山中の賊を破るは易く 心中の賊を破るは難し
内憂を払拭せよ
王宮の中で、3つのグループが利を求めて政治的活動をしているという。
神山が、「歴代代表団及び有志代表による声明文」に対する反論(その1)
によって語った言葉の中には要注意すべき箇所がある。
以下の二箇所は特に、その見えざる動機を見抜いておかなければならない。
誰が“ボート会議”などと名を付けたのか知りませんが、それは関係者が集まって討議したりする“会議”ではなく、お父様と私だけの「内密」の話でした。その時の写真を添付しますので良く見てください。
このように、指導的責任者である者、特にお父様と多くの接触を持つ機会があった者は、「お父様と私だけの」というような、私にだけ話す内容があり、それがしばしばであって、私は特別な存在であるといった印象を与える。意識的であれ無意識であれこのように語るということは、エバを誘惑した蛇だけにしていただきたいと願うものである。
これを意識的に発しているとすれば、印象操作でありイメージ操作である。
サタンは操作主義者である。
神は自発性を重んじられる。
さらに神山は、
*この写真を見てください。大切な話は、耳もとでされましたので、誰にも聞えていませんでした。これが“会議”でしょうか?
神山自身は「会議」という言葉に異常にこだわっているが、お父様は24時間前線主義であり、多くの人を招集しての通常の会議もあり、個人レベルを相手とする会議もあろう。要はお父様が重要な報告を受けたり、逆に指示したりする場は実質的には会議である。何故このような形式的形状的なことにばかり目がいくのか不思議なくらいである。
神山本人もある写真に以下のような説明文を記している。
「その後、海洋摂理の重要性を話され、今後のボート製造に対する指示も受けました。」
これはもう少なくともマンツーマンの会議であろう。
ここでも、「大切な話は」「耳もとで」されたから「誰にも聞えていません」
このような自分が特別あるいは特別な立場にいるというのは、自分自身への責任心情としては理解できるが、外に向かっては控えるに越したことはないであろう。
天使長的であるからである。
しかし、公平を期するため、また神山の名誉のため、彼が問題としている以下の引用された文章を今一度確認してみたい。
論点は会議が行われたかどうかではない。
形態としての会議の有りや無しやなど論外である。
問題は、「直接、神山氏に対し語られた」という2点である。
①『顯進は先生と同じ方向に向いていない。なぜ顯進の方に行くのか。ちゃんと先生
につながらないといけない』
②『なぜ先生に質問しないで顯進の方に行くのか。こんな船の場を本当はつくりたく
なかった。霊界に行っても言われるよ』
以上が実際に起こった出来事、つまり事実であるのか。
それは有志の誰がその場で聞いたことなのか。
それとも第三者であるのなら、それは誰なのか?
これらを明らかにして差し上げることである。
「神山威氏は、これ以上のUCI(いわゆる『郭グループ』)に組みする反摂理的行動をやめ、真のお父様が2010年7月16日の『ボート会議』で直接、神山氏に対し語られた『顯進は先生と同じ方向に向いていない。なぜ顯進の方に行くのか。ちゃんと先生につながらないといけない』、『なぜ先生に質問しないで顯進の方に行くのか。こんな船の場を本当はつくりたくなかった。霊界に行っても言われるよ』というみ言をはじめ、其の他数々の警告のみ言を思い起こし、真のお父様が遺されたご意向を受けて、地上で統一運動の陣頭指揮をとられる真のお母様を支える祝福家庭および教会員の一員として、天の父母様および真の父母様の願われる本然の立場に戻るように願う。
2015年1月30日
日本統一教会・歴代会長団及び有志代表一同
小山田秀生、周藤 健、江利川安榮、大塚克己、古田元男、太田洪量、飯野貞夫、中田欣宏、松崎裕史、矢野治佳」
このような連名という形は、多くの指導者が神山の意見には反対しているということが一目瞭然という利点はある。
だが、多くの信徒にとっては御言葉の人といえば小山田先生を思い起こす人が多いことであろう。小山田先生がきっちりと間違いを正すという選択肢があっても良いのではないか?
つまり、代表者として発言の責任を誰がとるのかである。
その辺はフェアに明らかにしたほうがよろしいのではないかと考える。
連帯責任とは責任の不在を誘発しやすいものである。
日本人はなるべく波風を立てたくないところがある。
共に草創期に御旨を支えて歩んだ仲間であれば、個人としては打つのは忍びないという気持ちはわからないでもない。
しかし、代表見解として、その考えは分派であり異端であるとしたのであれば、
神山本人にとっては切腹ものである。
苦しい苦しいといって血を流して、死にきれずもがいているようなものである。
小山田先生あたりが介錯人となってとどめを刺し、
新しい出発が早く神山に訪れるように計らうのも武士の情けではないのか?
我々は皆罪人である。
新しい命を受けて神山がパウロの如く働かないとは誰も言うことはできない。
せめて、誰の証言によって上記にある文鮮明恵父の二つの言葉が神山に語られたものか明らかにして差し上げられないものであろうか?
哀れでならない。
だからといって人情に流されていいと言っているのではない。
本多弘之の「知識ゼロからの親鸞入門』
を掻い摘んでみると
親鸞が関東で布教活動をしたときは、稲田の草庵を拠点とし多くの人が導かれた。
直接親鸞の教えを聞いた門弟たちが多く存在していた。
そこで親鸞は関東を離れ京都へ戻り執筆活動に励んだ。
ところが、関東で教義の理解に混乱が起こり、
間違った解釈が広まっていった。
この騒動を鎮めるために親鸞は息子である善鸞を派遣したのだが、
なんと善鸞自身もまた異説を説き始めたのであった。混乱はなおいっそう深まったのである。
善鸞事件後、関東から上洛して親鸞に直接質問したのが唯円一行であった。
彼は「歎異抄」の作者として有力視されている人だが、この本は、親鸞没後2~30年後のものとされている。
歎異抄には以下のような言葉があるという。
「私が思うに、親鸞聖人がいらっしゃたころと今とをくらべてみると、聖人が直接教えてくださった信心と異なることがあるのは、まことに悲しいことである」
(序より)
「同じ念仏の教えに集う求道者のなかに、信心が異なることのないように、泣く泣く筆をとってこれを記した。名づけて『歎異抄』という。むやみにひとに見せるものではない」
(後序より)
「外見(げけん)あるべからず」(むやみにひとにみせるものではない)というように永らく門外不出の書として一般公開されてこなかったのである。
では一体、親鸞の直接面綬の門弟たちと善鸞が反目する善鸞事件とは何であったのか。武田鏡村の「決定版 親鸞」のなかから引用する。
慈信房善鸞が説く法文は、その教義さえ聞いたことなく知らないことなのに、あなた一人に夜、親鸞が教えたものであると、人に申していると、この京都でも常陸や下野の人々はみな、親鸞が虚言を言っているということですので、今は父子の関係はあってはならないことです。また母の尼にも、思いも及ばぬ虚言をいっているということは申すまでもなく、あきれ果てたことです。(略)
ましてや往生極楽に生まれるための大事なことをいい惑わせて、常陸や下野の念仏者を惑わし、親にも虚言をいいつけたことは、まことに嘆かわしいことです。阿弥陀如来の第十八願を、萎んだ花にたとえて、それを聞いた人々は本願を捨ててしまったということは、誠に謗法の咎であり、五族の罪を進んで犯して人の心をそこない、惑わすことは悲しいことです。ことに信心で和合している人たちの仲を破ることは五逆の中の一つです。親鸞に虚言を申したことは、父を殺すものです。
5月29日付け・善鸞宛『御消息拾遺』
御言葉の奥義を、ダンバリーの刑務所や対面中に耳もとで、「あなた一人に夜、親鸞(真の父)が教えたもの」と人に申している
そんな有様なので
今は父子の関係はあってはならないことです
(真の母)にも、思いも及ばぬ虚言をいっているということは申すまでもなく、あきれ果てたことです
(真の母)を、萎んだ花にたとえて、退位をほのめかし
信心で和合している人たちの仲を破る
(真の母)に虚言を申したことは、(真の)父を殺すものです
神山が言う<お父様と私だけの「内密」な話>
というのに私はひどく引っ掛かったのである。
こういうものにはくわせものが多いものである。
ダンバリーの時もそうである。
従来から抱いていた御言葉に対する疑問をお父様に質問して解決したというのに、
公的に受け取らず多くの信徒に明らかにして善の繁殖を為さなかったことである。
これは極めて天使長的な生き方である。
そして今回の件
おそらくサタンは神山のそこをついているのであろう。
御言葉に精通しているというのであれば
是非とも『大乗起信論』の著者にその心情を学んで頂きたい。