原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神の摂理から見た 内村鑑三の無教会主義  NHK「内村鑑三 その面影を訪ねて」4回を参考に考える

 

 

内村は「無教会主義」で有名である。

内村の無教会主義は再臨運動とセットで捉えてみる必要があるのかも知れない。

神が罪悪世界を創造本然の理想世界に復帰していく

神の摂理の観点から見るときに

「無教会」は地の事情や内村の体験の事情から生まれてきたように、

一見見えるようではあっても

人類にメシアを使わし救済をなさろうとされる神の立場からは

また違った様相に浮かび上がってくる。

統一原理に由れば

初臨のイエス様の時に、メシア降臨の時が来たと

洗礼ヨハネは,主の道を直くする者として初臨運動を展開したのであった。

洗礼ヨハネはただ「メシアが来られるぞ!」とラッパを吹くだけの初臨運動を

展開するのみに終わることを神は望まれたであろうか?

そうではない。

彼が誕生した際には奇跡が起こりユダヤ全土にその噂は広がり、来るべき人は彼なのではないかと思われた程であった。

それはすべての人々に主を証しする使命を与えられていたからであった。さらには、

証しした人々を一つに束ねて主の下に導き引き連れていかなければならなかった。

現在のキリスト教会の教派が様々あるように、当時もパリサイ派エッセネ派というように様々な信仰観を持つ集団や個人が存在していたことは推測するに難しくはない。

父ザカリアが祭司の代表として、祭司長の立場で聖所に入ったときに奇跡が起きて、

この確かな信仰の血統からメシアがいよいよ誕生かと思ったとしても不思議ではなかった。

さて、内村の場合も神の愛する選民の中に生まれた訳ではなかったが、

 

使徒行伝2章17~18節には

17 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。

18 その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。

 

という御言葉があるように、終末、すなわち再臨の時に神が「わたしの霊をすべての人に注ごう。」とおっしゃられたことが日本に於いては内村たちに成就したわけである。

 

洗礼ヨハネ

① 主の来臨の証しと、ご本人を証しする

② 主の道を直にする すべての信徒を一つに纏めて主に繋げる

③ 主を支え神の国の実現に向かって共に歩む

 

内村鑑三

① 主の再臨の時が来たと再臨運動を展開

② 各教派の違いを超えたエクレジアのような一つの霊的復興のある教会の建設を目  指す     

③ 内村は再臨主であられる文鮮明 恵父の誕生後10年経て聖和されている

  もう十年生きながらえていたら、日本で主に会うことが出来たかも知れない

  残念ながら主に侍ることは出来なかった

 

内村は再臨運動をして主の降臨に備えよと警鐘を打ち、

また本人が自覚があるなしにせよ主の肢体となるべき霊的教会、

すなわち再臨主を迎える為の一つのキリスト教集団を意図したようである。

現代的に言えばエキュメニズム(教会一致運動)である。

この嚆矢が洗礼ヨハネの使命であった。

彼はユダヤ教を一つに束ねて主に繋ぎ、メシアがすぐにこれらの人々と神の国建設に迎えるような環境を整えるべきであった。

彼こそはイエス様の第一弟子として予定されていた人物であった。

さて、統一教会の正式名称は

世界基督教統一神霊協会である。

これも単に一教派の教会を指すのではなく

本来再臨主を迎えるべきであった全てのキリスト教の使命を

代わりに果たすべく止むを得ず設立せざるを得なかった事に

起因しているのである。

もともと必要のなかった組織であった。

イエス様を受け入れることが出来なかったユダヤ教故に

イエス様がイエス教団を立ち上げざるを得なかったことに

類似しているのである。

 

内村の語る無教会とは

「無教会」は教会の無い者の教会であります、

ち家の無い者の合宿所とも云うべきものであります、

即ち心霊上の養育院か孤児院のようなものであります、

「無教会」の無の字は「ナイ」と訓(よ)べきものでありまして、

「無にする」とか、「無視する」とか云う意味ではありません、

 

真性の教会は実は無教会であります、

天国には実は教会なるものはないのであります、

 

監督とか、執事とか、牧師とか教師とか云う者のあるは此世限りの事であります、

彼所には洗礼もなければ晩餐式もありません、

彼所には教師もなく、弟子もありません。

 

神の造られた宇宙であります、天然であります、

れが私共無教会信者の比世に於ける教会であります、

其(その)天井は蒼穹(青空)であります、

其板に星が鏤(ちりば)めて有ります、

其床は青い野であります、

その畳は色々の花であります、

其楽器は松の木梢であります、

其楽人(がくじん=演奏者)森の小鳥であります、

其高壇は山の高根でありまして、

其説教師は神様御自身であります、

が私共無教会信者の教会であります。

内村鑑三全集 第9巻.71~73頁

 

数あるキリスト教の教派の共通項を求めれば、聖書と十字架信仰ぐらいに落ち着くであろうことは、今も昔も変わらない。

無教会とは無境界であり教会一致の布石なのである。

信仰が形骸化しているキリスト教会を通さずに

霊的なキリスト教会を各教派の教会に所属していようが所属を拒否されていようが

個人においてキリストの霊に繋がる器が「無教会」なのである。

内村鑑三こそは、再臨主の為備えられた直接の証し人。

洗礼ヨハネ的人物であった。

 

岩野祐介氏に由ると内村が考える本来あるべき教会の姿は以下のような者であるという。

 

本来の教会
内村は1910 年の「エクレージヤ(教会と訳せられし原語)」において、教会の本来の
姿を次のように述べている。
「…イエスをキリストと認むる自由意志の発動的認識より出づる愛の信仰を基礎としてキリスト独特の霊的会衆を作るべしとのことである、…」
内村はマタイ16:18「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」をこのように解釈す
るのである。このイエスの言葉は、イエスをキリストであると告白するシモン・ペテロの言葉を受けたものである。よってその上に建てられる教会は、自由意志に基づく信仰告白によるものであることになる。さらにここで用いられている、「『建つべし』と訳せられし原語oikodoms」には家庭建設の意味があるとして、キリストが求める教会は「家庭に類したる兄弟的団体」であるとするのである。
「我れ我がエクレージヤを家庭として建てんと、何んと麗はしい言葉ではないか…温かき家庭の如きエクレージヤ……(引用者注:この……は引用者による中略を表すものではなく、原文にあるものである)其建設がキリストの目的であつたのである」

 

人類始祖アダムとエバがもし堕落しなかったとしたら、

始めに出来た教会はアダムとエバの家庭教会であった。

 マタイ16:18の「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」とイエス様が語ったエクレージヤ(初代教会)はこのように内村によって説明されている。

「『建つべし』と訳せられし原語oikodoms」には家庭建設の意味があるとして、キリストが求める教会は「家庭に類したる兄弟的団体」であるとするのである。

 

私は内村が最も地上生活で望んだものは、理想相対(信仰的夫婦生活の伴侶)と神に祝福された理想家庭であったであろうと考えている。

神をこよなく愛する中で永遠に結ばれる夫婦。

キリストを抱きて共に信仰の証を立てていく夫婦。

この希望は初婚から打ち砕かれている。

神やホセアの心情を復帰する道となった。

 

何故理想家庭が彼の望みだと言うのであろうか?

有名な彼の言葉から察するのである。

彼の精神修養は儒教から始まっている。

「修身斉家治国平天下」を知らぬはずはない。

これを神中心に変換したのがこの言葉である。

無教会派の山本七平は統一原理の創造原理が儒教のようだと考えていたが

では内村のこの言葉は何だと考えるのであろうか?

 

I for Japan;                   我は日本のため

Japan for the world;  日本は世界のため

The World for Christ;  世界はキリストのため 

And All for God.     而して万物は神のため

 

おかしくないか?家庭が抜けている

浅田タケとの初婚は内村の希望を打ち砕き

この有名な言葉から欠落させてしまった。

私はそう思う。

内村はホセアのように妻を愛し続けず、離婚し、逃避留学中に生まれた子ノブのために復縁してほしいと何度も懇願するタケを拒否し続けている。

私にはどちらの方が良かったのかはわからない。

 

内村も浅田も23歳の時であるから、年が若く冷静に物事を判断できたか疑問もあり、しかも本人が一切彼女が不倫をした根拠を述べていないので、本当のところはわからない。

To be ,or not to be,that is the question.

あるか、あらぬか。 それが問題である。 

 

だが、できればアメリカ人の敬虔なキリスト教信徒を夫人にして頂きたかった。

 

I for my family;

My family for Japan;

Japan for the world;

The World for Christ;

And All for God.

 

四行の方が収まりがよいのは事実であるが・・・

 

さて、NHKの番組で引用された内村の言葉をいくつか取り上げて感想を述べることにしたい。

 

内村がハリエットから学んだこと

真の寛大とは、私が思うに
自分自身の信仰に
ゆるぎない確信を持ちつつも
あらゆる誠実な信仰に対しては
それを許容し認めることであります

自分が
ある真理を知りうることを信じ
あらゆる真理を知りうることを
信じないのが
真のキリスト教的寛大の基礎であります

それが、全人類と
友好と平和的関係を持つことの
源泉であります

「余はいかにしてキリスト信徒になりしか」

 内村がアメリカに行くと日本では公聖会とメソジストみたいにはゆかず、様々な教派が存在し、彼を生涯にわたって支え続けたのはユニテリアンのハリエットであった。

ユテリアンは奇跡を認めず、キリストの復活や神の子であることを認めない。合理主義に徹した理解に特徴がある。つまり既存のキリスト教会からすれば異端という扱いを受けている。

ところが彼女の献身的な支援が、彼の真理に対する考えに変化をもたらしたようである。御言葉以上に御言葉の実体が問題なのである。

 

真理について内村は、ドイツの思想家G・E・レッシングの言葉を引用した。

もしもカミが
右手にすべての真理を
左手には、絶える事なき迷いがあるにせよ
真理を得んとする活発な意欲のみを握って
「選べ」と私に言ったとする

そうしたら
私は謙虚にその左手にすがって
言うでありましょう。
「父よ、こちらをお与えください。
絶対的真理はあなたのみのものですから」

 

こういう信仰観は頂けない。

天情ではなく人情の世界。

したがって信仰とは違うと思われる。

イエス様はこう言われたのである。

 

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 マタイによる福音者5章48節

 

イエス様は大まじめで、本当に心底出来ると思っておっしゃってくださっているのである。このことを絶対において信じる、そこに信仰があるのである。

父は自分が完全であるが、子には完全を許さないであろうか?

自分が完全なら、子には超完全を与えたいのが親の心である。

自分を誇るより子を誇りたいのが親というものである。

神も親であるからこそそうであり、そのような天の父の心情が注がれるから、生涯をかけ三代をかけ十代をかけても、その愛に報いたいと思わずにはいられないのである。

西欧の人はあまりにも神を全知全能として捉えすぎる。

「絶対的真理はあなたのみのものですから」

とは全知全能の神観がぷんぷんするような気がしてならない。

ここは

「蕩減復帰は神の賜物ですから」

という文に換えて神が与えてくださった人間の責任分担に対して

感謝と敬意を払いたい場面である。

 

文鮮明 恵父の言葉にこのようなものがある。

 

 今日、多くのキリストと教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をもつことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は神聖な方であるとみます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だとしても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。

真の神様 P32~33

 

神は天の宝座にはじっとしてはいられず、宝座は年がら年中空っぽで外出されておられるのである。

相対基準を同じくして授受作用が始まるのであるから、

神の性稟と我々人間の性稟がそっくりそのままでなければならないのである。

それが神の似姿として造られた人間の存在意義なのである。

 

さて、神の愛を言葉としてでなく、出来るだけ多くのイメージで実感として知りたいと思うのは常であろう。

シェル・シルヴァスタイン「おおきな木」という絵本がある。

原題はThe Giving Tree」で、与え続ける木 となっている。

この物語は子供が成長するにつけて、大きな木とどのような関係を持ったかを、幼少の時から老人になるまで描かれている。

主人公もよぼよぼの老人になり、木も年月を経て切り株に姿を変えて終わる。

非常に「愛すること」「与えること」また「親であること」を考えさせてくれる良書である。

私は親しくなった、心の豊かな女性に何度か差し上げたことがある。

若い頃は神の愛の理解の一助になって、大変感謝している。

 

それでも、この素晴らしい本ではあるが、信仰という視点から見ると

その愛が描かれた、終わり方には不満が残る。

この木を神として喩えてみるには、未だ不徹底である。

神の愛は全てを尽くして愛しきり、何も与えるものがなくなってしまったときに、

その愛すると言う行為、与えるという行為は止まってしまうのであろうか?

決してそんなことはあるまい。

全てを与え尽くして、空っぽになってしまったはずの神様の胸の内に

それまで以上に湧き溢れる愛があるはずである。

心情とはそういものであろう。

神様が一見何も出来なくなり、沈黙しているかのように見えるときにこそ、

与え続ける神の真骨頂がある。

わたしはそのような

沈黙の中の神様をこよなく愛するものである。

いつか機会があればいくらかこの「沈黙の中の神様」について明らかにしたい。

 

おおきな木

 

 

内村の真理観(内村の生活からでた実感)

真理は円形に非ず楕円形である。
一個の中心の周囲に
画(えが)かるべき者に非ずして
二個の中心の周囲に
画かるべき者である

恰(あた)かも地球 其他の遊星の軌道の如く
一個の太陽の周囲に
運転するに係わらず
中心は二個ありて
其形は円形に非ずして楕円形である。

有名なるアインスタインの説に依れば
宇宙其物が円体に非ずして
楕円体であると云ふ。
人は何事に由らず円満と称して
円形を要求するが
天然は人の要求に応ぜずして
楕円形を採るは不思議である

「楕円形の話」

 

統一原理の信仰基台と実体基台の実体基台のあたりついての発言であろう。

神と我が一体化することが信仰基台

次に神と一体化した人が隣人と一体化するのが実体基台

ところが神と我が一体化する信仰に違いがでると

人と人との関係は神を中心とした円形にはなれず

その中心である神が両者ではずれてくる。

これはキリストによって神や神に対する信仰が確定するまで

一点の中心を持つことは如何に熱心な信仰者であれ、堕落人間の限界があるので不可能である。

そこで「楕円形」という折り合いの思想がでてくるのである。

 

完全なる信仰は円形ではない
楕円形である
自と他との二点を中心として
画かれたるものである

自己を中心と為さなければならない
然し自己のみでは足りない
他をも亦 中心と為さなければならない

キリストに由て救はれし自己が
同情的に世界的に拡大して
我は始めて
キリストの救いを
実得することが出来るのである

「人類の救い」

 

モーゼの律法は神に対する戒めと、人に対する戒めの二つに分類することが出来る。

これはそのまま、律法の中でどれが重要ですか?と弟子に問われたイエス様の言葉に対応している。

旧約と新約が対応している。

さらに文鮮明 恵父の信仰基台と実体基台の御言葉、すなわち成約に対応している。

旧約時代→新約時代→成約時代と一貫している。

 

 

宗教は慈悲と審判である
愛と義である
愛のみではない亦 義である
義のみではない亦 愛である
一中心ではない二中心である
円形ではない楕円形である

若し宗教が義のみであるならば
之を行ふは至って容易である
愛のみであるならば亦 然りである
宗教を実行するの困難は
それが愛であって
同時に亦 義であるからである。

「楕円形の話」

義は神の父性を表している。

愛は神の母性を表している。

勧善懲悪を一貫して実行すれば畏敬で裁きの神。

許しや救いは生じようもない。

愛によっては愛される価値なきものを貴重に扱われる。

許しと救いと希望がもたらされる。

旧約時代の神の父性の義と

新約時代の神の母性の愛が

統一されたものが成約時代の心情である。

正確には、神の心情の側面観の一つとして現れてきたものが義であり、愛である。

愛と義が統一されているということは、厳愛ということである。

厳愛とは蕩減(負荷)を与える愛ということである。

 

無教会は進んで
有教会となるべきである
然し在来の教会に還るべきではない
教会ならざる教会となるべきである

教会は生物の体と均(ひと)しく
永久に壊(こぼ)ちて
永久に築くべき者である
教会も亦 生物と均しく
其 恐るる所は結晶である

無教会主義は
其一面に於ては
結晶せる教会の破壊である
他の一面に於ては
生ける教会の建設である

しこうして無教会が結晶して
又 所謂教会となる時には
無教会主義を以て
又 之を懐つべきである

キリストの王国は
斯くの如くにして発達する
余輩は安心して
大胆に進むべきである。

「無教会主義の前進

 

形あるもの、見えるものは教会であろうと、その運営上発生する職位であろうと、必ず腐敗堕落するとはいわないまでも、形骸化していくものである。

そこで、形なきもの、見えざるものに教会を建てなければならぬと内村は考えたのである。

霊的な教会が確立維持できれば、教会は存続する意義があり、

さもなくば破壊し、神が息を吹き込んでくれる新たな教会を建設すべきである。

 

日本統一教会本部も重い腰を上げつつあるがスピードが遅すぎる。

お母様が二世中心の体制に転換したいと決断されているときに

反応速度が遅すぎる。

リスクを恐れるからであろう。

徳野会長は「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れよ。」の御言葉を最近語っておられる。

新しい葡萄酒とは二世のことである。

新しい革袋とは新しい組織のことである。

教会の維持と発展のための経済に関する教会運営は一世が担当し

信徒の心霊の復活と成長に関する牧会指導、すなわち牧会者・伝道部長・教育部長は二世に全て担当させよ。

二世がアベル、一世がカインと心得させよ。

この二つが円満に授受作用出来るように、信徒の中の6,000双或いは6500双以上の信徒から、老中のような相談役を立て、彼らの智慧を活用させよ。

両者の立場を翻訳してわかりやすくコミュニケーションがとれるようにすることが肝要である。

総務部長は執事に格上げせよ。

この世の総務と違い牧会者の霊的環境の整備者及び支援者として、牧会者が正しい原理観に基づいて活動しているか、チェック機能を持たせよ。

スタッフの牧会者評価だけでは十分ではない。

総務部長の牧会者に対する監視機能を持たせるため、教会執事職として、牧会者が暴走することがないようにすべきであろう。

徳野会長は二世を隅々まで把握しなければならない。

リーダーシップのセミナーを全国的に展開して

それも初級・中級・上級のようにプログラムを作って

例えば1000人のリーダー希望者を各段階で教育する中で

真のリーダーに為りうる人材を選別し幹部育成候補を見出さねばならない。

時間がないのである。

御言葉に関しては、講義が出来る・牧会が出来る・説教が出来る。

メンソレータムの販売で教会発展の経済基盤をヴォーリズが築いたように、

経済の実践が出来る。

そのような二世の会を作らなければならない。

二世担当者が副会長になる程度ではお母様の意図にはほど遠いようである。

検討を期待したい。

 

私の無教会主義は
主義の為の主義ではなかった
信仰の為の主義であった
人の救わるるは
其行為に由らず信仰に由るとの
信仰の帰結として唱へた者である。

故に罪の悔改の経験なき者は
到底之を解し得なかった
然れども
此貴き経験を有(も)たせられし者は
悦んで之を迎えた

教会攻撃の為の主義ではなかった
信仰唱道の為の主義であった
先ず第一に十字架主義の信仰
然る後に其結論としての無教会主義。

十字架が第一主義であって、
無教会主義は
第二第三主義であった。

「私は無教会主義を・・・」
            

 

内村は形式や行いのみを重視するように教会がなると形骸化すると考えていたのであろう。