原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神山不名誉会長を教訓にして            今年を振り返り来年を希望の年としたい

神山氏が公開討論を12月中頃に呼びかけているようだ。

この時期にとは。

長年外国にいたせいか、日本のおかれている情況にご理解がないようである。

私は西川先生の流れではないので、他の信徒よりはもの申しやすい立場である。

不名誉会長とは品のない題のつけかたであるが、

公開討論の呼びかけに

神山威・日本統一教会名誉会長という肩書きを入れなければ、未だ自分を表せないでおられる。お父様の思想と関係のない信仰観である。

お父様に任命されたという、なんたらいう40修の講師なるぞ、控えおろうというわけである。父上がクリスチャンの家系に育ちながらなんという有様か。

日本統一教会名誉会長という偶像を後生大事に携えておればよい。

先日書いた盤珪

隠元禅師が長崎に着かれた際、会いに行っているが

隠元の船より陸へ上がりやります時、直ちに早や、隠元は不生の人でござらぬ事を見付けました故に、始終隠元には一度も付いて居ませなんだわい。」

と見切っている。

悟りの境地に立つと、話しも聞かずただ遠方から眺めるだけで、その人物の悟りが徹底しているか否かが、直感としてわかるのだろうか?

たいしたものだと思ってはみたものの、その事をすっかり忘れてしまっていた。

ところが何の関係もない普段の生活をしていると、急にその事が思い出されて、おぼろげなイメージが湧いてきた。

隠元が上陸する際にどういう出で立ちや振る舞い、また従者をどのように従えて上陸したか。

見えるものから見えないものを見たのではないかと思った。

神山氏による謀反は日本の講演会あたりをピークにして、徐々に勢いをなくすことであろう。犬の遠吠えに等しい。来年はそんな人もあったかというほどに納まるであろう。

神山氏は御覧の通り討論に向いた方ではない。

支持者ですら講演を聴いて何が言いたいのか戸惑っていたようである。

良いも悪いも情的な人とお見受けした。

論点をどうするか定めたところで、あっちへ行ったりこっちへ行ったりになるであろう。討論にはならない。話しにならない。

12双の方々からすれば神山氏は草創期の苦労を共にした戦友のようなものであろう。

あるいは家族そのものなのかも知れない。

そこで櫻井夫人のように、「神山さんの話を聞いてあげましょうよ」という意見が出て来ることは頷ける話しである。

しかし、組織防衛という観点からすると、松濤本部で聞くというのはリスクが大きい点も考慮せざるを得ないであろう。

人の背後にサタンありである。

神山氏だけを見るわけにはいかない。

その背後でサタンは何を企むか?

そう考えてみた時に、松濤で会えばどの道、例えばこんな感じであったであろうか?

「私は松濤まで足を運び、彼らに懇切丁寧に警鐘を鳴らしたのであります。然るに彼らはかたくなに心を閉ざし、共に教会の改革のために歩んでくれるところまでには至りませんでした。しかし、私は誠心誠意教会の問題について訴えたのであります。私は責任を果たしました。」

このように語られてしまえば、何の意味もなくなってしまうことであろう。

同期の桜は個人的に会った方がよいことであろう。

場所は本部ではない方が無難であろう。

本心が段々疼いてきているだろうから、立派な悔い改めを期待したい。

ユダの末路を思えば、支持者は気をつけて差し上げることである。

 

先日ジャパネットの高田社長がテレビの番組に出ていた。

彼はビジネスでも人生でも我見は駄目だと云っている。

世阿弥の言葉の我見離見を紹介して説明されていた。

我見というのは文字通り独りよがりな判断のことである。

離見というのは、上空から全体を俯瞰して見ているような、私の立場を離れた視点である。

 

「見所(見物席)より見る所の風姿は、我が離見也。しかれば、我が眼の見る所は、我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、即、見所同心の見なり。其時は、我姿を見得する也。我姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれ共、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまえず」

 

我々の生活に即して考えると、自分の立場で見ることに固執せずに、様々な立場で見る。より内的にはその立場が求める希望や利益を鑑みて、立体的に物事を見ることの重要性を説いているものと思われる。

高田社長は引退したら自己の修養のために本をたくさん読んでみたいとおっしゃっていた。

実業界の方をしてこの通りである。まして信仰の道を行く我々はなおさらのことである。

神山氏は我見に終始している様に見える。

私はダンバリーを巡る神山氏の在り方に疑問を持っている。

ダンバリーとは何であったのか?

我々がお父様をお支えすることができず、我々の罪をお父様が蕩減された道であった。

このダンベリーがもたらした収穫は何であったか?

真の孝子としての心情を孝進様が確立されたことである。

すなわち後継者としての道が切り開かれたのである。

我々カインの子女が真の父母から愛されたらどうすればよいのか。

当然我々に注がれた真の父母の愛に我々の愛を添えてアベルの子女を愛することである。

お父様は実子を愛することをなさらない。

そこで我々は子女様を支える基台を幾重にも築いていかなければならないのである。

授受作用とはそういうものである。

ダンバリーの獄中にはお父様と神山氏が居た。

父と共に生活していたのに神山氏は父の心が分からなかったのであろうか?

私は若い頃に「先生は聖進のことが心配なんだね。」と語る夢を見たことがある。

その聖進様と暮らしていた信徒がお父様がダンバリーで暮らしておられる時の聖進様のお姿を聞かせてくれた。生きた心地のない日々を暮らしておいでなのである。

 

神山氏に忠誠の心が分かったなら、「お父様、お願いがございます。出監したら孝進様の御側でお仕えしてもよろしいでしょうか?」と懇願する事もできたことであろう。乃木に負けない孝心と忠誠があれば、いかなる環境の中であっても孝進様をお守りし、事なく継承の道に進むお姿を見ることができたものを。

何故、孝進様が直接多くの無駄な試練の中に立ちボロボロになられてしまったのか。孝進様が秘めていた誰よりも神とお父様に対して孝心を御捧げしたいという切ない一片丹心。その胸の思いが実現するよう、御支えしたいと思わなかったのであろうか?父と子二代に仕えるのが忠孝の道ではないか。西欧の信徒や韓国の信徒に忠孝が分かるというのか?

お父様は日本人をして、「日本の情は忠孝の源」と激励して下さったのではなかったのか?

父と共に暮らしながら父の心情が分からぬか?

神山が選んだ子女様ではなく、父の胸にある子女様、誰にも頼むことのできない切ない心情を知ることができないのか?

 

獄中からパウロが手紙を書いて信徒を奮い立たせたように

ダンバリーのお父様の指示で統一原理の講座のビデオが多くの牧師たちに与えられた。

不当な判決に対して仁進様が全米の牧師と共に、最前線に立って闘われてこられた。

我々が守ることができなかったお父様を仁進様が代わりに果たされた。

堂々とお父様を証して下さった

我見に陥っていた神山には、孝進様や仁進様のお姿は見えなかったのであろうか?

離見に立っておれば、お母様の心情も子女様の心情も、そのまま全てとはいかないまでも感じ取って、自分が処するべき道を究めていたものを。残念な男よ。

証すべきは監獄の外にいた真の御家庭と知るべし。

とにかく一体何を証されていたのか全く記憶にない。他の信徒にも聞いてみたが同様であった。

しかし、顕進様と共にある信徒の中には何とか元に戻られるように精誠を尽くしておられる方たちが居るに違いない。顕進様はお父様の血統である。

その時はお母様の元、真の実力を示されることであろう。

だが、現在もかってのテレビ番組のインタビューの時のように、お父様が誰であるかという点については、未だ迷いの中におられるようである。

大変残念なことである。

我々の二世が父母の信仰を5%で自らの信仰として受け入れていくように、御子女様にとっては自分の父がメシアであり再臨主であることを受け入れるには、世界会長の証にあるように5%があるようである。

たまたま、在韓日本祝福家庭婦人教会というサイトに、最近インタビューを受けた際の顕進様のやりとりがあるという事を知った。以下のサイトからいくらか文章を抜き出して、お話ししようと思う。

東亜日報・顕進様のインタビュー記事(日本語訳)|在韓日本祝福家庭婦人会

 

南北統一問題については

この事で彼は、モンゴルを重要な国家として考えるべきだとも提案した。

「6カ国会談という3対3の構図は、常に争うようになっている。モンゴルを七番目の加盟国とする案を考えてみてほしい。モンゴルは、中国、ロシアとの関係も良く、ソビエト連邦に属したこともあり、流血なく共産主義から民主主義に体制を転換した国である。韓国と北朝鮮に大使館があり、関係も良い。歴史的には、チンギス•カンに常に同行していた妻が韓国の姫だった」

 

我々がお父様から繰り返し聞かされてきたことは、南北に引き裂かれた際に関わった6カ国によって、南北統一も解決しなければならないと云うことであった。

蕩減復帰原理が摂理的中心国家に適用されるわけである。6数は人間の創造の6日の6であり、これを天使長ルーシェルが人間を堕落させたが故に奪っていった数である。そういう意味に於いて堕落以後6数はサタンを表すようになった。

モンゴルを加える7数の話しは、この世の人が語るのであれば、ユニークな主張として認められるかも知れない。

誰かがお父様の言葉で「顕進は蕩減が理解できていない」という話しをしている。

勿論お父様に言われれば我々も言葉がない。

私は顕進様の出版を聞いた際に、先ず頭に浮かんできたのが、この6数を如何に具体的に進めるかであった。このような話しではお父様の意図とは開きがあるように感じられる。

 

次にメシア観であるが

以前のテレビのインタビューの時と変わらず、歯切れが悪いものであった。以下に見てみたい。

 

- あなたは宗教家なのか?
 
「精神的な原則と価値の話をすると、伝道とも言えるがそうではない(笑)。ほとんどの人は、宗教人や信仰者は、ただ信仰と呼ばれる領域内でのみ活動すると考えるがそうではない。今まであった重要な社会変革を振り返って見ると、人を感動させるビジョン、原則があった。これが精神的な価値である。北朝鮮主体思想は哲学ではなく宗教に近い。最近は宗教指導者たちも、自分たちの信仰と信念を擁護することを望む」

 

質問にハイともイイエとも答えておられない。

「精神的な原則と価値の話をすると、伝道とも言えるがそうではない(笑)。」

倫理道徳の領域の活動かと思えば

「ほとんどの人は、宗教人や信仰者は、ただ信仰と呼ばれる領域内でのみ活動すると考えるがそうではない。」

私という一人称で語ることを避け、宗教人や信仰者であるともとれるような発言が続く。失礼ながら二枚舌のようにも受け取られかねない。率直に言って迷いがあるとお見受けされる。困ったことである。

同じような疑問を持ったのだろう。

答えの真意を求めて次のように質問が為された。

- 新しい宗教を作るという意味なのか?


「全然。そんなつもりはない」

つまり通常の概念にないことを語られているので、新しい宗教の樹立を目指しているかも知れないと質問者は思ったのであろう。

ところが、違うという。

- 父親はどんな人だったのか?

 

「自叙伝のタイトルそのままに“平和を愛する世界人”だった。愛国心が深く、人類の為の神様の摂理にあって、韓国人が耐えなければならない特別な役割があると考えられた。特定の宗教や宗派だけの利益を超えて、政治、経済、非政府組織(NGO)、学術、文化、芸術、スポーツ、メディアなど、様々な分野で活動された。そして、韓国の統一と世界平和のために統一教会を犠牲にする覚悟ができているとも語られた。亡くなった今、父の驚くべき意味深い生が、偏見と誤解なく正しく理解されることを望む」

平和を愛する世界人ということであり、神様の摂理を担う宗教的指導者としか解することしかができないお言葉であった。

この点はこの世の人である記者も感じたようで、

文会長とのインタビューで記者は、最近、統一教会内の分裂は“故文総裁の神聖化に対する立場の違い”という感じを受けた。

としている。

ユダヤ教のメシアも

キリスト教のキリストや再臨主も

神聖な神格的存在であることに変わりはないであろう。

このインタビューがもしディベートであったとしたら、おそらく完敗になったことであろう。

顕進様が早く悟られて本来の実力をお母様の元で発揮される日を待ち望みたいものである。

 

さて、日本統一教会はカインの信仰によって勝利してきた。

ところが、アベルの勝利者は誰かと問われて答えられる人がいるであろうか?

フォロワーの信仰は実ったが、リーダーは育たなかった。

これは久保木先生にも責任があると考えている。

先日テレビで見るのは2回目だが、LIXILのトップ藤森義明氏が社員にリーダー育成教育を続けている様子が紹介されていた。

彼がかって在籍していたGEでは一ヶ月で養成するプログラムがあるが、7ヶ月のプログラムを作っている。

「自分の夢は、私よりも優秀な人材をたくさんつくることだ」

と爽やかに言っていた。本心であると思う。

この世の実業家にしてこのとおりである。

 

かって事業団の信徒(カイン)と教会の信徒(アベル)が一体化する摂理が日本に於いてあった。

残念なことにカインがアベルを呑みこんでしまったのである。

つまり我々は君たちが知らないずっと以前からお父様と御旨を進めてきたんだ、君たちに何が分かるというのだというわけであろう。

しかし、これは何処かで聞き覚えがないであろうか?

神の創造を人間が誕生する以前から手伝ってきた、天使長ルーシェルのことである。

ただ、昔は聖職者を退いて、若い人にその道を譲り、事業団で働かれたことは世代交代を可能にしていた。ところが、現在は一世が結果として牛耳っている状態であり、好ましいとは思われない

少し前のことだが、十代の二世に会った、私が見る限り教育部長にさせてあげたい人であった。ゆくゆくは教会長を目指せると思った。ところが現在一世が居場所を独占してしまって、二世が活躍できる場がないのである。

失われた20年といわれるような不況の中、現在の聖職者の給料を得るのはなかなか大変である。ご自分たちもこの世の中で苦労をして信徒の皆さんの血の出るような苦労を知るのも勉強であろう。

一世が二世に聖職者の道を譲るべきである。

特に男性は25までには人の上に立つ経験が必要である。

献身しても活躍の場がない二世。

またある二世は伝え聞くところによれば、教会の教育部長の講義は小学生レベルであるといっているそうである。

教会長の説教も悲惨極まりないという。

決してカイン的な若者ではない。

これは単なる直感であるが、教会の責任者を総入れ替えした方がよいと考えている信徒はそこそこ居るのではないかと言うことである。

これが結局分派の者に利用されてきたのである。

二世は心霊に責任を持つ立場で、牧会者や教育部長や伝道部長にすればよい。

教会運営は蕩減時代の一世が責任を持ち、名前は何であれ良いが、事務長でも、執事でも何でも良いだろう。

この交代を日本が先駆けて実行できることを祈る。

一世(カイン)と二世(アベル)の統一と

もう一つ統一すべき問題がある。

韓日の一体化である。

今まで多くの牧会者が韓国からやって来た。

半分は韓国の信仰の伝統を相続させるためであり、

半分は日本の信仰を韓国の牧会者に相続させるためであったと思う。

勘違いしている方も多いようである。

そろそろ、やれ韓国だ、やれ日本だというのではなく、本当にお父様が立てられた伝統の継承者に、ふるい分けなければならない時が来ているようである。

そうでないと二世の永遠の命を多く失うことになるであろう。

現在の総会長のときこそ唯一のチャンスかも知れない。

これがうまくいかないとバーチャルな世界や、ホームチャーチが本流になるようになるのではないか?

相応しくない者は日本人であれ、韓国人であれ交代させるべきであろう。

一世は相談役として二世を支え、新時代の幕開けに努力する二世の邪魔をしないことである。

サタンは自分以上の者が現れたり、自分以上に評価される者の出現を忌み嫌ったのである。

この課題は教会でもCARPでも依然とがんじがらめの状態で続いている。

何とばかげたことであろうか。

権威主義に陥ってはならないのである。

神山不名誉会長の姿は明日の自分の姿になるやも知れない。

お母様の願いの二世中心の体制にスピードアップして移行しなければならない。

皆さんに神の祝福があらんことを!