原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

最近30000双の夫婦や別の家庭の祝福二世に会った

家内のお膳立てで、30000双の信仰的なご夫婦と昼食をしながらお話しすることになった。

私は教会の兄弟とはほとんど交流がないので、まったくどのような方達かは知らなかった。30000双というと、環故郷前のイメージしかない。

6500双でさえ責任者は少ない時であったので、どうなることやらという思いも幾分あった。

ところが実際に会ってみると、我々夫婦がずっとこの狭い日本にくすぶっていたのに反して、ご主人は韓国で長年活躍され、ご婦人もヨーロッパを転々と渡って宣教活動をされていた。

国境を越えて世界を愛した実績のあるご夫婦であった。

本当に我々先に来た者が役立たずに終わっている中で

こうして若い方々が神様と御旨を支えて歩んでくださったことに

心から感謝の思いが沸いてきた。

 

リーダーは常に先頭に立ち道を切り開いて行かなければならない。

しかし、もし自分の下に自分よりも能力がある、あるいはその能力が秘められている若者を見つけた時には、道を譲り後押しして、彼らの前途を祝福してさしあげなければならない。

本物の自信は自分に何ができて何ができないかを充分承知していることから生まれる。公衆の前でも若輩者の前でも、はっきりと知らなかった、是非教えてほしいと自然にへりくだる事を知る。

そしてこう言う。

「何故もっと早く教えて下さらなかったのですか?」と。

私もそういう人間でありたいと思う。

 

話しは予想外に弾んだ、師走に壮年の集いに参加して、自分の居場所がないと感じたのとは大違いであった。

献身経験のある人は、互いにわかりあえる貴重な何かがある。

どうしたら一般信徒にもこれを伝え分かち合うことができるのだろうか?

 

ある祝福二世の青年ともお会いした。

そこで、ネットにアップしている原理講義の講座を検索して調べてみた。

彼にちょうど良さそうな原理講義の動画がないか探し続けた。

やっといくつか探し出したが、もう少し柔らかな講義を探してみた。

なかなかいいものがない。

志があってたくさん動画をアップしている、それなりの講師として活躍の経験がある方のサイトがあって、触りだけ見たが原理講論の中身を基本にして話しているというより、御自身の解釈が中心のように感じられた。

「信仰基台が外的で、実体基台が内的」と語られ始めていた。

この理解が重要であるとしていた。

通常とは逆の説明である。

とは言え、原理講論の信仰基台と実体基台の説明の箇所には「内的」や「外的」の言葉はないようである。

先を聞かないと判断ができないが、とりあえず動画を探すためそのサイトを去った。

もう少し基本的な講義であり、あまり堅さがなく飽きの来ない講義というのは難しいもので誰にもできるものではないだろうが、ネットには見られなかった。

4人の特別巡回師に選ばれた方の話しでは、講義の動画作製も検討されているという。期待したいところである。

親たちは家庭を放り出して神のみ旨に邁進してこられた。

今度は教会が彼らが置き去りにした子供達の心霊に責任を持つべきである。

それが授受作用というものである。

ひとつに仕えるというのはそういうことを指すのである。