原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

牧会者として神霊の導きによって語ることを知る  「心を新たに ウェスレーによる一日一章」を 祝福二世に推薦する

私がウェスレーによって、祝福二世の皆さんが牧会者を目指す時に、学んで頂きたいことは、神霊によって語るということです。自らの心霊が神様の神霊と相対基準を造成して語ると言うことです。

これは実感としては、神によって語らされているというものです。

神の道具になって語るのだという基礎ができれば、神学校に行くことがなくても、聖書一つ、原理講論一つで、神の霊に満ちて語ることができます。

そこで「統一神霊」ということになるのです。

ところで、再臨主である真のお父様が語られた「天聖教」などの御言葉からすれば、もしかしたら新約の聖徒の言葉は物足りないと思うかも知れません。

しかし、お父様は聖書がボロボロになるほど読み込まれた方であることを忘れることはできません。

ウェスレーは信徒が日々聖化されていかなければならないとしています。

我々では、日々復活すると言うでしょう。

では何によって復活するというのでしょうか?

ロマ書には、

「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。」

という御言葉があります。

牧会者は誰よりも、神の霊によって導かれ語らなければならないでしょう。その事をウェスレーから学んで頂ければ、幸いです。

一日一章、つまり一日一頁で文章がまとまっています。

少しずつ読んでも良いし、まとめて読んでも良いでしょう。

 

では、この本の紹介に代えて、本の序に掲載されているウェスレーの説教の断片をご紹介して本の中に貫かれている彼の精神に触れてみましょう。

 

 序文 (ジョン・ウェスレーが1746年に語った説教の序文から)

 

「私は日ごとに生かされている者であり、空気の中を飛ぶ矢のように人生を過ごしていると考えてきました。私は神から遣わされた霊的な存在であり、神のもとに戻っていく者であり、壮大な湾の上を羽ばたいているように見えても、少し経てば、もはやそこに私を見ることはできないのです。私は来世への途上にある者です。私はただ一つのことを知りたいのです。それは天国に至る道、幸せな岸にいかに辿り着くかということです。」

 

「神ご自身が道を教えるために己を空しくしてくださったのです。そのために主は私達のところに来てくださいました。神はそのために一冊の本を書いてくださいました。どうかその本を私にください!どのような代価を払ってもいいのです。神の本を私にください!ついにその書を手にすることができます。私にとって十分な知識がここにあるのです。どうか私を一書の人としてください。」

 

「ここに私がおります。私は多忙の者としてではなく、ただ一人ここに坐しています。神のみがここにおられます。主の臨在のもとで、私は主の書を開き、読むのです。天国へ至る道を見出すためです。自分が読んだことの意味に関して疑問があるのでしょうか。何か霧がかかったような難解なことがあるのでしょうか。私は光の父に向かって心を鼓舞し語ります。『主よ、これはあなたの御言葉ではないですか。「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでもおしみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」(ヤコブ1/5)あなたは「気前よく施し、とがめることのないようにしなさい」、「誰でもあなたの意志を喜んで行うならば、その人は知るでしょう」と言ったではありませんか。私は喜んで御旨を行いたいのです。あなたの御心を教えてください』」

 

「それから、私は聖書の並行箇所を探し、考察し、『霊的なものによって霊的なことを説明するのです』(コリントⅠ 2/13)私は注意深く、そして率直に、私の心が許す限り黙想します。もし何らかの疑問が残る場合、それを神の事柄を多く経験している人に相談するか、たとえ既に著者が亡くなっていても、未だに雄弁な著作を開きます。そしてそのようにして学んだものを教えるのです。」

 

「(しかし、)愛とは何と、たとえ多くの間違った意見があったとしても、愛のない真理それ自体よりも好まれることでしょうか。私たちは多くの真理に対する知識なしに死に、天の国の恵みを享受する場所へと連れて行かれることでしょう。しかし、私たちが愛を持たずに死ぬならば、知識は何の役に立つこともないのです。悪魔やその使いにも愛は役立つのです。」

 

「愛なる神は、私たちが試みに遭うことを許しておられません。どうか主が、私たちの心を愛で満たすことによって真理の知識に導き、信じることの喜びと平安に満たしてくださいますように。」

 

 

心を新たに―ウェスレーによる一日一章

心を新たに―ウェスレーによる一日一章