原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

心情の8段階における   イエス様の養子圏と再臨主の庶子圏について少し

イエス様は実子としてお生まれになったのであるが、使命半ばにして殺されてしまった。

イエス様はメシアとしての責任心情から、十字架によって息絶えた後にサタンによって地獄に引き連れて行かれ、試練を受け、これに勝利し、勝利の資格を持って、再び人類の前に現れてくださったのであった。これが復活のイエス様である。

キリスト教信仰に於いては

この十字架信仰復活信仰2つが重要である。

逆に言うと、イエス様の十字架に重きを置いた信仰なのか、

それとも、復活に重きを置いた信仰かで、その信徒の心霊が違って見える。

前者は暗く淋しい霊界であり、後者はそれに比べて明るく恵に満ちている感がある。

既に肉身がないので神の種、心情と血統を与えることができない。

そこでイエス様の相対者の立場の聖霊を立てて、霊的真の父母として人類を産み換えていく。その産み換えた結果は、実質的には養子という限界性があったというのである。

庶子というのは我々の時代では聞き慣れない言葉であるが、父親は同じであるが腹違いの子ということである。

 

内村鑑三の初婚エピソードで、浅田タケと明治17年3月に結婚したが10月にはもう別居して翌11月には、父親に始末を押しつけアメリカに逃避行、傷心の旅に出かけている。つまり離婚を調停してほしいということである。

内村はタケが不倫をしたと思っていたようだが、記録上はどんな事実があり、その事実をもとに、どのような理由から不倫の女としたのかは明らかではない。

このときタケは妊娠していた、後にアメリカで内村はその事を知るが、再三の復縁を懇願するタケを拒絶し続けたのであった。

この問題はもつれにもつれ、生まれた女の子には「信」(ノブ)という名が付けられた。結局、信は高等女学校3年生の時まで、内村の姓を名乗っている。17歳の時に鑑三に言われたことが、

「汝の実父の理想的夫人は夫の車の後押しを為す車夫の妻なることを記憶せよ」

である。昔のこととはいえ、手厳しい。それでも信は生涯キリスト教徒として父を尊敬し父の著作を熟読したという。

文明開化の時代のテレビドラマにはハイカラ好きの夫人たちがよく登場する。

タケはキリスト教の聖書を学んだり、洗礼を受けたり、女であるが英語ができたりと

内村には希望をあたえる女性に見えたのかも知れない。

家庭に引きこもるようなタイプではないであろう。

夫以外の男とも交流することもあるのかも知れない。

アメリカから帰ってきた内村に離婚を受諾するのを抵抗し続けたタケ。

アブラハムの嫁たちが子供を産むときに子供に付けた名前が、彼女たちの信仰の証しであったことを考えると、「信」という言葉には、

「私を信じて」という意味

「信仰的な子供」として育つように

という二つの願いがあるようにも見える

もし、内村がホセアの道を行き、タケを受け入れて愛し、

後に、実はタケは清く生きたと知ることになっていたら、

内村とタケの信仰故に素晴らしい男の子が生まれてきたことであろう。

霊界では真実が知られていることであろう。

 

後に後妻との最愛の娘ルツ子を内村は失うことになる。

まるで蕩減のようである。

この娘は耶蘇教ということでさんざんいじめられたが、

自分の信仰を学校で問われれば

「私の家は耶蘇教であります、さうして私は基督信者であります」

堂々と言ったという。

 

内村は娘であるを見捨てたので

4番目の妻である静子との愛する娘、ルツ子を奪われたのではないだろうか?

 

信仰の人であるからこそ、試練も厳しいものが与えられたのではないか?

神はルツ子を取り上げ、内村を祝福し励まし再臨の道に導くのである。

 

信は腹違いの子であったので、父と共に生活できなかった。

通常は庶子とは妾の子のことである。

しかも妾は妻より愛されているものである。

タケは不倫の女と内村に断定されていたので、

愛されることもなく、娘のノブはあたかも庶子の如き道を行くことになる。

父に会えず、父と暮らせず、父の名を語ることができない。

しかし、父の価値を誰よりも知っていたであろう。

それ故父を生涯敬い慕った。

実子でありながら庶子のような心情路程。

 

さて、そ庶子を超えれば、そこには神の祝福がある。

祝福もあれば結婚もあり、家庭がある。

 

そこで、実子の段階では 父母・祝福 となるのであろう。

 

養子圏については原理講論にも出てくるジョン・ウェスレーの説教も

参考にして頂くと、新約の聖徒がいかにイエス様のように内的に物事や内面を見つめて生活をしているのかが解る。お手本になる。

少々長いがこんなサイトに彼の説教があった。

 

ジョン・ウェスレー説教『奴隷の霊と子たる身分を授ける霊』 - カトリック海外記事