原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

殺さんとして死後の美を称うるは           虎の皮を好むに似たり 

一体 この難局を統一教会は克服できるのであろうか?

ここ数回過激なことを言ってきたが・・・

胸のつかえが肩や首に回ったのか大変体がすぐれなかった。

久しぶりに図書館に行き、そこでじっくりヨブ記を読むつもりでいた。

ところが体調の変化はなく ひどいものでとうとう読むのを断念して、

ソファーに座って円い柱にもたれて 休もうとした 肩が張る首が思い頭がもやもやすると目を閉じていたらいつの間にか眠っていた。

図書館に来ている夢を見ていた。

借りた本を忘れたと引き返して戻ってきたところ、

四角い布の上に4~5冊の本が重なっているのを見つけた。

「よかった。あった。」とほっとしたら目が覚めた。

ぼんやり目を開けてみると、目の前の棚に並んでいる一冊の本の名前が飛び込んできた。

「もしや。」

SANCTUARY 

大きな美術全集のひとつであったか。美の聖域というよな内容の本であった。

ちょうど、中学二年生の日に京成電車の中で

メシアが既に降臨していると啓示を受けた時のように

天意を見させられた。

 

宋総会長はお父様と共にノアの家庭の蕩減復帰という摂理上の重要任務を果たされた。

ノアは家庭的メシアだった。

神と交わした契約の方舟によって 家族は救い出された。

次に神が願われたことは、勝利したノアと家族が心情一体の条件を捧げることであった。だが 彼らは失敗し、宋協会長たちは取り戻した。

さて、今お父様の心情はどこにあるだろうか?

120年間天に捧げたノアの忠誠をたったひとひらの心情で相続ができるという。

勝利された宋総会長に父の心が分からないはずがあろうか?

ありはしまい。

徳野会長はかって教会の全責任を引き受けて辞任された。

その時のきっかけは何であったか?

亨進様が職責になど一片の価値も置かぬ姿を見て悟ったのではなかったか?

そして、神は再び会長として選ばれた。

永遠の価値に導いて下さったお方が愛する天意に、今度は誰が恩返しすべきであろうか?

我々6,000双は、カインの氏族である。

それ以降の祝福と価値は変わらないが、使命は違う。

我々が原研だったころ、必ず見た映画の中に

「ブラザー・サン アンド シスター・ムーン

という映画があった。

フランチェスコは神の霊を受け、「野の百合の如く生きよ」とばかりに法王様に語りかける。法王は目を閉じて神の御心を尋ねるが、自分には多くの信徒がいて、お前のように身軽ではないから共に行くことができないと言う。

それを見た我々原研のメンバーは思ったものである。

何と不甲斐ないものか! と。

 

今日 お二人はその法王の立場に立つことになった。

神がこの日のために信仰のある者を選ばれたからである。

 

当時の私の学舎にはフランチェスコが兄弟に降りてきて、あなた方を守っていると言われた。

 

今までは教会の信徒が一つになるために、どの集団にも同様に神の霊が注がれてきた。しかし、いつまでもそのような配慮が神によって為されていく保証はない。

亨進様の説教のご様子を見ると、やがて全ての霊は亨進様に臨まれるよう結集していくことであろう。

タイムリミットがあるからである。

聖和前40日から悔い改めて我らは主とお会いするべきであろう。

確かに、亨進様の御言葉には、違和感のある解釈もある。

しかし、それらを差し引いても伝わってくる懐かしいお父様の面影。

 

 

日本統一教会の本部スタッフの健闘は天が覚えて下さっていることだろう。

だが、

モグラのように身を隠して暗い目立たぬ所で悪さを働く者たちは後を絶たない。

天の心情を受ける革袋は、新しい器としての人材を求めている。

モグラ叩きにも限度があろう。

祝福二世の若き牧会者を前倒しして就任させよ。

 

少なくとも120年は生きられるお方であった。

そのためにiPS細胞の発展が望まれていた。

一体誰が主の命を縮め奪い去ったのか?

我々信徒の優柔不断こそ元凶である。

 

李朝儒者 曹植(1501~1570)はこんな漢詩を書いた。

瀬尾文子「春怨秋思」より引用する。

 

春怨秋思―コリア漢詩鑑賞

春怨秋思―コリア漢詩鑑賞

 

 

偶 吟  曹 植

人之愛正士  人の正士を愛することは

好虎皮相似  虎の皮を好むに相似たり

生前欲殺之  生前に之を殺さんと欲し

死後方称美  死後の方に美を称うるを

 

人が正しい行いを愛することは、

虎の毛皮を好むのに似ている。

生きている時にこれを殺そうとして、

死後にまさに美を讃えているではないか。

 

まさか。亨進様までも葬り去られるのを見過ごすおつもりなら、

父と顔と顔をあわせてお会いすることができるだろうか?

心配申し上げたい。