原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

三宅秀道の「新しい市場のつくりかた」 を読み伝道を思う

「新しい市場」というタイトルを見た時に、「顧客の創造」かとふと思い、それが伝道を連想させたので、読んでみることにした。

要は「ものを売らずライフスタイルを売りなさい」とか「技術の創造に対応するライフスタイルを創造、乃至発見しなさい」ということが主張なのだろうか。

技術者は良いものを造りたいと希望している。しかし、競争環境の中にある企業が生き残って行くためには、たとえばコストリーダーシップ戦略などが重視され、技術的な未解決や未成熟という技術的な制約ばかりではなく、経済的な制約があり、さらにそれをクリヤして製品として現れても、それが広く普及するための法整備や社会基盤が整備されないことにはなかなか難しいといった社会的制約もある。

さらに以上のものの他にも、これらの前提前提として文化的制約があるという、ものやサービスが受け入れられる文化が未開発上程である場合が多いというのである。

「新しい文化を開発するとは、どういうことでしょうか?一言で表現するならば、まず自分が持っている「しあわせ」のイメージを、これまでより多様に豊にして、なんとかしてそれを実現する、ということなのです。」

 また、

「どんな商品も、突き詰めれば、それを買い、使う人にとって、その人のしあわせの実現に貢献することができなければ、価値がありません。大げさな言い様ですが、私たちはふだん意識しないまでも、自分が持っているしあわせをのイメージにフィットするモノやサービスを選んでは、自分の人生に組み込んでいます。むしろこのことは当たり前すぎて、改めて考えてみるようなことがめったにないのですが。」

と語っている。差詰め我々の原理講論で言えば総序の冒頭

「人間は、何人といえども不幸をしりぞけて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人の些細な出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現に他ならないのである。」

という訳である。

さて三宅は

「今しあわせだと思っている状態が、もっとコストパフォーマンス良く実現できるようになることが技術開発です。一方、今まではしあわせと思っていなかった状態をしあわせと思うようになり、それが実現できるようになることを文化開発とします。」

というように、「しあわせ」という切り口で両者の関係を説明するのである。

基本的には

性能競争(技術神話)の中で技術開発が重んじられ、行き着くところ、価値の定義がすでに固まっていて、コストパフォーマンスの競争が行き詰まっているとしている。

そこで、商品・ライフスタイルの企画を重視する方向に梶を切って、文化開発に着目して、世の中にまだない新しいコンセプトから価値を創造するようにすべきであるとしている。

ウォッシュレットの普及過程を例にしたり、ミシュランというタイヤのメーカーがタイヤを売るために、遠回りの事ではあるが、あそこにはこんな良い店がある、こっちにもこんな良い店があるとしらせていたら、5%程売り上げが伸びたという。

例のミシュランガイドの始まりである。

実は私は何でタイヤのミシュランがグルメの目利きになっているのか不思議に思っていたが、そういうことだったのかと驚いた。

ところで、私が一番関心を持った例が

名古屋にある三菱重工の航空・宇宙部門が、人工衛星姿勢制御用の超高性能のジャイロを開発したものの、あまりにも高性能だったために、どこへ持っていっても使い道が見つからなかったという。

やっとこさ引き合いがあったのがイタリアのフェレッティ社の製造した超豪華クルーザーの横揺れ防止のために、そのジャイロが使われたのである。しかも、そのジャイロが使われるのは、クルーザーの航行中ではなく停泊中だというので三菱は驚いたそうである。

つまり、クルーザーが港に停泊する際に、船上でパーティをする訳だが、そのパーティでワイングラスに注いだワインがこぼれないようにするためであった。

著者はこんな事を言っている。

いずれは「これ以上に優れた技術を開発するコストと、それによって上げられそうな成果が引き合わない」ときが来ます。それでは、その引き合わなくなった時点で技術開発を止めるか。そうするとコモディティ化の問題が発生し、より人件費の安い後発工業国に事業を移転するしかなくなってしまいます。

 技術開発ののジレンマであろうか。

この辺を後進国の利点と日本の先進国としての利点を上手に組み合わせて経営しているのが、レノボであろう。日本人は末端の従業員ですら厳密なコスト意識を持って生産に従事しているので、外国人の経営者から見ると驚きであり、この強みを上手く使いたいと考えるのであろう。コストに限らず全員経営の風土が日本には存在するというわけである。

 

さて、我々は如何なる製品やサービスにあたるものをこの世の人々に提供しているのであろうか?

仏教で言う「泥の中の蓮の華」というのは堕落世界と一線を画した方舟に拾われ清酒式をもって聖別された絶対「性」という軸を我らの内に備えたと言うことである。この前後左右上下にぶれない心情のジャイロが祝福を受けた夫婦であり、子女を得た父母を中心とした真の家庭である。

この世の数十人の婦人に聞いてみて、夫や結婚に対して満足があるどころか、悲惨な告白をされる方が全てであるといったところであった。

お二人が仲良く買い物をされる風景を見ているのでそんなこととは夢にも思わなかった方もある。結婚は我慢だと言うわけである。

多くの宗教は自己の人格の完成に関しては様々な教えを与えてくれる。しかし、未婚時代に男は童貞であるべし、女は処女であるべしと公然と諭すような宗教は統一教会しかないであろう。

我々が世の中に提示できるのは、夫婦一体のジャイロ、親子一体のジャイロ、家庭一体のジャイロである。

したがって、過去のように別居しているにもかかわらず教会長をしたり、教育部長をすると言うことは、ジャイロが狂っているので人々に希望をもたらすことなど到底できない。赴任すべきではない。

もし立派な言葉だけ語ってすむなら、御言葉はお守りに等しいであろう。先輩家庭であればある程我々の家庭のようになりなさいとはっきりと逃げずに語れる風土を私も、全ての統一信徒も歩んでいくべきであろう。

もし我々の中に永遠不変のジャイロが確立されれば、本当の愛や真実の家庭を求める人々が神の導きで多くやってくることであろう。

超高性能のジャイロ。

ヘリコプターの産業を売却して二世を教育したいとお母様は願われている。ヘリコプターの中枢はジャイロである。

二世の中に神の心情というジャイロが確立し、祝福を受け理想家庭を築き統一文化を花咲かせてくれることを祈りたい。

新しい市場のつくりかた