キリスト教信仰の大きな流れを見ると、律法によって義とされるという行義信仰をパウロが捨てて、福音中心の新約時代の信仰に変換した。これをルターがローマ人への手紙によって「正しい者は信仰によって生きる」という信義信仰に見出した。
その後、例えばウェスレーがルターのガラテヤ書講義を通して発見し、回心をするわけである。律法的信仰から福音的信仰へ転換するのである。
その辺の信仰の回心の事情が書かれているのが、ウェスレーの日記で、東洋に賀川存りと言われた、賀川豊彦がウェスレーの日記を翻訳しているようだ。
こうして福音的信仰すなわち信義信仰が日本に定着していくようになったのであろう。
賀川は以前このブログでいくらか触れた「宇宙の目的」という本などによって再評価されてきたという。
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彼の意図は評価し得るが、山口実の「ミネルバの森の哲学」の方がはるかに素晴らしい。祝福二世必読書である。
先日ご紹介したルター著作選集には、ガラテヤ書講義が何故か含まれていない。大変不思議なことである。
パウロからルターを経てウェスレーという流れを押さえたい方は、中央公論社の世界の名著シリーズ「ルター」を図書館で借りるか、古本で求めると良い。その中で、「キリスト者の自由」「奴隷的意志」「ローマ書講義」「ガラテア書講義」あたりを読むと良いのではないか。
ブローシュは「キリスト教信仰」の中で、以下のように語る。
信仰生活の目的は、自己の利益を神の栄光と私たちの隣人の幸福とに従属させることである、キリスト者は第一に神を優先させ、第二に隣人、そして最後に自分を位置付けるべきである。
為に生きるという観点からは頷けることであるが、
四位基台の中心には常に神が居られることからすれば、
キリスト者は第一に神を愛し、第二に神の愛する自分を愛し、そして最後に神の愛する隣人を愛する。
神によって許され愛される自分を実感するほどに隣人にも同様に自分が接することができるようになるからである。
特にネガティブな感情が優先されて現れる日本人にとっては、重要であり、自分自身の罪や問題を神と共に自らも許し受け入れなければ、隣人に対しても同様の限界が生ずることであろう。悲観的な発想の呪縛から我々は神の愛によって解放されなければならないのである。
われわれの関係があって愛が生じるのではなく、先に愛する行為が行われてその人がわたしにとって隣人になるという関係である。
先ず神が我々を愛して下さることから、信仰関係ができ、次にそのようになった我々が愛することによって信頼関係ができ、その方は我々の隣人になるのである。
イエス様は良きサマリア人の譬えでそのようにご教示下さったわけである。
自由というのは愛することによって価値を生もうとする意志とその行為のことである。
価値というのは創造本然の喜びのことであり、神の創造は喜びの創造と言われる所以である。
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
ガラテヤ人への手紙5章1節
D・ブローシュは「キリスト教信仰」の中で真のキリスト教を偽のキリスト教の6つの形態との比較検討から明らかにしようとされた。6つのというのは、律法主義・形式主義・人道主義・熱狂主義・折衷主義・英雄主義のことである。この本は100頁程のものではあるが、大変密度が高く本質的であり、各章において紹介されている信仰者たちの言葉もまた心霊的な彩りを与えている。
驚くべきことにこのような立派な本を書かれた著者の紹介が1行もないにもかかわらず、訳者に関してはカバー折り返しの内側に、名前以外で24行もの経歴と著著や論文の紹介があるということである。
訳者あとがきには12行にわたり著者の紹介があったが、カバーにないのは不自然の気がした。通常著者が先で訳者が後に並んで記されるべきであろう。
大げさかも知れないが、黒子であるべき翻訳者が主役を押しのけて出てきたような異常な事態になっている印象を受けた。
バプテスト教会の藤原導夫牧師によれば簡単には以下のとおり。
D.ブローシュ(Donald Bloesch):1928~、長老派の組織神学者、カール・バルトの元でも学び、ダビューク神学校で教え、カトリック・バルト神学・敬虔主義とも対話を進め公同的な福音主義神学の確立を目指し、「教会の改革的形成」他著書多数。
1,律法主義
律法主義とは、規則を表面的に守ることを言う。
イエス様は律法の完成者としてこられた。
ジョン・ウェスレーの興味深いエピソードをブローシュは紹介している。
18世紀に、キリスト者の生活指針として律法の有用性を強調したことで知られるジョン・ウェスレーは、追随者たちの間で律法主義が出現しないかと絶えず気を配っていなければならなかった。ある時ウェスレーは、ある紳士と昼食を取っていた。その紳士の娘は、大変美しく、ウェスレーの説教に特に感銘を受けていた。ウェスレーの仲間の説教者の一人ーこの人は、粗野で無骨であったーは、彼女が幾つかの指輪をしているのに気づいて、突然彼女の手を取り、高く挙げ、同僚に尋ねた。「メソジストのキリスト者として、この手はいかがなものか」。その若い娘はたいそう狼狽し、宝石類を嫌っていたウェスレーもその質問には困ってしまった。しかし、老練な伝道者、ウェスレーは静かに、慈しみのほほ笑みを投げかけながらこう答えた。「その手は、とても美しい」。その夜、若い娘は宝石を身につけずに礼拝に現れ、自分の生涯をキリストにささげる決心をした。
心霊の自由を標榜して起こった宗教改革の運動は、二代三代になって防衛的・律法的・過度に批判的になったという。
クエーカーは幾度となる殉教や社会的追放の中、あらゆる所で福音を大胆に証していたが、あっという間に失速していき情熱は消え失せ「信仰の実質よりも、行動の規範に関係のある事柄に埋没していくようになった」という。後期においては墓の上に墓石を置くべきか否かという議論まで出てきたという。
ブローシュは語る。
「真の信仰とは、私たちの罪にもかかわらずー私たちが私たち自身にではなく、私たちを罪から救い解放する神を信頼する限りー神は私たちを受け入れられる、ということを信じるものである。」
この律法主義は、イエス・キリストにおける神の自己啓示に照らして絶えざる再評価を必要とする指針の代わりに、融通の利かない原則に変えてしまい、教条主義や禁欲主義や厳格主義へと本来の神の願いに反して変質して現れるという。
パウロが強調した平安については以下のように語っている。
「平安とは、自らを罪人であると告白した人のみに与えられる神のゆるしを知ることである。信じる人に与えられた平安は、イエス・キリストの犠牲を通して神と和解しているとの確信である」
最近、亨進様が御自身を罪人であると説教で語られたことを思い出す。
上記にならえば、統一信徒の平安とは、真の父母様の犠牲を通して神と和解しているという確信である。
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
ローマ人への手紙5章1節
パウロの語った御言葉の火は16世紀、悩みの中にあったルターの心霊に火をつけることになった。その辺の事情をブローシュは語る。
パウロは、キリストとの救いの関係に入るために、律法主義と断絶しなければならなかった。16世紀にマルティン・ルターは同様にして、神との平安を得るために、道徳主義的な信仰の抑圧から自由になる必要があった。彼は、ドイツのエルフルトにあるアウグスティヌス修道院で、また、後にはヴィッテンベルクのアウグスティヌス派の宿舎で、修道士として模範的な敬虔と厳格な霊的訓練に基づいた生活を送っていた。しかし彼は、内的に苦しんでいた。パウロのローマの信徒への手紙を熟読して初めて、突然福音の真の意味に気づかされた。「正しい者は信仰によって生きる」(ローマー17)
それでルターは、修道院での自分の敬虔な業を、神の目から見て汚れたぼろ切れと見なした。功績を得る代わりに、禁欲的な生活によって自分自身の滅亡に言わば保険をかけていたのである。ルターは、「福音」に啓示された「神の義」(ローマー17)は、罪人の地獄行きを宣告する神の懲戒的な義ではないことに気づき心を打たれた。それは、神の恵みにおいて、罪人を「義」とするような神のゆるしの義である。ルターは、新しい理解への突入をこう述べている。「その時、私はあたかも新たに生まれ、天国の開かれた門に入って行ったかのように思えた。突然全聖書が、私に新しい側面を見せたのである。
ブローシュは、「とりわけ、ルター、カルヴァン、ツヴィングリを思い起こさせる宗教改革は、使徒パウロのキリスト者の自由についてにの理解の再発見を意味していた。」として聖句の箇所を3つ示した。それらを聖書から以下に引用する。
16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
18 罪から解放され、義の僕となった。
19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
ローマ人への手紙6章15~19節
12 すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。
コリント人への手紙Ⅰ6章12節
1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。
4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
7 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。
8 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。
9 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。
10 あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。
11 兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。
12 あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。
13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
ガラテヤ人への手紙5章1~15節
キリスト者の自由について、「自由は無秩序ではなく、神に従う自由である。私たちは、神の言葉に繋がれた良心に導かれており、この自由は、人間の伝統に縛られたあらゆる生活様式や行動様式と対比されなければならない」とした。
9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
マルコによる福音書7章9~13節
モーセの十戒に、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』があるのは、来るべきメシアである真の父母を予想させるものである。
神は原理によって被造世界を創造された。
神は自ら原理に従い服して生きることを選択された。
この原理とは具体的には創造理想、すなわち三大祝福に託された創造目的のことである。神の自由とは御自身が立てられた創造目的に服し、これを維持し発展させる目的性をもとより備えたものであった。
ルターは神に従う自由、服することを思い描いた。
しかし、神と人は主従関係という疎遠な関係ではない。
イエス様は人類史上初めて神様が我々の本当の父であられることを教えた。
父と子に何の隠し事があり、隔たりがあろうか?
天父の自由が三大祝福を実現させて地上天国を建設することにあったのであるから、
子である人間の自由は律法を守るのみならず、地上天国建設のための喜びの創造、価値の創造に用いられるはずのものである。
再臨主が真の父母として降臨された現代。
イエス様が殺されることによって地上天国建設の道が塞がれ、三日の地獄の試練をイエス様が勝利されて復活され、生きて果たすことができなかった神の御旨に責任を持たれて、イエス様が愛された弟子たちから、迫害の急先鋒に立っていた恩讐のパウロを伝道され、律法から福音の信仰の転換に導かれた。
御言葉(律法)に対する信仰から、御言葉の実体(メシア)に対する信仰に転換する時を得た。これを我々堕落人間の罪から捉えるならば、律法は自犯罪の予防や埋め合わせになるかも知れないが、これを100%全うした人生を送ったとしても、我々には依然として罪が巣喰い子孫にはそれが相続されていく。
原罪のことである。原罪を精算できるお方がイエス・キリストであられた。
そこで私の罪の精算のためにイエス様が十字架で私に代わって贖罪して下さったという信仰告白が、キリストを受け入れた証となるのである。
これは霊的にのみの救済で終わり、再臨時に霊肉ともなる救いが待ち望まれることになった。
新約時代は十字架が神の恵みとして使命を果たしてきた。
しかし、十字架の道は当初の神とイエス様の目的ではなかった。
そこで「天国は近づいた」と言ってはじめはイエス様も伝道なされている。
地上に天国を創る道を閉ざした十字架は、神にとってもイエス様にとっても恩讐であった。
今日神は「使命を終えた十字架を教会から降ろせ!」と命じておられる。
律法の成就のため福音がもたらされたように、福音の成就のため神の心情が相続される再臨の時を我々は迎えている。
神様に対して、父よと呼びかけることができる心情の体恤、それが父の臨在だからである。神が住まわれる宮殿は真の家庭である。
また、律法の厳守は人間の責任分担に関することが中心となっているのに対して、福音は神の責任分担であるメシアを地上に降臨させることに関係していると見ることもできる。
仏教は自力による悟りの教えであるが、キリスト教は他力である神の愛による救済の宗教である。これらは対立的な概念ではなく、相補的なものである。
他力である神の責任分担が95%であり、自力である人間の責任分担が5%で会わせて100%となるということであった。
厳密には自力のなかの多くを占めるのがメシアを受け入れるということであり、それが良き知らせであり、信義信仰となり、教えを守ることは前者を主体と見れば対象的要件となる。
内村鑑三はキリストの一つの体としての教会を求めて苦悶して、無教会に至った。
ウェスレーも同様に悩んだ。
再臨主として降臨された文鮮明恵父と韓鶴子恵母は真の父母様として神から人類に遣わされた。
イエス様が十字架によって地上天国を実体的に建設する道が塞がれてしまったので、せめて霊的神の国を建設する為、パウロを用いて律法から福音に信仰転換した。
現在、福音からの転換をキリスト教は求められている。
では如何にしてキリスト教界はパラダイム変換しなければならないのであろうか?
真の父であられる文鮮明恵師はかくの如く語っておられる。
内村鑑三も心して霊界で聞くがよい。
これは我々の如きものではなく、本来内村やウェスレーが聞くべき言葉であれば・・・
11 キリスト教は、家庭教会の看板を掲げなければなりません。長老派であれば長老派家庭教会、ベリータウンであればベリータウン家庭教会とするのです。教派を変えなさいというのではなく、そのままつけてもよいのです。イエス教家庭教会としてもよく、長老派、メソジスト派、ホーリネス派、すべてそのままにして家庭教会とするのです。このようにすれば、メソジスト派だとか何だとか、一つ一つ自動的にすべてなくなります。キリスト教のイエス教だとか、旧教、新教もすべて一つにならなければなりません。
新天聖教 第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ 第一章家庭教会 家庭教会は世界連結の基盤 P950~951