原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

連帯罪の実例としての慰安婦問題       外的には適切ではないが 内的には適切であった

慰安婦については様々に意見が出されてきた。

ここでは詳細な事実に基づく検証をするのではなく、信仰を持つ者としてどのようにこれを捉えたらよいのかをいくらか考えてみたい。

例えば、軍が組織的かつ強制的に女性市民を、軍隊の男性の性の欲求のはけ口として、奴隷のように働かされたというような主張があるが、昨夜のプライム・ニュースという番組のなかで、河野洋平氏が例としてあげたオランダ人の裁判にもなったケースは、軍が全体として強いたという例証であるというのではなく、ある一部の部隊の個別的問題として生じていたという内容であったようである。(普遍性か個別性か)

残念な不祥事ではあるが、全軍的な規模で行われたというには、かなり無理があると思われる。

調査によって、アジア女性に軍人が暴行を働いたケースが発見されてはいるが、このような行為を軍が荷担し容認していたのではなく、当事者は犯罪行為をした者として、当時の軍規に照らし合わされて、処刑されている。

組織だった軍全体としての強制的従軍慰安婦という性の奴隷という事実は、済州島であったとされる事例の検証を韓国人記者が調べても、そのような事実がなかったことを知るに至っている。

偏向報道、否、悪辣なデマを既成の事実として捏造してきた、朝日新聞の謝罪した犯罪行為は、売国的行為であり、廃刊に追い込まれても不思議ではないほどの出来事であった。

日本人の名誉をどれほど傷つけたか知れない。

左翼思想をファッションのように纏った進歩的知識人と見られる人々は、同様に左翼思想に染まった朝日新聞の報道に同調し、善良な日本国民の判断を狂わしてきた。

戦時中、大本営の虚偽を後押しして国民の戦意を高揚させるために一役も無数の役も果たしてきた朝日新聞はデマを捏造するプロとしての手腕と伝統を確立してきた。

しばしばやらせの汚名を浴びせられる今日を招いた。

戦後、ドイツであればとっくに廃刊になって反省したであろうことが、日本においては全く実行されず、自分が一番軍国主義を支持していたにもかかわらず、大きな顔をして、過去のことをものともせず、今度は反対に戦争反対の大キャンペーンを続けている。

旭日旗そっくりの戦争高揚を支えるかのような朝日新聞社旗がその本質を物語っている。

朝日新聞社の総力を結集した事実として提供され続けてきた数十年間の情報操作による国民の事実からの乖離は、われわれ統一信徒においてもその多大な影響が及ぼされてしまった。

いくら左翼系新聞ではあっても、まさか根も葉もないことを大新聞が書くことはなかろうという油断があった。

国家を左翼思想で浸透させ、精神文化を転覆させる、国民の真の敵である朝日新聞の術中にはまり、翻弄され続けてきたのである。

我々日本人の美徳は、過ちがあれば直ちに悔い改め、誠意を持って謝罪することであり、法によって裁かれるとしても、自分が自身の始末を切腹でもってつける責任者の歴史的伝統があり、基本的にはそのような場を提供するものであった。

潔いことを美徳としてきた。

主の国である韓国との友好関係を日本が復帰し自由世界の紐帯を築こうと、相手の言い分や気持ちに歩み寄ろうとすることは、われわれ信徒にとっては至極自然なことであった。

私が大学生の時には現在のように、慰安婦問題を考える資料が豊富な時代ではなく、反証を探すのはむしろ大変なほどであった。

 

さて、江利川姉が韓国で慰安婦のために活動した頃は、われわれ韓国に歩み寄りたいと考えるような人々にとっても、おやっと思われる反証の情報がそれなりに出てきていた時期である。うる覚えではあるが私も違和感が当時あったと思うが、われわれ一般信徒にとってはその判断がその人物の力量において、天の願いとして判断されたものなのか、権威によって何らかの裏付けがあるものなのか判別することが、いつもできるわけではない。

また、人は一旦ある判断を下してしまうと、それに都合が悪い情報が入ってきても、すぐには一から考えることはせず、先ずは既成の判断との折り合いをつけようとするものである。なかなかその呪縛から抜け出しがたいものである。

同情するところがある。

 

慰安婦の問題は所謂、国家的「連帯罪」として広く捉えられてきた経緯がある。

どうやらその実例としては、そのままでは当てはまらないようである

日本人慰安婦の方が遥かに多かったことが知られている。

唯物共産主義思想がキリスト教思想を転倒して築かれたことは指摘されてきた。

同様に、中華思想を実は中国が世界の中心ではなく、我が国こそが世界の中心である。目覚めよとばかり、すりかえて本居宣長の中朝事実あたりから、中和思想のようなものが現れ始めたのかも知れない。

日本人は本気でアジアの人々が和人に転換できる、同化できると信じてきたのであろう。西洋式の侵略は、侵略国が支配者階級となり、支配された国の国民は隷属されてきた。ところが、日本人は宮城遥拝させ国民的体操をさせ、李氏朝鮮の圧政の中で無学であった庶民にハングルを普及させ、社会資本の充実に莫大な資金を投じた。数え上げればきりがないほどの恩恵を、併合された敵国によってかえって与えられてしまった韓国の悲劇があった。

七奪ではなく七恩、七恵だと指摘される有様である。

日本の江戸時代のように、身分は武士とは違っても庶民は飢えさえなければ暢気に自由に暮らして、勉学にも励めた庶民の成長は韓国の事情とは異にしていた。

下級武士もアメリカなどの世情を知って、我が国もかくあらねばと民主主義の洗礼を受けた。

李氏朝鮮下の圧政に国民は、まるでエジプト苦役時代のイスラエル民族を思い出すほどである。日本の併合という屈辱の支配の中の方が、祖国による統治よりもずっと人間らしい環境に移行ができたことは、誇り高い民族にとって胸が張り裂ける思いであったことだろう。ノミやシラミよさらばと保健衛生がはじまり、道路が鉄道が大学が、祖国の文字のハングルが国民に教科書がつくられ教育され、文字を読める国民に成長した。

 

さて、慰安婦だが、

心霊が漸次進歩した次の時代の法の基準によって、時代を遡り過去の時代の不手際を裁くことはできないことが知られている。

だが、われわれ信仰を持つものは外的規範の影響範囲に拘束されて生きているわけではない。むしろ内的規範である道義に生きるのが信仰の道である。

 

アメリカは旧約の律法の影響を受けて極端に弁護士が多い世界を築いている。

この点を考えると、慰安婦の問題は当時の合法的な範囲内に納まる内容であり積極的に非難するには当たらないとアメリカ人が考えても良さそうに感じられるだろう。

ところが、アメリカには新約の影響もあり、イエス様は「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5章28節)と語られたが、外的にはセーフであっても、内的に引っ掛かっていれば問題であると指摘された精神が生きてもいる。

これを慰安婦に当てはめると

軍が慰安婦(性の接待提供者)を必要とした。そこで業者は募集したが、実際の内容を伏せたものもあったことだろう。従事すると予想される女性は貧困の中の女性であることが多いことは容易に想像できたはずである。

しかし、軍は手を汚すことなく、しかし、当時としては充分すぎると考えられていた報酬を慰安婦に与えて、業者に委ねれば、当時の売春・買春はは何ら問題がないものと考え、性病について監督することに関心があるのみであった。

これを韓国での募集においても実行するならば、当然日本人の業者だけでできるわけがなく、同朋の苦しい事情につけ込んで私腹を増やそうとする韓国人の斡旋業者が必ず必要であった。

法的な手続きの範囲内で、売春・買春という行為ではあるが、当事者同士の自由な売買契約によって性の接待を提供、また受容できたのであるから問題なと当時の人々は考えたのであろう。

だが、キリスト教を基盤とする世界の常識にはこれは通じない

直接的に軍が集め管理しようが、間接的に集め管理しようが関係ない

これを従軍慰安婦かいなか判断するのは、外的強制力に依ったか否かを問題にするのではなく、合法性か否かに依るのでもなく、もっと本質的に我々の良心に依って判断すべき事柄なのである。

だれでも予想できるように、多くの事情を持った女性たちが

意に反して家族などのために、敢えて身を捨て、あるいは家族が本当のことを言えず、それゆえ業者にだまされたのだと恨んでその状況に堪えて来たことであろう。

人の弱みにつけ込むということであった。

どのような惨事が起こりうるかを予想できるにもかかわらず

こうして、慰安婦にしいているのは、キリスト教世界の人間にとっては、

まさに性の奴隷として強いているとみなされるのである

心の動機という内的規範によってみれば、誰も自分の娘をそのような境遇に連れて行きたいと考えはしない。

女性たちの心情と血統を粉々に蹂躙してきたのが慰安婦問題である。

韓国人が主張してきたような、外的な強制によって直接に性奴隷にされたのではないが、法的な手続きを踏まえて、しかも間接的に、相手の事情に強制力を発揮する形で、

結果としては間接的・内的に性奴隷と強いてきたと見ることができる。

 

そこで、われわれが謝罪し悔い改めるべきは、慰安婦が韓国人であれ日本人であれ、すべて平等に、絶対「性」を基準に、悲劇の女性には灰をかぶって天を仰いで為すべきことである

しかし事実は事実としてはっきり主張しなければならない。

 

私たち6,000双以前の信徒にとっては、日本人の美徳の潔さを持って、当時知りうる情報から、韓民族に対する謝罪と悔い改めを為してきた。

江利川姉だけが迷いの中にあったわけではない。

だが、本人の意図とは別に

内的な心情の発露としては、

それでも、絶対「性」によっては、当然悔い改めるべきであり

今後はそのようにありたいと考えるものである。

少なくとも私はそう思う。

 

江利川姉、強く雄々しくあってください!

天の父はご存じであられる!