原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

祝福二世のための修身修養の書        14歳のサムライ橋本景岳が書いた「啓発録」

 

政府は道徳教育に力を入れようとしているが、難航しているようである。

現代の人間はなんでもかんでも頭で理解さえすればすむと考えているようだが、教育環境の充実している現代には人物が育たず、かえって何もないような時代に多くの人材を輩出できたというのは一体どうしてであろうか?

昔の人は今日の我々が道徳やら倫理やらを客観しして、自己と切り離して学ぶというような代物ではなく、どうしても身につけなければならぬ、それができなければ他人様の前に恥ずかしく、己一人になってもなお恥ずかしい、というような何としても身につけねばならぬ決心覚悟を自発的に確立した、自らに実らせるべき実学として、修身修養に励んだと言ったほうが近いであろう。

切実な自分の問題として、立派な一個の大人の人間として町を闊歩できる最低条件のような心構えであったであろう。

 

橋本景岳(左内)は天保5年(1834年)3月11日に福井に生まれ、安政6年(1859年)10月7日、江戸伝馬町の獄舎にて斬首刑に処せられ、26年の生涯を閉じた人物である。

伴 五十嗣郎氏によれば

「啓発録」は景岳が15歳(満14歳)の時、偉人英傑の言行や精神を学んで、深く感奮興起され、自己の規範として、また自身を鞭撻する目的で手記されたものであるという。

文庫本には漢文の読み下し分と口語訳文、重要な語義が載せられているが、それでも30頁ほどである。

文章は5つの項目に分かれている。

稚心を知る(去稚心)

気を振ふ(振気)

志を立つ(立志)

学に勉む(勉学)

交友を択ぶ(択交友)

の5つである。

 

一読すれば誰でもわかるが、人間ができているいないというのは、年齢というものとはまったく関係がないことがわかる。

自分が同じくらいの年齢であった頃を思い出してみると、余りにもインチキでいい加減なものであったかが、自分のことながら見透かされて明らかになるようで、恥ずかしくてならない。

年をとった今となっては、このように若くしてできた人間を排除したり、見過ごすことなく、むしろ用いたり、耳を傾ける心を常に保ちたいということである。

景岳が若くして本物の人間に生まれ変わるきっかけは、現状の自分自身に対する終末感をしっかり持つことができ、これではいけない、このままでは・・・と一念発起して、一筋の志を立てたからのようである。

構成が見事で、何故この五項目であり、何故この順番でなければならないのか、しっかりした論旨の展開がありり、しかも読んでいて実践の錬磨の中で培ってきた内容であることがはっきりと伝わってくるのである。

こんなものを読んでいると、一体祝福二世は大丈夫なのかと考え直さずにはいられないほどである。

人間はその生き方によってはあたりまえのように威光を放つ存在なのだとつくづく思い知らされた。

西郷隆盛が29歳の時22歳の景岳に会った

 

大西郷の方が七つ年上であり、体格も豪壮、景岳先生の方は女のようにやさしく弱々しく見えましたので、初めは西郷もこれを軽くあしらっていましたが、やがて国事を論ずるに至って、西郷は驚嘆し、驚嘆につぐに敬服をもってし、敬服につぐ心服ををもってし、景岳先生の指導のもとに、一緒に国事に奔走するようになりました。

平泉あきら(あきらはさんずいにひかり)

西郷が島流しになったときにお会いした人物にも景岳先生のお話を熱く語っている。

この時大久保利通に信頼すべき人物を聞かれた西郷は景岳を大久保に紹介している。

黒船が来航した時に国中がこれをどうするか迷っていたときに、卓越した意見を上申しているが、その内容も本には収録されていて、24歳である。

年下の物に学ぶ西郷もたいしたものだが、景岳が26歳で命を失うには国家にとっての大きな損失であった。

 

ここでは最初の「稚心を去る」を引用する。伴 五十嗣郎の口語訳による。

 

 稚心とは、おさない心、すなわち子供じみた心のことである。果物や野菜が、まだ熟していないものを稚というように、物が熟して美味になる前、まだどこか水くさい味がする状態をいうのである。どんなものでも、稚といわれる間は完成に至ることができない。

 人間でいえば、竹馬・凧・まりけりをはじめ、石投げや虫取りなどの遊びばかりに熱中し、菓子や果物など甘くておいしい食物ばかりをむさぼり、毎日なまけて安楽なことばかり追いかけ、親の目をぬすんで勉強や稽古ごとをおろそかにし、いつでも父や母によりかかって自分では何もせず、あるいはまた、父や兄に叱られるのを嫌って、常に母のかげに隠れ甘えるなどといったことは、すべて子供じみた水っぽい心、つまりは「稚心」から生ずるのである。それも、幼い子供の内は強いて責めるほどのこともないが、十三四歳(満12~3歳)に成長しみずから学問に志す年齢になって、この心がほんの少しでも残っていたら、何をしても決して上達せず、将来天下第一等の大人物となることはできない。

 源氏や平氏が活躍した時代から、織田信長など群雄が割拠した時代ごろまでは、十二三歳(満11~2歳)ともなると父母に別れを告げて初陣に参加し、見事敵を討取って武名をとどろかせた人も少なくない。そのような抜群のはたらきは、稚心をすっかり取去っていたからこそできたのである。もし、少しでも稚心が残っていたら、両親の庇護の下からちょっとでも離れることはできなかったはずがない。

 更にまた、稚心を取除かぬ間は、武士としての気概も起こらず、いつまでも腰抜け士(さむらい)の仲間入りをするために、第一番に稚心を去らねばならぬと考える。

 

稚心というのは、依存心のことである。

稚心を去るというのは、依存心を捨て自発的・自立的生き方をするということである。自立自助心を持つことである。

一言で言えば主体性の確立である。

主体性というのは、「原因は我にある」という考え方とその姿勢の徹底のことである。

そこで自分という主体に対して、その他の周囲の人や環境は原因ではなく、条件に過ぎず、条件は今ある諸条件の活用によって新たな条件に変更前進でき、原因である自分の中にある目的や目標に少しずつ近づいていくことができる。

条件の活用によって本来の目的の軌道に軌道修正することができる。

環境に働きかける条件に意識を集中し、その積み重ねによって

現状を打破するということである。

今ある諸条件の活用によって現状に働きかけ、原因としての私の目的・目標を遂げることが主体性の表れである。

このように私(主体)と環境(対象)を原因と条件とに区別することから、主体性の確立は出発するようになる。

対象に振り回されているような状態が「依存」であり、

人頼り・環境頼りの傾向が強いことを、自身の中に発見すれば

主体性を放棄していると考えて間違いないであろう。

文鮮明 恵師の生き方はまさにその如くであられた。

 

啓発録 (講談社学術文庫)

啓発録 (講談社学術文庫)