原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造本然の世界における神の御心は      牧会者アダムとエバによる家庭教会における礼拝

人類史上初の礼拝はアダム家庭でなされることが神の御心であった。

内的な教会は家庭教会であり、外的な教会が所属教会である。

そこで70年代にホームチャーチ、家庭教会の摂理が始まったのである。

万民祭司という言葉があるが、家父長が牧会者となり家庭に現れ臨在される神様の栄光を讃える礼拝をすることが本然の世界の予定であった。

神が与えてくださった三大祝福を中心として牧会者としての主人が家庭に現れなければならない理由がここにある。

エバが堕落によって引き起こして始まった人類歴史に山積する全ての蕩減を、真のお母様が一切晴らしてくださったことによって、真の意味における女性礼拝が始まる日を得た。

今日、亨進世界会長が李妍娥様とともに礼拝をされる姿は、男性を主体とし始められ女性を対象として締めくくられる、天の父母様の現れる礼拝の伝統を復帰してくださっている

このことはかってのように男性の牧会者だけでの自転車のような説教ではなく、

男性を通して語られる神と女性を通して語られる神様を迎えるために、

神様を愛することを通して和合する夫婦の中にバランス良く走ることができる

タンデム自転車のような説教形式である。

真なる神様がそっくり現れ語られるのである。

そこで夫婦の一体化が解決されていない者を牧会者にしてはならないのである。

ホームチャーチを文鮮明 恵父が語られた天来の理念とは関係がないからである。

神様に対する誓いも、私の誓い→家庭盟誓

組織の名称も、統一教会→家庭連合

礼拝の形態も、男性牧会者礼拝→父母(夫婦)礼拝

アダムとエバによる牧会者と家庭教会の理念によって発展してきたのである。

家庭教会こそは内的な教会であり

その構築こそが内的な摂理である。

このような牧会者としての心情の位置を獲得した者が、その後

天賦の才能個性をもって万物主管の道を天職を求めて歩むわけである。

ここに三大祝福の意義がある。

 

我々一世は言わば、片足を堕落世界にもう片方を本然の世界にと両方の世界にまたがって生きてきた。

祝福二世の誕生と共に、本来の生まれたときから神と共に生き神と暮らす父子の関係が復帰されるようになったのである。

神を拝する祭司長ザカリヤの家庭に御子を授かる神の摂理が粛々と進められていたように、我々もまた祭司たる意識と実践の中で神共にいます生活を安着させなければならないのであり、これを継承するのみにあらず完成させなければならないのが我々の立場である。

 

しかし、今日の韓国人牧会者の腐敗堕落は、ちょうどイスラエル選民に対する神の祝福が異邦人のキリスト教徒に第二イスラエルとして移り去ったように、現代の神の祝福ももはや韓国に止まることができず、異邦の国・母の国日本を経由してその子たちである新興の諸外国へと逃げ去ってしまうほどである。

十年以上牧会者でありながら、信徒が血の出るような努力によって為された献金によって教会も牧会者の生活も支えられていることが理解できない者がいる。

どうして牧会者や伝道部長が自分が受けている収入とは別に、信徒がみすぼらしい食事をしている中で立場を利用して断れないことをほしいままに毎日弁当を用意させるなどという体たらくは以ての外である。

サモニムだといって職員を私的な用のために毎日使いっ走りにして、誕生日は祝われるべきだと牧会者は主張する。恥を知れ!牧会者夫婦が親の立場なのか、信徒が親の立場なのか。公金や公的財産・公的職員を私的に利用するのは以ての外である。

わかっていながらやる聖職者たちもいれば、私が知るように公私の区別がそもそもつかず、本人たちはけろっとしていて罪の意識すらない方がいる。罪を犯している自覚など毛頭無く当然受けるべき行為と思っておられるようだ。

このような情けない牧会者や教育部長が全国に多くいるであろうことは多くの信徒の知るところとなっている。我々を指導してくださった1800双の先輩方とは大違いである。

韓国人であれ日本人であれ、お父様の伝統を守らぬ者は排除しなければならない。

現にその方々がいるために教会から人々は離れ、繋がった人も去っていく、二世は希望をなくし献身も考えたがこんな教会では働きたくないと悩んでいる。

総会長は英断をするときであろう。

泣いて馬謖を斬る

指導者はこれができないといけない。

上杉鷹山も涙をのんで腹心の犯罪にこれを斬ったのである。

二世の永遠の命を失ってどのような未来があろうか?

 

わたしが盤珪が好きなのは真のお父様を彷彿させるようなエピソードがあることが理由のひとつである。

 

<わたしに毒を食わせるのか>

 盤珪さんは生涯、一日二食を守り、菓子類なども食べず、また、弟子達と別のものを食べるようなこともされませんでした。

 ある時、大洲の若宮の庄屋から、慈光院殿へ茄子の初なりの小さいのを二つ献上してきました。慈光院は、それをすぐに如法寺へ遣わされました。弟子の祖徹が、その典座(大衆の食事をつかさどる職)でした。こんな小さなものでは皆に分けることはできないと考え、盤珪さんにだけ、茄子汁にして出したのです。盤珪さんは、汁を少し食べてから、

「そういえば、お城から届けられた茄子はどうした」

と、尋ねられました。祖徹がありのままに申し上げると、盤珪さんは、

「わしに毒を食わせるのか」

と、たいへんな叱りようで、そのまま汁も食べず、翌日は食事も手を付けようとはされませんでした。祖徹を初め老僧などがいろいろと詫び、ようやく食事をとられるようになられたそうです。 (略記八)

また次のような話しもある。

 みなと違う物は食わぬ

 また、盤珪さんが加法寺の奥旨軒におられた時のことです。この頃、盤珪さんは、虫歯の痛みに困っておられました。ちょうど、大洲の近郷の人たちから餅や栗が送られて来ました。そこで奥旨軒では毎日栗飯を炊きました。しかし、かたい栗飯は、盤珪さんの痛い虫歯に障るようすでした。そのことを給仕の者が、炊飯係りの自完に知らせました。自完は盤珪さんのために大衆の栗飯とは別に、柔らかく炊いた飯を用意し、二つの販器に盛っておきました。たまたま外出されようとした盤珪さんが、通りがかりにこれを見て、

「どうして、飯を二つに分けて炊くのか」

と、尋ねられました。自完が、

「一つは、和尚さまが召しあがるものです」

と、答えると、盤珪はひどく怒られて、

「わたしが、みなと別のものを食べないことは知っておろう。それを、このように、みなと別のものを食べさせようとするのは、わたしを害毒するのと同じことだ。以後、飯を食べないことにする」

と、叱られました。偶然、祖仁が居合わせ、

「給仕の者から、栗飯では和尚さまの虫歯に障りがあると聞き及び、今日初めて、別鍋で柔らかいものを作りましたが、まだ、一度も差し上げてはおりません。これからはお言葉を堅く守りますので、お許し下さい」

と詫び、すぐに二つの販器を一つに混ぜ合わせました。それで盤珪さんもお許しになり、それを食されたそうです。 (略記二十八)

 

盤珪禅師逸話選

盤珪禅師逸話選

 

 

教会の信徒も高齢者が増え、数十年に渡って最前線で御父母様を支えてこられている。

かえって手を合わせるような心情で仕えなければならないのが公職者たる者の本望でありたいものである。

 

 本来は内外の教会は、キリストの一つの体、真の父母の一つの体として成り立っているものである。

ところが公金横領やどの宗教も最も忌み嫌う性的堕落の問題をかかえる牧会者が大きな教会に出現してきたことは、悲しみにうちひしがえるのみならず、怒りさえ湧き出るところである。

中世での教会の腐敗堕落が生じてきたときに、内的刷新運動が起きてきて宗教改革が果たされた。堕落した聖職者を通さずとも一般信徒が神の前に至る道を開拓する者たちが現れてきた。印刷技術の普及により聖書の御言葉が万民に直接開示される環境が築かれていったのである。

我々の場合は新たな考えを提示する必要はない。もともと

本然の家庭教会理想がすでに再臨主であられる文鮮明恵師によって明らかにされているからである。

万民祭司の理念は本来アダム家庭に於いてアダムとエバが家庭礼拝をする家庭教会理想にこそ源泉があったのである。

そこで牧会者だけが生命の御言葉を牛耳るような姿勢や環境に関与することがあってはならないのである。

光言社は「牧会者の道」を絶版状態で放置している。

このような観点から纏められている書物は、現職の牧会者の為にのみあるのではない。一世のためのものでもない。

祝福であれ、御言葉であれ、全て神からの預かりものなのである。

一世に与えられた祝福は二世に渡されて初めて意味をもち、二世の祝福も三世に渡されて初めて意味をもつ性質のものである。

御言葉も同様である。

この「牧会者の道」は、これから祝福を受けて真の家庭を目指す者、既に祝福を受けて完成を目指す者、とくに創造本然の神の国建設に直接関わる祝福二世こそ全員学ばなければならないのが、この書である。ネットで得るのではなく、オンデマンド版の書籍でもデジタル書籍でも二世の利便性に合わせて提供すべきであろう。

 

そういうことで祝福二世、ある意味天聖教以上にこの「牧会者の道」を学んで、アベルの正道を歩まなければならないということである。

 

我々一世なんか相手にしないで、ただただお父様を相手に、お父様を基準に歩んでほしい。

 

二世は祝福を受けたらできる限り早く家庭を持ちなさい。

一世が先輩だといって遅らせられたり、遠慮してはいけない。

二世が家庭を持つのは一世より早くて当然である。

神と親の祝福に承認があれば十代で家庭を持っても問題ないのである。

三大祝福とはそういうものである。

一世のように30過ぎてからでは多くの元気な子を持ちにくい。

お父様は祝福家庭は最低5人以上の子女を持つことが望ましいと語られている。

 

さて、少し長くなったので、現状報告をすることに・・・

以上のことから先ず、既成教会の牧師の方々がどのように「牧師像」を持たれているか、「牧師とは何か」という本に目を通している。

礼拝に関しても、歴史物、世界の事例、プロテスタントに特化したものを押さえる作業をしている。

新約の勝利圏の相続のためである。

それとは別にある観点から牧会と礼拝に関して一つずつ推薦しようと入手した本がある。目次さえわからなくて購入したがほぼ予想どおりで安心しているところである。

できるだけ参考文献は一冊でしかもシンプルなものを心がけている。

上記の本には、例えば第一部に牧師の働きとして

教会のリーダーとしての牧師

礼拝者としての牧師

説教者としての牧師

牧会者としての牧師

カウンセラーとしての牧師

伝道者としての牧師

証し人としての牧師

というように続いていて、各章は別々の牧師が執筆している。

さて、前回 原理講論の目次の書写の話しをした。

そこでは例えばトーナメント形式で目次を書き写して覚えよと言ってきた。

それは上から下へ、大きなまとまりからそれを分割したまとまりへ

という視点であった。全体を掴むためである。

今度は相対思考を用いて、逆の発想をしてみよう。

つまり上記のように牧師の働きを機能で列挙すると

あれもこれもやらなければならないという罠に陥ることになる。

そこで発想を逆転してみる。

下から上へ、分割したまとまりから共通の抽象化された或いは一般化されたまとまりは何か考える。

こういう習慣をしていると考えなくても浮かんでくるようになる。

わたしがこれを見たときに瞬間的に脳裏に浮かんだことは

これらのことは御言葉の心霊的理解ができればことたりそうだという仮定である。

その見立てにしたがって取り寄せたのが、牧会と礼拝の一冊ずつの本である。

また、わたしが批判してきた新約の霊界がよく理解されていないということに対して、いくつかの推薦する本も定まってきた。

ヨブ記についても統一原理の視点から見ることをお薦めしたいが、いちいち全部読んでいったらそれだけでブログが終わってしまうので、視点の確認を共にしていきたい。

堕落論の途中だが自由と堕落を本棚に見つけた北森嘉蔵の本を手懸かりに共に学べないか考えていて、少しルターを調べなければならないようである。

早くサイトも立ち上げないといけない。

とにかく身近に質問できる方がいない祝福二世の修養の支援として

参考資料を提示していきたい。