原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

連体から見たアベル・カイン         僕である三天使を主管する神の子たる自己創造条件 と 堕落性を脱ぐための蕩減条件

 人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じであるそして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。

創造原理 第三節 創造目的(1)被造世界を創造された目的

 

ここでは連体は「目的」によって説明されている。

これを「挌位」から見てみると

あらゆる存在は何かに対しては「対象」であり、

また別の何かに対しては「主体」として存在していると言うことである。

この連体を神とその実子に即して真のお父様が語られた御言葉が

「父母の心情 僕の体」

ということであろうかと考える。

父母というのは主体であり「主人」である。

僕というのは対象である。

神様は父母の心情を持って天地を創造された。

人間の時間にして数十億年かけられたという。

人は神の前に先ず対象として存在し、然かる後万物に対し主体として存在する。

リーダーシップにはフォロアーを活かす環境を築いたり整備して支援する責任があることをこのことは物語っているように思われる。

またこのことから、人間は主体としての位置と状態で責任を果たす能力であるリーダーシップを発揮する前に、対象としての位置と状態で責任を果たす能力であるフォロワーシップを発揮する機会を持つことが要請されていると言えよう。

人間もあらゆるものと有機的な繋がりの中で連体として存在していることから、本来主体と対象の各々の要件を備えているというわけである。

劉備元徳は当初、桃園の契りにおいて関羽張飛と横的兄弟として結束し、天意の下に祖国創建の大志を果たし、言わば修身斉家治国平天下の三大祝福を得んと欲した。

 

「我ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」

 

正統な血統を継承する劉備は他の二人に諸葛亮孔明を加えて三者を僕である家臣とした。特に孔明を部下にする際は三顧の礼を尽くして愛と誠を持って僕である家臣に対する主管性を復帰した。

ここに横的な同志の関係から、縦的な主人・主君として立つこととなった。

さて先日ブログでモーセを中心としてアロンとホルが主体と対象に立ち、両側からモーセの腕を支え、さらにそのような下にヨシュアが実践の指揮を執って戦い、神の四位基台を形成し勝利をもたらした件を語った。

これを三国志に照らして当てはめてみよう。

神の愛する血統と心情の継承者がモーセであるのに対して

劉備元徳は漢の血統と心情の継承者であった。

モーセを左右の側近として支えていたのが、アロンとホルであった。

これに対して劉備を支えていたのは、関羽張飛の二人である。

モーセが全権の指揮を任せたのがヨシュアである。

これに対して同様に作戦の立案の参謀として、また実行の指揮を執ったのは、諸葛亮孔明であった。

モーセ以後ヨシュアは後継者となり御旨を進めた。

孔明劉備亡き後に後継者として歩んだのである。

然るに、我等が四位基台は試練のただ中にあるのだ。

どうやって闘おうというのだ。

神の四位基台には内外二つがある。

内的四位基台が真の御家庭である。

外的四位基台はアロンとホルとヨシュアに当たる三天使長である。

現在の摂理では、アロンとホルとヨシュアが何処にいるかが鍵を握っているのである。

では内的四位基台のそれぞれに当たる人物は誰なのか?

直接主管に至った真の父母様を神の座の中心にして

内的アロンが顕進様であり、内的ホルが國進様であり、内的ヨシュアが亨進様である。

エリコの城壁ならぬ清平の周りを

「真の父母様、6マリアは神の栄光!

 真の父母様、6マリアに永遠絶対感謝!

 真の父母様、6マリアは人類の釈放解放!」

と叫びながら7周すればサタンの城壁は崩れるであろう。

より厳密に言えば

我々が壊す城壁は物質的なものでも

霊的なものでもなく

我々と真の父母様を隔てようとする心情の壁である。

 

 

神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知らなかったはずもなく、また彼らが堕落行為を行わないように、それを防ぐ能力がなかったわけでもないと原理講論には記されている。

 

神が創造主であられるがゆえに、人間を主管し得る資格をもっておられるように、人間も万物を主管することのできる資格をもつためには、神の創造性をもたなければならないのである。したがって、神は人間に創造性を賦与し、万物を主管し得る資格を得るために成長期間を設け、この期間が満ちるときまで、人間がそれ自身の責任分担を遂行することによって完成するように創造されたのである。それゆえに、人間はこのような原理過程を通過し、完成することによってのみ、万物を主管し得る資格を得て、初めて万物を治めるようになるのである。
 そうであるにもかかわらず、もし、未完成期にいる人間を神が直接主管し、干渉されるとすれば、これは人間の責任分担を無視する結果となり、神の創造性をもつこともできなくなるために、万物を主管する資格も失うということになるのである。したがって、このような人間をして万物を主管せしめることは、不可能であるばかりでなく、未完成な人間を完成した人間と同一に取り扱うという矛盾を招来することにもなるのである。そしてまた、この人間に、その創造性を与えることによって、万物を主管せしめるように設けられた創造原理を、自ら無視するという結果となってしまうのである。それゆえに、原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う神は、人間を万物の主管位に立たしめるために、いまだ間接主管圏内にいた未完成な人間の堕落行為を、干渉することができなかったのである。

 堕落論第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由 

(三)人間を万物の主管位に立たせるために

人間は万物、特に万物の長である天使、その代表格である三大天使を愛によって主管して三位基台を、中心の自身を加えた四位基台を造成して初めて、中心に立つ神と同等の資格、すなわち神の子たる位置と状態を獲得することができるように創造されたというわけである。

真のお父様が歩まれた、「弟子(僕)を自分より先に祝福する」というアベルの正道の根拠になるところであると思われる。

苦労されて復帰されてきた命の御言葉を愛する妻子にではなく、赤の他人の我々に無償で与えて下さった主人意識と行為がある。

実体基台は、連体として存在している人間が、対象の立場で天使長の堕落性を脱ぐという側面と、主体の立場で神の創造性を完成して天使長を主管するという側面の両面を持っていると考えられる。

このふたつは表裏の関係である。

ところで統一原理では実体基台を堕落性を脱ぐための蕩減条件という側面を強調してきた。これは天使長ルーシェルが堕落してサタンになった際に生じた主管性転倒の悪性稟が備わってしまったので、これを最優先して克服するためであり、これによって地上天国建設のために邁進していく教会組織がサタンの侵入を防ごうというものであった。

これは当初の目的を果たし、我々が連体として存在する対象挌位の責任を果たすことに機能した。

そこでサタンは一旦自分に近く相対しやすい対象であるカインを離れ、カインからの試練を免れやすいように、アベルの責任をカインの責任ほどは強調してこなかった点に目をつけ、逆手にとって利用し、これに攻撃の矛先を変える戦術に変更していったのである。

言いかえれば、カインの信仰や責任をサタンが指示する側に回ったふりをして、アベルが天使長(カイン)を主管する為の自己創造を怠るよう仕向け、創造本性を復帰する道を閉ざす意図を持ってアベルを試練し始めたのである。

それに対してお父様はアベルの正道を唱えられて警鐘を鳴らして下さったが、その意を解せず神の御心とは似ても似つかない組織が現れるようになってしまった。

大変悲しい事実である。

三大祝福の第一歩である個性完成を目指して主人意識に立つ我々は、アベルとして立つために何が必要となるか?

相対思考を用いて自犯罪の試練の克服から個性完成を検討してみよう。

自犯罪には4つの内容があった。

1,神の愛と御言葉(戒め)を疑った・・・神の立場に立てない 不信罪

2,不義の欲望で不純な淫行関係・・・自己の位置を離れ別の神と淫行 淫乱罪

3,本来の秩序を乱し主体を抹殺・・・主管性転倒 殺人罪

4,罪悪世界の形成・・・罪の繁殖によって神の万物を奪う 強盗罪

 

完成したアダムが天使長を主管して実体基台を完成することであった。

アダムには天使長を主管する条件が4つあり、天使長には堕落性を脱ぐための蕩減条件が4つある。

 

天使長を主管する4つの条件

ヨセフが勝利した条件が天使長を主管する条件である。

 1,不屈な絶対的信仰・・・① 不信罪

(1)10人の兄によって3回の死の境地に立たされた

①木に縛られて3日間山中に置かれた

②穴を掘って穴の中に入れられた

③エジプトに行くイシマエル人の商人に売られた

(2)故郷と父母から強制的に離された

(3)エジプトで王の侍衛長の家で奴隷生活をさせられた

(4)エジプトで罪なしに牢獄生活をさせられた

(5)罪なしに悲惨な状態におかれても不平不満を言わない

2,淫乱の試練に勝利する・・・② 淫乱罪

ヨセフはエジプトの侍衛長の夫人の淫行の誘惑に勝利した

(アダムは堕落したエバの誘惑に負けたが)

3,恩讐を愛する・・・③ 殺人罪

ヨセフは10人の兄さん(恩讐)に対して仇討ちして殺さず恩讐を愛した

4,万物を贈与する・・・④ 強盗罪

飢餓状態の兄さんたちに食物を与え生かした

 

天使長が僕として責任を果たせなかった内容を克服するカインの道が

堕落性を脱ぐための4つの蕩減条件

アダムが神の実子として果たせなかった内容を克服するアベルの道が

天使長を主管する条件4つの条件

これを持って三天使を愛によって主管すれば神の創造性と主管性という創造本性を復帰することになる。

 

現在の内的摂理の中心は

アダム家庭で失われた

アダムとエバを父母とする子女である、カイン・アベル・セツとその各々の相対者の合計8人の8数を復帰して本然の家庭が復帰されることにある。

我々人類が永遠に救済されるために、顕進様と國進様と亨進様が真の父母様の下で一体化してサタンに奪われた8数を復帰する戦いに勝利して下さるよう祈りお支えする時なのである。

 

さて、私はチャングムを見始めたところだが

上位女官チャングムを指導していた彼女の師にあたる女官が、ライバルと宮廷料理の女官のトップの座を巡って競い合うことになった。

そこで師は右腕としてチャングムに補佐役を命じる。

ところがチャングムは味覚障害を起こしていて到底そのような大役を果たせる状態ではなかった。チャングムの失敗はそのまま師の失敗になる。

チャングムは辞退するも、師はいっこうに受け入れない。

競争に敗れた敗者は共に宮廷を去らなければならない。

それなのに保身に立たず、この師はあえて死の谷間をチャングムと共に行くことを決めた。

そして自分にもライバルにもない、料理を独創的に思い描く能力がチャングムにはあると述べ、そのために今まで厳しい修行をチャングムに課して、その才能の芽が開花するよう導いてきたという。

天使長ルーシェルはアダムの中に自分より優れたものがあることを見出しても、受け入れることができなかった。

だがこのチャングムの師である女官は、弟子の才能を認めるばかりか、自分以上にチャングムを祝福したい心情を持っていた。

 

アベルというのはカインを自分以上に祝福したい心情を持った者のことである。