原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

真の愛の起源 と 創造本然の神の喜びを求めて

 

天聖経 宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序 1)神の二性性相の大展開

①神様は二性性相の中和的本体 イ、神様は愛の中和的本体 より抜粋

 

 男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。 

 

神様が人格的な神であるように、神様は誰に似ているのでしょうか。神様は、アダムとエバを一つにしたそのようなお方なのです。二性性相の主体は神様です。男性と女性を雑然と一つにしたようなものではありません。一つに合わせたものですが、主体格を備えたそのようなお方です。この主体格の無形の神様の前に、主体格を身代わりして男性と女性が一つになり、その無形の神様の前に相対格位を備えて結ばれることが神様の創造理想を完成することであり、私たち人間、アダムとエバの理想を完成することになるのです。それ以外にはありません

 

 6,000双の祝福を受けて何年か時が過ぎ、我々はそれぞれ霊の子女を3人以上持つことができ、家庭を持つことになった。

だが、この時になって私は自分が何について人生で悩んできたのかを今さらのように思い出すことになった。

パウロの嘆きは、

:22)すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

 :23)わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。   

 :24)わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

 

 この神の律法と肢体の法則とは、私にとってアガペーとエロスに置き換えられるものであった。

私には祖父の記憶がない。祖父が死んだ時には「下町の名物爺さん死ぬ」と新聞の小さな記事になったという。何で有名だったのかは分からないが、ただひとつ父が話した祖父の話に、ある時東京中の芸者を集めたというものがあった。東京中というのは大げさにせよ。有名な芸者街の綺麗所をみんな集めてドンチャン騒ぎでもしたのであろう。

ご先祖様には申し訳ないが、聖書では暴虐の街ソドム・ゴモラで息絶えた類とあまり変わりがなかったのかも知れない。

それ故、自分も悪い血を引き継いで、引き裂かれた自己に悩まされた。

動物たちは愛と性に悩みなどなく暮らしている。

何故人間はそのようには生きることができないのであろうか?

真実の愛は、結ばれないところにしかあり得ないのだろうか?

私が好きな映画は、

ロバート・テイラーヴィヴィアン・リーが主演する「哀愁」

ハンフリー・ボガートイングリッド・バーグマンが主演する「カサブランカ

共に古き白黒映画である。

2本の映画の主演が演じるそれぞれの男性は、愛する人と結ばれることがなく、だが、一人の女性を永遠に愛し続けるようになる。

 

家庭を持つ前後で私が悩んだもう一つのことは、

エデンの園で失われてしまった神ののことであった。

神の至福歓喜を表すエデン

この神が失ってしまった喜びを自分のような者でも、どうにかいかばかりでも取り戻して差し上げることができないものだろうか?

「堕落の時と逆の経路」を繰り返し考えながら、ようやく辿り着いた結論が、

エデンでは愛の神様を除け者にして、神様に隠れて、二人だけで愛し合った

公的な愛を私的に扱い、愛の所有者から盗んだ

だから、復帰の道では反対に、私を排除して、神様に喜んで頂かなければならないはずだ

こう考えた。

では、一体実際にどうすれば、自分を排除して神様だけに喜びを捧げうるのであろうか?

男性なら誰でも知っている。

女性と愛し合った絶頂に精子が発射され、その時心も体も喜びに満たされることを。

相対者を神と共に愛する時に、私たちの初めの子供が受精される時の、

精子が発射される時に、私は心の中で力の限り叫んだ。

「神様。ただあなたこそが喜んで下さい!」

すると、不思議なことに、私の願いどおりに、私は全く喜びを感じなかった

ほんのかすかにも感じることはなかった。

あたかも神様を祝賀して打ち上げた大輪の花火が天空から消えゆく姿を見て、

確かに神様が受け取って下さったのだと感じるように、

自分の喜びが消え失せたことをもって

神様が変わりにお喜びになられたのだと信じたのである。

たった一度の経験であった。

こうして私は永らく苦しめられた愛と性の分離に、神によって解放され許しを得ることができた。今やすっかり矛盾は消え去った。

神は誉むべきかな!

私は既に霊的な突破を果たしたので、次の子にはもう必要はなかろうと、特別な意識をしなかった。神様と我々の三者で愛し合っているという実感があるからである。

だが、二番目の子の方が最初の子よりも信仰の試練が大きいことを見ると、同じようにすべきであったと思うようになった。

 

子供が1歳の頃、韓日祝福の在日韓国人の夫人に食堂で会い。

こともあろうにぺらぺらと、精子を発射する際に「神様。ただあなたこそが喜んで下さい!」と言ったことを話していた。

我ながらどうしてその夫人に自分の体験を話したのかさっぱり分からない。

特に親しいわけでも信仰について話し合うこともなかったからである。

当時、男性に話しても怪しまれただろうことを、こともあろうに女性に気軽に話している自分にも驚いたものだ。

正確な言葉は忘れてしまったが、彼女は意外にもこう言った。

「私もそれが本当だと思うわ。そうでなくてはいけないと本当に思うわ。」

こんな時、韓国人が選民であることを悔しいほど感じる。

今まで出会った、貴重なことを教えて下さった、在日の韓国人信徒を尊敬する。

私には彼女の言葉がそれこそ神様の言葉のように感じられて嬉しかった。

ただ神様の奪われてしまった喜びを自分にできることでなんとか取り戻したかった。

私はつい最近その事を二人目の人に話した。私の相対者である。

相対者の方がずっと遅くなったのだから、あの時は何が起こったのだろうか。

 

最初の子供が相対者の胎内にいた時である。

私たちも他の夫婦のように、子供の名前をあれこれ考えていた。

私はお父様から頂いた6,000双の指定の漢字のリストをもとに、ああでもないこうでもないと散々考えてみた。

お父様が子女様に名前をつける時は、天命を込めた意味を中心につけられているようである。また、子女様はすべて御旨の成就に連結されたお名前であり、個々別々に独立してつけられているのではない

それに倣って私も試行錯誤していた。

子供がいよいよ生まれそうなのに、私がもたもたしているのを相対者はたいそう心配していたらしい。

相対者はお母様の夢を見たのである

相対者は私がなかなか子供の名前が決められないので、そのことで騒いでいたようである。

するとそこを通りかかったお母様に声をかけられたのである。

「お前は何をそんなにあたふたしているのだ?」

「はい、お母様。~さんがなかなか生まれてくる子供の名前を決められないで困っています。どうしたらよいでしょうか?お母様がつけて下さいませんか。」

「それなら、~という漢字を使いなさい。」

 

夢の中とは言え、まったく図々しい話しである。

だが、私はそれは神の啓示だから、我が家の子供たちには必ずお父様から頂いた漢字とお母様から頂いた漢字を使うことにしよう。それを組み合わせて、父母様と我々夫婦の合作としよう。・・・ということになったのである。

~という与えられた漢字は、子女様の漢字を暗示させるものであった。

 

 

お父様の命名に倣って、初めの子には神の国の運命や将来という意味の名前、次の子には、初めの子が切り開いていく後で、具体的な実績を何らかの分野で神に捧げられれるようにと願ってつけた。

 

さて、以上の二つの話しを私はずっと個別のこととして捉えてきた。

子供たちが大きくなって、私の体験と相対者の夢が繋がりを持っているのではないかと思うようになった。

私の体験を血統転換に関連してお話しするつもりない。

だが、わたしには何としても神様がエデンで掠奪された愛と喜びを

取り戻して差し上げたかったのである。

 

私たちの天地人真の父母様によって、神は感謝すべきかな。

このようにして、私の霊と肉は真の愛によって統一されたのである。

 

「おまえたちは先生が下半身を主管することができないと思うか?」

「お父様、とんでもありません。あなたこそ生ける神の絶対愛です。」