原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

男性格主体の神の種が男系男子の血統として顕現

 

完成した立場は天地一体化家庭

地上と天上を統一し、心身を統一するのが責任分担の完成です。縦的な神様と横的な真の父母は一つだというのです。そこに統一された愛、天と地上を連結する愛、体と心が一つになった愛、男性と女性が一つになった愛が問題です。統一された愛の基盤を築くことができ、そこで初めて天の愛と天の生命と天の血統が連結され得るし、それの横的な拡大が八方に展開されることによって王権ができるのです。内容は簡単です。

天聖経 罪と蕩減復帰 第一章 蕩減・復帰原理の根拠

3)責任分担を完成すれば 

 

 

父である神がアダムを造られ、アダムの肋骨からエバが誕生したように、

終わりの日には、後のアダムであるイエス様の時も、同様の経過を取ることになると考えるのが自然であろう。

一なる神の種から分与された、一なる父の血統を持つ男女の誕生のことである。

男性格主体としていますということが種を持つ由来であり、その種から神の血統がアダムとして現れた。

その相対として生まれてきたエバはアダムの肋骨から誕生したことにより、当然アダムと同じ神の血統の継承者であった。

 

人類歴史の原初においては、

神の血統を継承した息子であるアダムと、同様に神の血統を継承した娘であるエバが、

時満ちて父なる神の祝福を得て結婚し家庭を持ち、聖なる神の血統を確立しなければならなかった。

 

では、イエス様の時はどうであらなければならないと、考えることができるだろうか?

神の血統はザカリアにあった。

父である神の代身に立ったザカリアの種を持つ息子イエスと、

同じザカリアの種を持つ女性が後のエバの使命を果たすべきであろう。

すると、イエス様の相対者として理想的であるのは、

ザカリアの娘であり洗礼ヨハネの妹とならざるを得ない。

 

お父様の場合も、本来はそのようにして出発してもいいものだと考えるが、

その辺の事情がわからない。

特に初めに予定されていた方と実際には同じ神が祝福した父を持つという共通点があっても良さそうに思えるのである。

それにしても文家は途中からキリスト教に改宗したのであって、ユダヤ教の伝統的家庭とはあまりに違う。もともと儒教的伝統の家庭である。

エス様の母マリアは処女懐妊で長子イエス様を生んだ。

忠母様はお父様を長子としてお生みになられたわけではない。

エス様の時の血統転換をただちに想像することは難しい。

簡単に比較して類似点を求めることができないことがいくつもある。

 

私がここで一番言いたいことは、

お父様が無原罪でお生まれになり、一方お母様も無原罪でお生まれになったとすると、二つの血統が主体となり相克するような、どちらかがどちらかをけ落とすまでは終わらないということにはならないということである。

お父様が主体でお母様が対象であるからである。

女性は対象であり、土壌である。

お母様は女性としてお生まれになられたので、

韓家の血統というのは、種と関係がないという点でいえば問題にならないのである。

男性の血統をどのようにそのままに子に伝えうるという重要な役割が対象としての女性の責任分担である。

エス様は譬え話を持ってどのように語られていたことだろうか?

 

:4)さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、

:5)「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。

:6)ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。

:7)ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。

:8)ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。

:9)弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。

:10)そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。

:11)この譬はこういう意味である。種は神の言である。

:12)道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。

:13)岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。

:14)いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。

:15)良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。

ルカによる福音書8章4~15節

 

この譬えは通常、御言葉を信仰によってどのように受けとめるかによって各自の実りが違ってくるというように説明されることが多いようである。

だが、この譬えはユダヤ教を信じるものに理解しにくいものであるとは思いにくい。

では、どうしてイエス様は

あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。

とわざわざお話になられたのであろうか?

二段構えになっているからではないだろうか?

 

「この譬はこういう意味である。種は神の血統(言)である。」

 

神の御言葉を受肉された御言葉の実体としてこられた方がキリストであり、そのことはそのまま神の血統であることを示している。

 

エス様の家庭を中心とする役事はあらゆる復帰摂理の核心が凝縮しているかのようである。

エス様とヨセフという外的アベル・カイン(外的とは血統を異にするということ)

エス様と洗礼ヨハネという内的アベル・カイン(血統は同じだが母は姉妹)

マリアとエリサベツという姉妹の女性版アベル・カイン

復帰摂理上神の代身となり、仮の父となったザカリアは、イエス様と娘が婚姻して真の父母となった後は、逆転して父が子になり子が父となり、自身が完全な血統転換しなければならないだろう。

ザカリアの娘も、逆転して母が娘になり娘が母になるはずであったことだろう。

 

エス様の父は神の父性、イエス様の母は神の母性。

ザカリアは仮の父であり、マリアは仮の母であろう。

何故なら原罪がない人間はイエス様が初めてであるので、ザカリアやマリアは真の父母とはなり得ないであろう。

ザカリアの血統は原罪が精算されていない。

そこでザカリアには存在しない神の血統をイエス様に相続させる為には条件が必要になってくるはずである。これが血統転換である。

人類始祖アダムとエバが堕落することがなく、人類の真の父母になるのとは違う。

エス様が相対者と結婚して真の父母となるのとは違う。

文鮮明韓鶴子が真の父母であるのとも違う。

当然といえば当然である。

ザカリアを復帰されたアダムとすれば、

マリアは復帰されたエバということができよう。

要は仮の父母でしかなく、真の父母は天に在すというわけである。

では、創造本然の世界では彼らは一体誰に当たるのであろうか?

 

ここからはSFの世界。空想科学小説である。

中学生の頃友人に勧められて、アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」を福島正美訳で読んだことがある。

天使とは何か?天使と人間の関係とは?に着目して

インスピレーションを展開して物語を描いた。

これに倣って若い頃こんな事を考えた。

 

神が人間を創造する前に、人間にそっくりの肉身を持つ存在を造られた。

彼らは進化論で言うところの類人猿ではない。

私はこれをBODYと呼んでいる。

つまり霊人体がない肉身だけの超動物的存在である。

霊界には人の霊人体に似せて造られた天使がいる。

二性性相により、この天使に対応する存在がなければならないだろうと考え、

天界の天使に相対する地上の存在を想定した。

これをBODYと呼んだが、私の言うBODYらしきものは聖書では「人」として出てくる。

 

主なる神は土のちりでを造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。

創世記2章7節

 

人=BODY

生きた者=永遠の命を持つ者=霊人体を持つ神の子

 

ギリシャ神話では人間を「死すべきもの」としている。

mortal beings

ヘブライズムは物質文明思想の源流であることから当然のことであろう。

BODYという英語の単語は、推理小説などで殺人事件があると、

「死体」を指す言葉で使われたりする。

私は、永遠の命を持たぬ存在として「BODY」を使うことにしたのである。

興進様がやって来られた時のBODYもほぼ同様の意味であろうか?

 

聖書の別の箇所には

 

:1)人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、

:2)神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。

:3)そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。

:4)そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである

創世記6章1~4節

 

人類の誕生にはこのBODYが関わっているのではないかというのが私の空想である。

人類は形状的にはBODYの父と母を通して生まれてくる。

ただしそのままであれば、生まれてくる子はBODYでしかない。

このBODYは神の子が誕生するための種がないので、良き土壌である。

そこで神の霊が直接BODYに及ぶか、あるいは間接的に霊的存在である天使がその役割を果たすか、いずれかが考えられることになる。

神か或いは天使がBODYのスーツを着て生まれてきたのがアダムとエバなのかも知れない。

神が男性BODYに入って女性BODYと結ばれれば、生まれてきたアダムは「生きた者」となり、

天使がBODYに入って入ってエバと結ばれれば、生まれてきたアダムと後孫は「死すべき者」となる。

 

そう考えると天使と人間の性行為が起きることが理解しやすいと思われるのである。

昔「ヘルハウス」という映画があって、霊能者が霊現象の起こる館に物理学者などと調査に訪れるのだが、霊能者の女性が悪霊と淫乱に陥るシーンがあった。

確かに天使長ルーシェルとエバの堕落もこのようなものだったのかも知れない。

このBODYの存在を想定すると、カイン・アベル・セツの相対者がどこから出てきたのかがある程度理解できるようになるのではなかろうか?

 

 :5)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。

:6)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、

:7)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。

創世記6章5~7節

 

人間は堕落することによって、万物以下の存在になってしまった。

神の子から転落して、人の娘と交わって、神の血統に混淫させてネピリムが生まれてきた。そこには暴虐しか見出すことができなくなってしまっていた。

 

人類始祖が堕落せずに完成して神の子としての威信を現していたとすれば、

神の子同志の婚姻だけが行われていたのではないだろうか?

BODYは永く生きてなならない。

使命を終えた後は絶滅して消えなければならない。

 

復帰摂理上でザカリアという復帰されたアダムや

マリアという復帰されたエバというのが現れてくるのも

このような神の子が誕生するためのBODYの父母が必要だからであり、

しかし、彼らがBODYと違うのは元々神の子として生まれるべき存在であったため、

滅びるのではなく、彼らを神が用いて神の霊によって生まれた神の子イエスによって、今度は血統転換され、神の子に引き上げられなければならなかったということである。

そこで、

父が息子になり、息子が父になる。

母が娘になり、娘が母になる。

エス様と洗礼ヨハネの妹の御聖婚のことであり、

真の父母の誕生のことである。

 

言いかえるならば、エス様は家族の霊肉の親

洗礼ヨハネは、ザカリアの霊の親になるべきであった。

そのためには、

1,マリアとヨセフの一体化→イエス様の家庭的存在基盤の実現

2,マリアとエリサべツの一体化→イエスとエリサベツの娘の近親婚の実現

3,イエスと洗礼ヨハネの一体化→宗族的イエス教団の実現

4,ヨセフとザカリアの一体化→ユダヤ教基盤相続の実現

 

私は常にほとんど原理講論のみで考察しているので、関連する御言葉を多く知っている信徒の皆さんの方が神からより正確で多くの示唆を与えられることであろうかと考える。

 

国進様が国に現れ、権進様がその後で権勢をもたらすというお父様の御心とは違って、今回の人事でも重要な役職には就いていないようである。

大変嘆かわしいことで胸が痛い。

 

聖和された真のお父様の祝福が皆様に与えられることを強く祈念するものである。

アージュ

 

<2017年7月7日 追記>

最近、ネピリム(ネフィリム)に関する亨進様の御言葉があった。

わたしの若い時には、肝心の「神の子たち」の考察が抜けている。

英語の聖書に慣れ親しんでいる人には、天使のことだと理解されたかもしれない。

わたしは原理講論にルーシェル以外の天使と「人の娘」に関する性行為の記述がないので、不問にしていた。

新しい原理を創りかねないからである。

問題の上記の創世記を手元にある英語の聖書(Good News Bible)ではどのようになっているかというと、創世記6章は

 

4) In those days, and even later, there were giants on the earth who were descendants of human women and the heavenly beengs. They were the great heroes and famous men of long ago.

5) When the Lord saw how wicked everyone on earth was and how evil their thoughts were all the time,

6) he was sorry that he had ever made them and put them on the earth. He was so filled with regret 

7) that he said, " I will wipe out these people I have created, and also the animals and the birds, because I am sorry that I made any of them."

 

新共同訳でも、「 the heavenly beengs」に当たるところの訳は、「神の子たち」となっている。

キングジェームズでは、「the sons of God」だからなのである。

だが、これは誤解しやすい言葉である。

少なくとも、人間以外に天に所在する神の子がいたように受け取られる可能性がある。

 

「人」というのは、狭義にはBODYのような肉身的存在であり、広義には堕落人間も含まれて使われる事があるように思われた。

 

エス様が使われた「神の子」という言葉も、天使ではないが天的存在としては共通性がある。

人間は堕落しなかったら地上に天的存在として生活することができたのである。

わたしが何故「神の子」「人」にこだわるかというと、

創世記 2章 7節に、

 

:7)主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(口語訳)

 

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。はこうして生きる者となった。(新共同訳)

 

土(アダマ)状態のアダム=肉身のみのアダム

鼻に命の息を吹き入れられたアダム=霊人体を持ったアダム

 

人はこうして生きる者となった。

つまり永遠の命を得た。

「人」には二義が存在する。

 

文亨進様の説教「待ち望む王国」 2016年12月18日より

嘘ではありませんよ。彼らはそこに入って行ってすべての王を殺さなければなりませんでした。彼らはその権力を排除しなければなりませんでした。彼らは丘の上に座ってエリートたちと一緒に支配して笑っているヒュドラやメドゥーサを一掃しなければなりませんでした。もしそうしなければ神様の命令に背くというだけではありません。それは神様が女も子供も一掃せよと命令されていたからです。跡形もなく消し去ってしまえと言われたのです。もちろんネフィリム(ネピリム)といったサタンの血統があったことも分かっています。
ドナルド・トランプも同じ状況にあるということです。

 

 

7月2日礼拝での国進様のスピーチより

 
聖書を読んでごらんなさい。エス様は神殿から両替商を追い払ったではないですか。荒野で数時間かけてそのためのムチをつくられたのですよ。しかも、とげの付いたやつです。それをいわゆる、武器製造と呼びます。聖書に載っていることです。王様の「王国シリーズ」の説教の中には重大なメッセージが含まれています。トレックに出発される前の説教でmurder(人を殺す)とkill(殺す)の違いを語っていました。ここには大きな違いがあります。エスキリストが死刑支持者だったということを多くの人は知りません。知っていましたか。
これは本当です。イエス様はある罪に対して刑罰を定めました。マタイ18章6節です。
18:06「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
マタイ18章です。イエスキリストは、エスを信じる小さな者をつまずかせる者は、処刑したほうがいいというのです。このことを知っていましたか。
 
そういうメッセージを抜き出さなければならないのです。キリストとの真の姿はどのようなものなのか。初臨のキリストと、再臨のキリストはほとんど同じ方と言っていいくらいです。キリストの周りの天使長たちがキリストの死後やろうとしたことは、初臨の時と、再臨の時でこれまたそっくりです。彼らは神の主権を唱え、神の権威を唱える極めて男性的なキリストの姿を何やら、はかない人のように描いているのです。異端の連合もまさに同じことをしているのです。真のお父様を女性化しようとしています。だから神の血統、神の王権を否定するのです。2代王も否定しています。文鮮明師とイエス様、真の天宙の主につき従う私たちのやるべき事は、私たちが想像し希望するキリストの姿ではなく真のキリストの姿に従うことです。
 
これは世界のすべての人にとっての挑戦です。正義であることの意味と本性。正義の本質とは何ですか。罪の本質は何ですか。キリストの義に立つことを願う者として必要な基本的理解です。正義を理解することは実は簡単なことです。それは神様の御旨に生きること、御心の内にいることです。それは自分の意志ではなく主の意志です。主の御旨の中にいるとき私たちは正しく、個人的な意思の中で生きようともがくときそれが罪なのです。これは私たちが神の御心に生きるとき、自分を罪から分離するときに理解しなければならない主要な点です。このように正義と罪を理解するなら、無神論者、異端者、左翼やフェミニストが聖書の中で問題視していることは、いささかも問題ではないというのです。それは終始一貫しているのです。
 
旧約聖書では、神様がイスラエルに、堕落した血統、ネフィリムの血統をもつ民の子孫を皆殺しにせよと言われたのも、特別な理由があるのです。そしてそれを実行することが神の民にとっての正義なのです。それは罪ではありません。この区別は重要なことです。われわれは道徳や人権を人間主義的観点から見るべきではありません。
 
道徳、人権そして正義は神様の意志と一致していなければならないのです人間主義と、神の御旨の正義との違いを理解するなら聖書の教えを一点の曇りなく、説明することができるのです。100%一貫していることが分かります。聖書歴史を通して神様は、同一のお方です。終始一貫した神様であり、嘘を言わない神様です。人間を本当に愛しておられる神様です。この言葉で、スピーチを終わりにしたいと思います。神様の御旨の中にある正義を探し求めて下さい。そうすることで、私たちのお父様に大きな喜びをお返しすることになるでしょう。

 

お二人の御言葉を読むと、

神の血統がルーシェルに踏みにじられ、サタンの血統が広がったと同様に、

別の天使の血統も広がったということを想像させる。

別の天使の方の子孫を先ず滅亡させ、次に本筋のルーシェルの血統を根絶させるという道筋だったのであろうか?

 

お父様はエデンの園には5人の男がいたと語られている。

神様とアダムと三大天使である。

いつの日か、その話とこのネフィリムの話の整合性がとれればと期待するものである。