意向を汲んで編集されたとしか、残念ながら思えないのである。

2.どちらの『天聖経』も、共に真のお父様の御言です。天一国経典は、八大教材・教本『天聖経』と同様に、『文鮮明先生御言選集』から御言を抽出して編纂したものです。御言の改竄など、しておりません。「改竄した」と騒ぎ始めたのは、いわゆる「郭グループ」ですが、その批判は事実に反したものです。

 

天聖経は、お父様の意図とは別の意図で編集されたことは明らかである。

お父様の御心を無視して編集していれば、改竄と誰に言われようとやむを得ないであろう。



3.天一国経典『天聖経』は、八大教材・教本を生命視しています。天一国経典には、八大教材・教本が「人類のための遺言であり、永遠の人類の教材、教本である。霊界に行っても学ばなければならない」という御言が収録されています(天一国経典『天聖経』1449ページ、『平和経』991ページ)。このみ言が天一国経典『天聖経』や『平和経』に明記されている理由は、「八大教材・教本」を重要視しているからにほかなりません。

 

御言葉であるから、貴重ではあるが、サブリミナルにお父様以外の悪辣な意図をそっと忍ばせて、我々信徒を催眠術にかけるのは止めて頂きたいものである。

4.もし、八大教材・教本『天聖経』を改竄する意図があれば、八大教材・教本を回収し廃棄したでしょう。しかし、それは廃棄されず、今もさまざまな出版物に引用されています。前述したように、八大教材・教本が「人類のための遺言であり、永遠の人類の教材、教本である。霊界に行っても学ばなければならない」という御言は、天一国経典『天聖経』『平和経』に収められています。八大教材・教本が廃棄、改竄されることはありません。

元々の天聖経を2、3割に減らすくらいなら、最初から名前を別にして出せば良かったであろう。本来の収録文章が大幅に削減されているにのに、天聖経と名づけること自体が不自然である。

5.八大教材・教本『天聖経』には2000年以降の真のお父様のみ言が収録されていませんでした。お父様の聖和後、お母様は2000年以降の御言を含め、お父様の生涯全体の御言を整理していかれました。それは、「八大教材・教本」以外の御言を集めて、分派が「御言集」を作成して勝手に公表し、分裂と混乱を引き起こすことを未然に防ぐことになりました。事実、「お父様の聖和後、御言集を出そう」と準備をしていた霊的集団があります。

 

2000年以降の御言葉だけで別の聖典を作ればいいことは、小学生でも分かるであろう。

6.真のお父様は、「先生が生涯全体の結実として宣布した御言、それが『天地人真の父母定着実体御言宣布天宙大会』です」と語られましたが、この御言は、八大教材・教本『天聖経』や『平和神経』に含まれていませんでした。この結実の御言が天一国経典に収録されたのは、未来永劫に御言の伝統を残していくためです。

 

どうしても必要なら、元々の天聖経を増補して増補版を出版して、

既にお持ちの方には、格安で提供して差し上げても良かったことであろう。

7.『平和経』についてですが、真のお父様は生涯にわたって数多くの講演会をされましたが、その講演文も未整理状態でした。天一国経典『平和経』には、約180篇の講演文が収録されており、充実したものとなっています。お父様が人類に向かって宣布された講演文が一冊に整理されたことは、大きな歴史的価値のある業績です。また、『真の父母経』について。神様や人類にとって最大の関心事は「真の父母」です。その真の父母様の生涯の業績をまとめたものが『真の父母経』です。全生涯を体系的かつ最終的にまとめる作業は、お父様の聖和後でなければなりませんが、それを成し得るお方は、真のお母様以外におられません。
   
「真の父母経」の赤字で書かれた補足説明がお母様中心に書かれているという指摘がある。
 赤字での説明中には「独生女」や「第三エバ」という言葉が随所に盛り込まれているというのである。

多くの信徒が見る日が来ることであろう。
 
天ー国国歌を改窟したという批判に対して

1.真のお父様は2006年6月、聖歌3番(日本の聖歌4番)の「栄光の賜物」を天一国国歌として制定されました。この聖歌は、今も修練会や礼拝等で歌われています。ところが、残念なことに、韓国と日本では聖歌3番のメロディーが異なっており、国際集会等で歌うとき、いくら指導しても歌が揃わず乱れる現象が起こりました。歌の乱れは、お父様の聖和される頃、6年を経過しても続いていました。(おそらく、今も強く意識しなければ歌が乱れることでしよう。実に悲しく、国歌の威厳を傷つける現象でした。)

お父様が制定されたのは、メロディーが良かったからなのか?

歌詞に込められた心情圏が大切だったからなのか?



2.真のお父様は、天一国国歌を制定された時、国花(バラとユリ)、国鳥(鶴)、天一国旗なども定められました。現在の天一国国歌は、天一国を成す概念が盛り込まれ、人類が願う自由・平和・統一・幸福などの恒久的価値も謳われています。天地人真の父母様を称え、天一国ビジョンと願いが五大洋六大州と天宙まで満ちることを祈る内容です。また、天一国の象徴バラ、ユリ、鶴、天一国旗などが含まれ、「国歌」としての意識をもって力強く歌うことができる意味で、実に意義深いものと言わざるを得ません。

 

貧弱な歌詞は北の歌そっくりになってしまった。

 3.新しい天一国国歌は、韓国と日本のメロディーが一致した聖歌が用いられており、かつ、歌詞も「国歌」の意識を高揚できる内容があるため、全員が力強く声を揃えて歌い、互いに鼓舞しあうことのできる優れた国歌であると言えるでしよう。このようなことを成し得るお方は、真のお父様と完全一体となられた真のお母様以外におられません。

 

こんな歌詞がお父様の歌詞に勝るというのなら

何を言っても無駄なのかも知れない。

その他の批判を含め、総合的に留意すべきこと

 真のお父様は、お母様について、次のように語っておられます。①「私が死んでも(お母様には)統一教会を導くことができる能力もあるので、お母様が説教する時が来るのです。・・そのような時は、(お母様に)絶対服従しなくてはなりません。...千度決心すれば、最後まで自分一代でこの複雑な恨の峠をすべて清算するという決心が、私よりもお母様がもっと強いのです。...(お母様は)すべて掃除することができる主人になったので、先生よりもお母様をもっと重要現することができる統一教会の食ロになれば福を受けるのです」(『真の御父母様の生涯路程⑩』351~352ページ)

 ②「お母様を中心として皆さんが一体になっていかなければならない時が来ました。もう先生がいなくても、お母様が代わりにできる特権を許諾したというのです。お父様がいない時は、お母様のことを思わなければなりません。そのように理解して、先生の代わりにお母様に侍る心を持ち、祈祷もそのようにするのです。今までは先生を愛してきましたが、これからはお母様を愛さなければなりません。...ここにおいて、先生が第一教主であれば、お母様は第二教主であると世界的に宣布し、天地に宣布します」(マルスム選集265-310、1994.11.27)

 上述のような主旨の御言は、他に数多くあります。真のお父様は、真のお母様を第二教主として立てられました。私たちは、その真のお父様のご意向に絶対服従すべきではないでしようか。真のお父様は、「真の父母は永遠に唯一」であり、「空前絶後の父母」であると語っておられます。昨今、幾人かの子女様の発言には、そのような御言に反する言動が含まれており、実に遺感なことと言わざるを得ません。

 

サンクチュアリ教会の指摘は多岐に渡っている。

以下より引用する。

https://nqj17437.wordpress.com/

真のお父様の経典が変わる、天聖経の80%が変更修正、“真の愛”の部分は95%も変えました。これはすなわち、メシアが話された真の愛に対する話は間違っていたということですね、、。
天一国歌、お父様が拷問に耐えられながら血を流された興南監獄で、アンモニアや窒素によって肌が焼け、溶けていくような生活をされていたときに書かれた天一国国歌である栄光の賜物、それも削除、、。
家庭盟誓変更、旧約と新約と成約をつなげる部分を全て削除してしまい、清平をサタンのバチカンとして立てようとする行為、、。
聖婚問答変更、神様、お父様が人類に下さった約束と、血統を変更、削除。
摂理の唯一神を変更、今は、多神教、ヒンズー神、異邦神、多くの神が生じる、サタンの神学へと変貌してしまいました。
偽りの憲法委員会で原理講論排除。
*対象の立場から離れ、韓氏オモニが主体になろうとする。

-原理本体論の立場を離れ、自ら神様オモニ、メシアを宣布する堕落。
-メシアの血統に先立って、堕落した韓氏血統を立てる。
-メシアの血統とメシアが任命された後継者相続者を削除し、サタン韓氏の血統を高め、お父様の血統を削除し無視する堕落行為。

真のお父様の玉座を奪う。
-お父様の玉座に座る傲慢な堕落行為。

真のお父様の血統を祝福から除く
皆さんの前に自身がまるで皇帝のような姿で現れ、堕落した韓氏オモニとなってしまいました。

 

我々には守るべき何かがある。

しかし、それさえも捨て去って忠誠の証を立てる時がある。

 

忠誠を「大王世宗」44話の臣下に学びたい。

無難な道に毒されぬ為に。

 

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