ルカによる福音書22章3節には有名な聖句がある。
「そのとき、12弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。」
この「ユダに、サタンがはいった」とは一体何を指して用いられた言葉であろうか?
統一原理を軸に考えてみると、「サタンの支配下に陥った」というような意味に捉えることができる。サタンに主管(支配)されてしまったということである。
その結果、サタンの意のままに動じ静ずる存在になったのである。
いわば操り人形のようなものである。
復帰原理の緒論にあるように
堕落した人間は、非原理的な存在になってしまったので、
神のみに相対することができなくなり、
神にもサタンにも仕えうる、神とサタンの中間位置に陥ってしまったのである。
善と悪の二人の主人に相対し得る存在という矛盾性を内包している。
そのままではどちらも主管(支配)することができず、神のものともサタンのものとも所有が決定されず、内的には親権が決定しない。
そこで、中間位置の立場にいる人間が、何らかの善なる条件を立てれば神がこの人間を親であるとしてとることができ、反対に悪なる条件を立てればサタンがこの人間を奪って偽りの父としての親権を主張するのである。
したがって、神の御心を遠ざけて、サタンの意のままに生きている堕落人間を指してイエス様が、「あなたがたは、自分の父、すなわち悪魔から出たものであって、その父の欲望どおり行おうと思っている」(ヨハネによる福音書8章44節)と語り、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれられることができようか。」(マタイによる福音書23章33節)と語られたのである。
キリスト教信仰に無縁の一般の人は「サタンが人にはいった」というと、この聖書の記述は、自分の体験から勘違いして「悪い思いを抱いた」ことのみを指していると考え、霊的な存在が我々に働きかけ、我々の心と行動を支配しているとは思いもよらないことであろう。
ところがある種の「宗教的体験」を経験していると、頭の中で考えたり、聖書や原理講論に示された内容で理解していたことに、実感が加わってくる。
これが「宗教的確信」である。
私は献身していた頃に何度か体験している。
サタン、ここでは広義に堕落した天使たちや悪霊人を指している。
「サタンがはいった」という状態は、はいる以前の状態とは明らかに違う。
サタンがはいる以前の人は、普通の人である。
ところがはいった後からは、普通の人でもなくいつもの本人とも違う、明らかに違うのである。どう違うかというと人格が違う。全然違う。
これがず~っと続くと精神科医は精神病というのかも知れない。
しかし、あるきっかけを持って、主管が収まり静かになったり、はいった人から出ていったりする。
原理講論の「中間位置」と「善神の業と悪神の業」のところを思い出してくだされ。
サタンは自分の目的を持っていて、その目的を地上人によって果たすために、支配(主管)しようとする。
地上人の悪なる動機や悪なる条件の積み重ねで
サタンと相対基準を造成し、授受作用することによって、非原理的な力が生じて、どんどんサタンによって支配(主管)されてしまう人間だが、サタンが目的を達成すると地上人から離れることがある。
3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して
4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
マタイによる福音書27章3~5節
聖書のこの記述を見ると、先ずユダが「イエスが罪に定められたのを見て後悔」したという。
私見では、これはサタンがイスカリオテのユダをしてイエス様を死刑にしようとする者たちに引き渡したので、次はユダを離れて祭司長や全議会が確実にイエス様を死刑にするよう働きに出かけたのである。
つまり、イスカリオテのユダにはいっていたサタンが離れたので、今までサタンによって身動きがとれなかった良心が働き始めたのである。
そこで後悔が起きたのである。
「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」
「知ったことか」と突き放され「自分で始末しろ」と言われた彼が起こした行動は、
イエス様を売り飛ばした収入のはずの銀貨を捨てて、首つり自殺をしたというのである。
正気に戻って、銀貨を捨てたというのは、始めから本当の動機は金ではなく、太宰治の小説「駆け込み訴え」にでてくるユダのように、マリアが香油をイエス様に注いで愛する姿に、愛の減少感を感じ、イエス様を妬ましく思ったということに関係していることを想起させる。
挙げ句の果てに自殺という結末を迎えたのである。
すっかりこのような現象の体験は忘れていたが。
こういうことは献身していて、御旨の成就のため神がサタンとせめぎ合う場に於いて起こるものと、基本的には理解していたからである。
ところが、昨年同様な体験をしてはっとしたのであった。
とにかくサタンがはいった人間は暴力こそふるわなかったが、
大声でまくしあげ周りの人は驚き長い時間怒鳴りまくった。
言葉は凄まじいものがあり、何故こんな事を言うのか全く理解ができなかった。
非があるのはあちらの方であったからである。
しかし、なんとかこちらに非を認めさせようと迫ってくる。
長い時間たって、この人が争点とは別のことを言い出した。
それも全く関係がないことであり、そこまで非難することかと思ってはみたが、
自分がもっと注意していれば気づいて、そのひとが言うようにして差し上げることもできる余地があったことは確かであると判断して、
「その事に対しては、おっしゃるとおりで気づかず大変ご迷惑をおかけいたしました。心からお詫びいたします」と深々と頭を下げてお詫び申し上げた。
それまではサタンがはいっていたとは気づかなかったのである。
ところが、次の瞬間のその人の姿を見て、はっとして気づいたのであった。
突然、その人は糸が切れた操り人形のように、頭も両手もだらりと下げ、うずくまりはしないが、まるく縮こまったようになり、あの力強い姿は全くなくなり、信じられない程しゅんとして静かにしおらしくなって、小さな声で「はい」というように受けてそのまま去って行かれたのである。
ああ、あの時と基本的には同じだ。
そう私は思ったのである。
何故そのような霊的なことが起こったのか?
私にはわかる。
若い頃に信仰の子女、すなわち霊の子女を伝道していた際に、お父様の御言葉である「実際の子女の3倍以上愛さなければならない」を課題として実践し歩んだときにサタンが近くにいることを強烈に感じ、また、そのようなことを暗示することがあった。独身時代のことであった。
それ以来の感覚であった。
自分の子供を愛する愛情の3倍以上をもって伝道している人を愛するということが、一体どうすればそうだと言えるのか、身悶えしながら探求して実践していった先に、お父様が我々に注がれる絶対愛の世界の一端を垣間見ることができる。
独身であり子供がいなくても、道はある。
本当である。
お父様は命がいくつあっても足りないような境地を、私たちの永遠の命のために全生涯を歩んでくださったのである。
神山が霊の子女の責任にして証してまわっていたことがあるが、
一度でもこのお父様の御言葉を生命視したならそうは言わなかったであろう。
伝道しはじめたばかりの信徒であっても、伝道している人に問題があれば100%「いい人であるのに自分が足りないから、神様に繋げて差し上げることができない。」と悔い改めるものである。
そんな有様なのでお母様がどうのと嘯くのである。
この事件の前後に実は「命を狙われた」と感じたことがあった。
単なる思い過ごしと思われる方は多いであろうが・・・
さて、その話しはともかく、
お母様は信仰的な体験から実感を持って、信仰的確信である「わたしは神の独り娘」という勝利的自覚を抱かれたのである。お父様も然りである。
それ故、我々の二世教育の核心は
私は、「神の独り子である」という心情の境なのである。
全く逃げることのできない孤高の心情である。
彼らは皆神の子である。
そのような心情圏に立てないわけがない。
それを神は最も我々信徒に伝えたいとお思いでいらっしゃることであろう。
では、日常生活を信仰的体験として昇華し信仰的確信をもつために、
何らかの手だてはないであろうか?
「善徳女王」のエピソードの話しをしようと考えている。
皆様に神の祝福のあらんことを! アージュ。