原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神の性稟は統一性 サタンの属性は党派性

:3)すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、

:4)「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。

:5)モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

:6)彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

:7)彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

:8)そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。

:9)これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

:10)そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。

:11)女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

ヨハネによる福音書8章3~11節

 

宋総会長と徳野教会長は二人とも、絶対基準で判断される亨進様によって厳しいお言葉を頂いた。

しかし、亨進様がお母様を支えようとしているように、お二人がお母様と亨進様にお仕えする心は今も昔も変わらず確固たるものがあるであろう。

この道を歩む中で、公然とお父様に非難されたり、お母様や子女様に非難されれば、全世界の信徒を敵に回しかねない。針の筵である。

しかし、そういう中にあっても亨進様に弁解はせず、一刻も早くお母様と亨進様が一緒に御旨に邁進できるよう、静かに歩む・・・このお二人にはそういう信仰があるのだろう。お二人は実際にはお母様の指示の元に歩んでいる。

 

 :15)そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。

:16)そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。

:17)それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

:18)イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。

:19)税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。

:20)そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。

:21)彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。

:22)彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

マタイによる福音書22章15~22節

 

ある者は亨進様を敬愛して共に歩もうとする。

またある者は顕進様を敬愛してやはり共に行こうとする。

すると中には、お母様のグループこそ正統だと主張する者があらわれたり、亨進様だと言う者が現れたり、いやいや顕進様だと訴えるものが出たりする。

こうしたことを見ると、なんだ分裂教会ではないかと言われるかも知れない。

確かに表層的に目に見える現象に目をやればそのように映るのかも知れない。

では本質的にはどうか?

私は誰についているかは正統であるかどうかを決するために重要なのではなく、真の御家庭の方々が本来の一つのお姿になるために、現在お仕えしている方を如何に導くことができるかが大切である。

であるから、バラバラであるということは見方によっては働き所があるというものである。どのグループがアベルであるとか正統であるとか、誰と共にいるからアベルだとか正統だとかいうものではない。どこのグループにいようが、誰を敬愛していようが本質的には関係ない。

如何にして真の御家庭が本来の姿を取り戻すことができるか、そのために今仕えている方にどう侍るべきかを神に祈り求めて歩む者は、何処にいようとアベルであり、正統である。神の願いが達成されるために無くてはならない存在であり、ポジションなのである。

ところがサタンの属性である党派性をむき出しにすれば、歴史の結実である神の悲願であった「四位基台」が崩壊してしまう。これまで計り知れない苦労をされてきた神の努力が水泡に帰すことになるのである。

その結果その者は神の恩讐になってしまうのである。

宋総会長や徳野教会長が亨進様の発言を甘受し真の御家庭のために変わらず至誠を尽くされることを期待して止まない。

 

神山氏が除名されたようである。

名誉会長も剥奪されたと聞く。

神山氏の問題は、お母様がお父様と一体ではないということの証明のために用いた内容の選び方が不適切であったことから、お母様を普段から軽んじていたと推測されるところにある。

神山氏が選び抜き得意になって公衆の前で証言した、お父様にお母様が一体化していないという主張の根拠となるエピソードのことである。

ラスベガスでの責任者会議において、お母様がトイレに行くため立ち上がったので、お父様がここで用を足してでも動いては行けないというようなことをおっしゃられたが、お母様が振り切って行かれたことを「でも振り切って行っちゃったよ。振り切って。それをわたしは見ていたんですよ、ずっと。」と神山氏は非難するように語った。

神山氏の論理の帰結するところは、お父様と我慢して共にいて信徒の前でお漏らしすべきだというのである。

この論理に正当性をもたらすために、用意周到にもお父様が神山氏にそこで語ったことを講演では付け足すことを忘れなかった。

 

「神山!お母様とお父様とどっちが正しいんだ。どっちが正しいんだ。」

私は答えたくなかったよ。答えたくなかったから

「正しいです。」

って言ったんです。

「どっちの立場で言ってんだよ、この野郎。どっちの立場で。」

だからもう言わざるを得なくて、

「お父様の立場です。」

お父様はほっとしたような・・・

 

さて、お父様にお母様が一体化していないことを証明するために、このような事を持ち出して証明しようと考える者が統一教会に他にいるだろうか?

いるはずもない。それどころか反対派の人間だって、このような素材を持って同様のことを証明しようなどとは思わないであろう。

何故なら、こんな事を題材にして論証しようとすれば、論証以前に本人の人格が疑われ、証明以前に論理の成立が困難になるからである。偽善者であってたとしても、善人に見えるよう細心の注意を配ることであろう。

パリサイ人もそうであった。

 

「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。

:17)それで、あなたはどう思われますか、答えてください。」

 

だから、あのような話しをメインに据えることなど決してしないだろう。

結局のところこのような論証の仕方は、事実を根拠として論旨を展開し、ある主張を訴えるという筋合いのものとは違い、お母様を馬鹿にしているという以外には誰が見ても受け取ることができないものであることは、明白で疑いの余地のないところである。

したがって亨進様の最近の言動と比較して、「ああ神山氏の言うとおりだ。」と考えてはならない。本質は全く違うのである。

亨進様は侍義を貫かれている。

しかし、神山氏は侍義とは関係がないと私は思ったのである。

顕進様がどれほど親孝行な方であるかは神山氏はよく知っておられることであろう。

お母様と御子女様が以前のように共に暮らせる日が来ることの妨げにならないよう努力して頂きたい。父の御心に立って顕進様にお仕えされることを祈る。

顕進様が相応しい場所で本来の実力を発揮できないでいることは大変残念である。

 

イエス様がお受けになった試練、例えば姦淫をした女に石打の刑を与えよとせまる者におまえはどう思うのだと迫られ、「汝らの中より罪なき者から石持て打て」とか、ローマ帝国に税金を納めるべきか問われ「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と答えられたようなものは、ある意味で「おまえにも党派性があるだろう。サタンの血族の属性だから」という試練であると見ることもできる。党派性があることを認めた結果は分裂をもたらすのである。

 

イエス様の教訓をどのように我々は活かすべきであろうか?

たとえばある兄弟が別の兄弟の課題について話してきたとする。

「誰々さんはこういう点が困ったところで問題だと思うんだ」

その言葉が心底兄弟を心配して差し上げているなら、そう言うことがあっても別に差し支えないであろう。さらに、分析評論するだけではなく、そのために何を自分がして差し上げることができるか。そう考え行動を起こせる人は幸いである。

しかし、蛇は言葉を持って誘惑し我々を絶えず堕落させようとしている。そんなことを考えるならば、どうしたら良いであろう。

仮に上記の言葉に明らかに非難のニュアンスが感じられ、同意したくはないが、拒絶して会話の相手との関係を壊したくもない。はてどうしたらよいだろうか?

これもイエス様が受けた試練の二律背反の性格に似た、しかし小さな小さな我々の日常の問題である。

あなたならどのようにイエス様にならって答えることだろうか?

「なるほど、君はそう感じたんだ。」と感情を肯定的に受けとめて、善悪の判断と同意に言及しない方法もあることだろう。

授受作用は切らないが、党派性を表さない現さない。

パウロはこのことをよくよく体得していたようである。

我々もかくありたいものである。

 

韓国では元暁というお坊さんがやはりそういう心情圏に立っていたようである。

一つにそういう背景があって真のお父様がお生まれになったのではないかと考えている。元暁についていくらか後に書いてみたいと思う。

 

次は真の信仰とは何か、見せかけの偽の信仰とは何かをあるクリスチャンから学びたいと思う。