原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

真なるキリスト教信仰と偽なるキリスト教信仰3 ブローシュ「キリスト教信仰」を参考に

ヒューマニズムは通常人道主義と訳されている。聞こえの良い言葉であるが、真なる信仰が神中心という神本主義であるとするなら、ヒューマニズムは人間中心という人本主義と表現された方が相応しい。

神中心ということは、我々人間が被造物であることから、我々の存在目的や人生の目的は我々自身の内にあるのではなく、我々を創造した神の側にそれらが存在していることを意味している。

神は我々人間が生まれ生活できる環境を築くために、身を低めて人間に仕え奉仕して来られた。神によって無償で愛されてきた人間の行く道は、当然自然にその愛に応えて一層仕え奉仕したいという心情の発露からなる行為が生じ、これを神本主義という。

サーバント・リーダーシップとは神自ら率先して実行されてきた精神と行動である。

神は自身の目的のために存在することを願われなかった。

神は至高の存在でありながら極小の最低次元の存在に奉仕し無形実体世界である天と、有形実体世界である地とを創造された。

私という存在に比して価値あるものを愛するというのではなく、愛する価値なきものを、身を低め、彼らの位置まで下がって仕え奉仕されることを真っ先に見本として歩まれた。

神の子たちの出現のために、そう人類が生活することができる環境世界を築かれるために、時空を超越して存在する絶対者である姿を放棄されて、時空の中に身を落とし込んで、全能の神が自らが立てた原理に従って、科学で言う数十億年もの歳月をかけて、御自身のすべてを投入して天地創造を果たし、人類の誕生の日を待たれたのであった。

そこでイエス様は「私は仕えるために来た」とおっしゃられ、文鮮明恵父は「父母の心情・僕の体」と表現され天父の伝統を継承されたのである。

神中心とは神が見本を示されたように、神の目的すなわち全体の至福に公的に貢献するということである。そのために相手の立場まで下がって行かれるのである。

何故神に万物の供え物が必要であろうか?

神の御言葉を失った人間が陥った堕落した位置は、神の子である位置を失い、万物よりも劣る存在になってしまい、それゆえ人間が神の前に立ち戻る道は、堕落していない万物の方が人間よりも神に近い存在となってしまったので、これを捧げこれを通して神に近づくしか道がなかったためであった。

ノアの方舟もアブラハムの三種の供え物も神のためにどうして必要なはずがあろうか?すべて万物は神のものなれば。

わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。

燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。

ホセア書6章6節

ブローシュは語る。

 真の信仰は、人の救いが人間の信仰ではなく、イエス・キリストにおいて啓示された神の迸る恵みにあると認識する。真の信仰は、神に向かう、人間の上昇にではなく、人間のもとへの神の下降にある。しかし、罪深き人間に対する神の謙卑は、人間の贖罪と高挙を目的としている。義認は、イエス・キリストの意志との一致を意味する、罪人の聖化を目的としている。こうした信仰的営みは、神と人間が契約の当事者としてふさわしく働き、人間の全生活領域を福音の支配の下に置くことを意図する。

ブローシュはヨハネによる福音書の9章39~41節に注目して、「自分が見えない状態であるのを認める人のみ、見えるようになるが、自分は見えると主張する人は見えない状態に陥るのである」と解説する。

39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。

41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある

神の目ではなく人間の目で判断する、人間中心主義が人本主義である。この人間中心主義はしばしば生命を重視する生命中心主義に姿を装って現れる。

神の子は生命以上の価値を求め実現しようとする、生命以上の存在であると神は考えておられるにもかかわらず、神の子たる霊をインスパイアされた人間が何故霊無き生命物質と限定されることができようか?

人間は神の似姿をもって創造された神の子である。

主は言われた。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

マタイによる福音書5章48節

人本主義は神を抜きにして、人間に対する奉仕を試みる。

アガペーが対象に条件を求めず、愛する価値があるか否かを問わず注がれる無償の愛であるもに対して、愛するに価するものを愛し、自分の立場に引き上げようとするエロスの特徴に似ている。

深い穴に落ちた人を自分が穴に降りて下から押し上げるのか、上から手を差し伸べて引きあげるのか。奉仕の違いが見られるということである。

 

ブローシュは語る。

 人道主義者は、下心のある動機によらず、貧しいひと、虐げられた人に届く愛についてはほとんどというよりは何も知らない。古代ギリシャの人にとって、エロスとして理解されている愛は、神性への上昇であって、キリスト教の愛を示すアガペーのような、脆さと欠けのある人間性への下降ではない。また、エロスがそれ自身の幸福や完全さを追求するのに対して、アガペーはそれを受けるに価しない隣人の幸福を追求するものである。さらにエロスは自分を富ませること、高めることであるのに対して、アガペーは自己を明け渡すものである。エロスが他者の助けを借りて、神の下で自己実現をすることを意味するのに対して、アガペーは自己を神と隣人に対して用いられるようにすることを意味する。

さらにルターの言葉を引用して

「自分自身の幸福を求める以上に、神の愛は幸福を溢れ出させ、人々に授ける。したがって、罪人は愛されているゆえに魅力的なのである。魅力的であるがゆえに愛されているのではない。・・・これが十字架の愛である」

 

さて、山本七平氏によれば我々日本人は日本教徒であるという。

キリスト教が神中心の教えであるのに対して、日本教は人間第一、人間中心の教えである。神無き人間中心主義の伝統に育った我々は、とりわけヒューマニズムを手放しでは歓迎せずに、その限界をよくおく用心して理解しなければならないことであろう。

ブローシュは他にも気をつけるべき疑似信仰の主義を解説しているが、わたしたち日本の統一信徒に特に重要と思われる以上3つについて述べることで筆を置きたい。

さらに詳しくはブローシュの本を参考にしてほしい。

 

「反キリストは、偉大な人道主義者に扮して現れるであろう。彼は、平和や繁栄や豊かさについて語るであろうが、私たちを神へと導く手段としてではなく、目的そのものとしてそれを語るであろう」(フルトン・J・シーン主教)