原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

主礼とは誰か? 神の祝福は如何にして相続されるか?

 

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

ガラテヤ人への手紙2章19~21節

 

 聖和以降の祝福において、

「誰が主礼でしたか?」と誰かに尋ねられたとしたら、

恐らく私は「お母様でしたよ」と答えるのではないかと思う。

何しろ見えるのは立っておられるお母様だけである。

そうなるのが普通であろう。

ところが同じ質問が厳密な意味において、神の祝福が主礼の誰から誰に相続が為されたのかと質問されていると、前もってわかっていれば、

「主礼はお父様でしたよ」と答えることだろう。

 

お父様が地上におられる時は、お父様が中心になって為されていることは疑問の余地がなかった。見たままのとおりだからである。

主礼というものが、神に代わってその祝福を授けるものであり、これを真の御父母様が執り行う際には、お二人の勝ち取った勝利圏をも伝授するものである。

その伝授の方法は按手をして祝祷をするのがキリスト教の伝統であるが、

女性の掌と男性の掌を交互に重ねて、一番上にお父様の掌があり、一番下にお母様の掌があるという意識の中で、神の心情と血統の相続者である男性の主礼によって祝祷が為される。お父様である。

 

祝福は、主礼であるお父様の祝祷によって、それを相続されると信じた者が継承することになる。

録音による祝祷は無効であろうか?

パウロは自分が実際には十字架に磔けられたわけではない。

それにも拘わらず「わたしはキリストと共に十字架につけられた。」

と言ったのである。律法によって死にキリストに対する信仰によって生きたのである。

もし会場に流れる真のお父様の祝祷を聞いて

「生きているのは、もはや、わたしではない。真の父が、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた真の父を信じる信仰によって、生きているのである。」

と確信するならば、祝福の恩恵に与らないことがあるだろうか?

「亨進様から全食口へのメッセージ」というブログによれば

亨進様は以下のように考えておられるという。

 

<現統一教会の祝福式に対する亨進様の認識>

サンクチュアリ教会の見解です。

お母様が2013年以降行われた祝福式(基元節以降)は

① 真のお母様が真のお父様の絶対対象としての立場を離れておられる。
② 真のお父様から一人で祝福を行う権限を授かっていない。
③ 真のお父様が使用された「聖婚問答」を改ざんされた。

などの理由で効力がなく、
そのような行事に参加された方々は、祝福中心家庭として認められません。

 

亨進様は主要国の兄弟からその国の教会の情況を把握していると語られているが、肝腎の情報源である信徒の報告の仕方によっては、あたかも山ごもりのような修行の生活をされていたので、誤解を生じかねない状況であったことが推測される。

報告者の心霊基準や御言葉の理解度、またそれ以前の問題として客観的事実とそれにもとづく報告者の主観的判断を仕分けして報告することが望まれるところだが、適切になされていたのであろうか。

その報告の仕方がバイアスを生み、亨進様の判断に影響を生む可能性があることだろう。伝言ゲームのように歪んだ情報が子女様に伝えられないともかぎらない。

祝福という言葉を祝福式とその式典の中心行事である祝祷にわけて考えていきたい。

 

「① 真のお母様が真のお父様の絶対対象としての立場を離れておられる。」については、われわれがどうのと言える筋合いではない。

 

祝福の式典に関して考えてみると、お母様が実質的な主礼であったとすれば、

お母様自らが祝祷をしてもおかしくなかったと思われる。

お母様には女性が祝祷をしても違和感がない経験がある。

 

腹中教の教主が獄中にいる際に留守中の教団の一切の責任を負かされて母親が、お母様を呼んで祝祷によってお母様を祝福したのである。

 

恐らく女性の信仰の勝利者はその勝利圏を別の女性に祝祷を持って相続させることができるのであろう。これは血統というわけではない

お父様による祝祷は血統と心情の相続である。

血統は男系によって為され、女性によって受け渡しされる

お母様が祝祷をせず、お父様の祝祷を用いたということは、ご自分がお父様の対象挌位に退いたということである。

主礼の位置をお父様にしっかり譲られている。

 

「② 真のお父様から一人で祝福を行う権限を授かっていない。」については

そのとおりである。

そこでお母様だけではなく、式典に臨在されるお父様と共に、またお父様が主役であるために、お父様の祝祷をあえて用いておられるのである。

大変賢明であると思われる。

次に大切なことは信徒がお父様の祝祷と心情一体の条件を成就することができるかである。当然全ての信徒はお父様が実際に生きてその場におられる場合と寸分のかわりもなく、祝福を信じ感謝したことであろう。上記の聖句の如くである。

では、霊界におられるお父様はこの録音の再生による祝祷を、実際にご自分が肉声を持って発する祝祷とみなして下さることであろうか?

お父様の意思はどうであろうか?

全世界からお父様を求めて集まってきた信徒に、我関せずとし会場に臨まれることも、無関心を装うこともあるとは到底考えられない。

「見て善しとされた」のではあるまいか。

そう考えるのが自然であろう。

 

ヘブル人への手紙11章1~3節には

1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである

2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

 

もし、お母様が主催した祝福式での「録音による祝祷」では不備であるという者がいるなら、何故であるかを説明しなければならないだろう。

 

「③ 真のお父様が使用された「聖婚問答」を改ざんされた。」については、

 このブログの「聖和以降の祝福について」で見解を語ってきた。

聖和以降の祝福について - 原理講論を読む

 

お父様が作られた「聖婚問答」を変える必要性はないと私も思うが、変更後の文章は「改竄」と指摘されるほど悪意に満ちているとは思えず、基本的にはお父様の文章の内容にそったものであることがわかる。「変更」とは言えても「改竄」に当たるものとは思えない。

また、「聖婚問答」は「家庭盟誓」を象徴するものであると思われる、部分的表現である。従って本質的には「家庭盟誓」こそが成約時代の約束であり、契約である。

 

問題の本質はお母様にあるのでもなく、子女様方にあるのでもない。

お支えするべき信徒の側にある。

 

兄弟達よ!

考えてみてほしい。

我々がいなかったなら、どれほど真の御家庭が幸せであったことかを!

兄弟達よ!

もうこれ以上、真の御家庭を引き裂く磔刑になってはならない。

 

創造本然の世界では天使長が善の天使として神の御言葉を神の子女アダムとエバに伝えることができずに、問題が生じた。

ゆえに今日の統一教会においても同様な混乱が天使長たちによってもたらされる可能性があることを物語っている。

それはお母様の周辺においても、顕進様の周辺においても、亨進様の周辺においても起こりうる問題である。

終わりの日には善の天使長がお母様や子女様を善の言葉でお支えしなければならない。

偽の言葉によって神と人との親子の分断がなされ、そこに偽りの父は君臨した。

偽の言葉によって夫婦の分断が為され、

偽の言葉によって子女の分断がなされ、

悪の分裂葛藤世界ができてしまった。

 

我々信徒は善の天使としても、悪の天使としても仕えうる存在である。

 

江利川姉はお母様に対して、亨進様は真の孝行息子であると証しして

「どんなことを亨進様がなさっても無視してください」と懇願して

一体化の道を切り開いた。

我々はこの橋頭堡を死守しなければならない。

さらに前進しなければならない。

そして真の御家庭が我々の罪と咎によって引き裂かれてしまっている情況を打破しなければならない。

 

一切全ては我々の問題なのだからである

真の御家庭の一体化と統一家の一体化こそ

生きてなお我々に働きかけ続けておられる真のお父様の悲願だからである。

父の御心の中に生きよ!