原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神山元会長問題の本質と信仰的判断         神の心情←御言葉の実体(四位基台)←御言葉

 

神山の反論に重要なお父様の御言葉がある。

 

我々が講義の中で聞いた中には、「神様はエバはもしかしたら堕落する時があるかも知れないとお考えであったが、アダムまで堕落するとはまったく考えなかったと聞かされたものである。「神様は親ばかであられた」などと聞かされることもあった。

世の中の親ばかと神様の親ばかは何処が違うのであろうか?

その理由は各自何となくは解るような気がしてはいたものの、決定的なお父様の御言葉の裏付けが解らなかったのである。

ところが神山の怪我の巧妙で、お父様の御言葉が明らかにされたわけである。

私にはつくづく神山という男が理解できない。

ダンバリーで御言葉の疑問点をたっぷり聞いたというのであるから、

私なら出監後、ただちに全世界の兄弟姉妹に伝えなければならないとして、

これを纏めて本にして善の繁殖をしようと思うところである。

何故、自分の内に止めてしまうのであろうか?

ともかく、上記の御言葉は私の疑問が氷解した。

「栄光の王冠」に書かれた心情はずっと変わらないお父様でいらっしゃられた。

神山は説明する。

 

また、私も涙ながらに「お父様はどうして間違った情報や、それを報告する人を信じるのですか?」と真剣にお聞きしました。お父様はこう言われました。「先生は疑って人の話を聞くことができない。疑うということは堕落圏でのできごとだ・・・。騙された人、騙した人。神様からみたらどちらが正しいか!正しい立場の人を騙したらかならず審判をうける。蕩減しなければならない・・・」と。

 

神山の起こした神学論争であるが・・・。

人間が地上で生活する限り、どうしても物事を構造的に理解する方法を捨て去ることができないでいる。霊人体の生心を中心にして考えればよいのであるが、論理的合理的説明を求めるのが、我々人間というものである。

 

しかしである。

神学論争が如何なる恵を我々の生活にもたらしてくれたことであろうか?

神山が公開討論を仕掛けてきたというのは、

「御言葉」を巡っての神学論争のようなものである。

 

ところが、御言葉は「実体」となって初めて価値があるのである。

そこでイエス様も

「我を見し者は、天の父を見し者である」

というように語られたわけである。

 

御言葉の実体 > 御言葉

 

この御言葉の実体のことを、仁進様

「四位基台」(真の家庭)として、

神山に「これを壊してはいけない」

と訴えられたのである。

 

神様は愛の神であられる。

この神の愛の運行の場が四位基台である真の家庭であり

四つの位置からなる三対象目的を達成する主体的愛であった。

結果として、この愛の作用が現れる、その原因が神の心情である。

 

これをもとに、復帰の三段階ではないが、あえて、論点を構造的に三段階で表すと、

 

 

3段階 完成 神の心情                     神情論争

2段階 長成 御言葉の実体(ここでは家庭的四位基台=真の家庭) 侍義論争

1段階 蘇生 御言葉                      神学論争

 

神の心情←御言葉の実体(四位基台)←御言葉

 

統一原理では成約時代は侍義の時代であるとしている。

信義ではない。

つまり神山の主張を聞いていてフラストレーションが溜まるのは、

相変わらずの神学論争であり、それを語るのは良いが

顕進様が常々語られてきた「アライ(ン)メント」

即ち「侍義」を論点に据え置かないということである。

真の父母様アライメント(一致)するというのは、お母様抜きには考えられないことである。

 

天使長は神に仕える霊として存在していたが、仕えることができず、謀反を起こし、別行動を起こしたのである。

神の立場を離れたのである。

 

神の立場(神の心情)を離れ           神情論争(心情論争)

別行動を起こして神に侍り仕えることを避け    侍義論争(信仰論争)

御言葉を持ってエバを試練(公開討論)      神学論争(御言葉論争)

 

これが神山のサタンたる正体である。

そっくりではないか?

 

天使長も神山も、上位2つに関しては論点にしないのである。

都合が悪いからである。

自分の罪状が暴露されるからである

 

神学は侍義を明らかにしてこそ価値があり

侍義は神の心情を体恤してこそ価値がある。

 

神山は常に蘇生的論点を問題としているのである。

わたしが統一原理は

「見えるものから見えないものに」

関心を注ぐよう促しているというのはこのことである。

 

言葉が重要なのではない。

言葉を言わせたものが重要なのである。

 

神山が神学論争に終始明け暮れるということは、本人の心霊がそこに止まっているからである。

「正しいことをしているなら顔を上げなさい」と神様に言われたカインが

顔を上げられないように、

神山もまた「顔を上げて」お母様にお会いすることができないでいる。

韓国まで行ってご挨拶もできなくなってしまったのである。

 

神山や分派が詳細な御言葉を持って試練してくるときには

是非、上記のことに気をつけて

神の業か、それともサタンの業かを

見切ってほしいと切に願うものである。

 

世界会長が暴露された御言葉の削除問題に関しては、

お母様の神聖な動機に適わぬ編集をし、お母様の心情を蹂躙した編集責任者の問題である。

編集者が責任をとらないから問題をサタンがお母様のところまで持っていくのである。

お父様もお母様も、あまりにも我々堕落人間を信用しすぎるのである。

実に、実にもったいないことである。

 

「先生は疑って人の話を聞くことができない。疑うということは堕落圏でのできごとだ」

 

お母様にして然りである。

 

それにつけ込むようなことが永らく行われてきたことは

信じがたいことである。

 

さて、こういうように非難している神山であっても、見事な悔い改めを為して戻ってきたときには、全てを神と共に許し、その失態を忘れるように努め、二度と思い出すことさえもないように、まっさらになって、迎えることも天の父の御心であることも付け加えておきたい。

 

世界会長が激しく怒りを語られた後で、幼子のような笑顔を度々見せる。

私心なく、神の立場でお怒りになられておられるからである。