今日は、仏道に身を捧げられた玉城康四郎先生による盤珪の本によって、信仰の肝要、特に早期に於ける立志を考えてみたいと考えている。
盤珪という人は想像を絶する修行を積まれて、やっと悟りに至った御方であるが、自分のような無駄骨を折ることなく,やすやすと多くの人々が悟りに至ることができるよう、禅の難しい言葉ではなく、日常生活で人々が使う優しい言葉で説明された方であった。
苦労して復帰した御言葉
「只今、皆の衆は、いかい仕合わせでござる。身共等が若き時分は、名知識(悟りに導いたり悟りを証明してくれる人)がござらなんだか、又ござっても、不縁で御目にかからなんだが、殊に身共、若い時分から鈍にござって、人の知らぬ苦労をしまして、いかいむだ骨を折りましてござる故に、懲り果て、皆の衆には、むだ骨を折らしませずに、畳の上にて、楽々と法成就させましたさに、精を出して、このように毎日毎日出まして、催促することでござるわいの。」
その御言葉を精誠を持って受け取る
「さりながら若き衆、よく聞かしやれい。身共がようにむだ骨を折らいでも、法成就しまする程に、必ず盤珪がようにせいでも、法成就すると、先ずさう思うて聞かしやれ。それで咄して聞かせまする程に、よう聞かしやれい。」
藤本槌重編著 盤珪禅師法語集 12頁
理解した悟り(御言葉)を生涯をかけて深化
「身共26歳の時、播州赤穂野中村にて庵居の時、発明せし道理、また道者に相見し証明を得し時と今日と、其の道理に於いては、初中後、一豪計りも差ふ事なし、然れども法眼円明にして、大法に通達し、大自在を得たる事は、道者に逢ひし時と今日とは、天地懸隔也。汝等是の如く事のある事を信用して、法眼成就の日を期すべし」
法語集 230=231頁
実に含蓄のあるお言葉であるが、我々に於いても、若い頃に学び理解した、例えば神様なら神様が、その表現に於いて同一ではあっても、通達すべき心情は天地のさほども違うように真髄に至って、欠けることなく円かにして明らかにされなければならぬと、盤珪禅師は語っているのである。
「然れども法眼円明にして、大法に通達し、大自在を得たる事は、道者に逢ひし時と今日とは、天地懸隔也。」
頭の中だけで十分理解したと言ってみても、その人が人々の前で語ってみれば、自身が掴んだものがなく、租借された自分の言葉で語ることができずに終われば、人の心に届かないものである。
では、盤珪は如何にして凡庸な人間とは違う結果を得ることができたのであろうか?
それは既に幼少の際に萌芽が見られるのである。
「親に産みつけられた不生の仏心」・・・我々で言うところの「天の父母たる神に産みつけられた創造本性、すなわち神の心情」を如何に現すか?
盤珪の歩みを玉城先生によって振り返ってみる。
盤珪は自身を腕白者であったと述懐している。
2,3歳の頃より死ぬことが大嫌いであったという。
死というものに幼少で向き合ったというわけである。珍しいことだ。
11歳で父が死ぬ
12歳の頃
「兄に命ぜられて 村の学校に入った。また大覚寺に書を習いに行っているが、いつも早く帰ってくる。兄が責めても、言うことを聞かない。そこで兄は、途中の渡し守に命じて、弟が来ても川を渡すな、と頼んだ。盤珪は仕方なく水底をくぐって帰ってきた。兄がさらにこれをなじると、自殺をはかって、毒蜘蛛をくった、という。」
人間を外側から見たら、腕白者で、はい終わりというような判断を下されるような人物が、内面を見ればまた違った様相をもっておられることがある。
お父様の若き日も子女様の若き日も、そういう面を見せる時がある。
さて、盤珪が人生で初めて突き当たった問題が、大学の一句「大学の道は明徳を明らかにするに在り」であった。
明徳というのは一体何か?これが最重要課題であるとすれば、これが気になってしょうがない事になるはずである。ところで私は随分昔に安岡正篤による大学について説かれた本を読んでいるが、盤珪のような問題意識は微塵も抱かず、単なるいい話がここにもあったという程度で過ぎ去っていた。
では、盤珪はというと、その道の専門家である儒者に聞いてみた。すると語句の説明はしてくれたが、本当のところは分からないので、そのような難しいことは禅者に聞けという始末であった。
その頃は、近くに禅者が居なかったので、あちこちの儒者を尋ねていったという。
母親との関係が良好で、尊い話を聞いてくるといって喜ばせている。これは生涯一貫していて、
「終(つい)には願成就いたして、母にも能く弁(わきま)へさせまして、死なせましてござる」
法語集 16頁
すなわち、自らが掴み取った悟りをお母さんにも分かるように伝えて恩返しした。氏族復帰したというのである。孝心に長けた方であった。
母92歳にして他界、このとき盤珪59歳である。
偉人の母というが偉人や高僧の母の伝記があったらさぞかし子育ての参考になることであろうと思う。
結局のところ明徳はさっぱり理解することができず、悶々として投げやりになり学業もほかしてしまった。そこで兄は怒って盤珪を放逐してしまっている。
15歳の時
生家の菩提寺である西方寺(浄土宗西山派)に不動明王像があり不思議な霊感が現れると聞いて、その一室にこもって、「白業(びゃくごう)を修す」(「行業記」全集170頁)という。
白業とは何かはよく分からない。
また、真言宗の稲富山 円融寺に30日の間だ毎日参拝「観世音に黙祷す」とあり、玉城先生によれば、念仏三昧の生活に関わるものかも知れないし、「専念宗を習う」全集413頁とあることから、これを指しているかも知れないと言う。
「かれはあらかじめ、もしこの道業成就すれば霊像を得るであろう、と誓っており、その期の満つるときに寺主が像を持参したので、将来の成就を喜んだ、という。」
16歳の時
その稲富山の真言僧快雄は、盤珪を寺に引き入れようとしたが、これを拒否している。
17歳の時
赤穂随鴎寺の雲甫全祥(うんぽぜんしょう1568-1653)に出会い得度。
雲甫は、「心頭を滅却すれば火自ら涼し」の一句を残して死んだ快川に参じている。師がなくなった時は15歳であった。厳しい人柄であったという雲甫にどのような指導を受けたかは知られていないと言う。ここで数年修行した。
20歳の時
「随鴎寺を出て、諸法の知識を訪れて古人の道をたずね、あるいは林間の樹下に坐し、寒暑・風雨を厭わず、飢渇も意とせず、練行苦修を重ねている」
「玄旨軒眼目(げんしけんげんもく)」(文庫・45頁、法語集・177頁)によって、玉城先生が言うに、
「京都の五条の橋の下で乞食4年、山城の松尾(京都山城の松尾大社)の拝殿に坐して7日断食、あるいは、摂州大阪の天満(大阪市天満)のあたりで乞食して、菰(こも)をかぶって寝たこともあった、また豊後(大分)では乞食と起居を共にした、あるいは吉野(奈良県吉野山)で山ごもりも試みた、等々である。盤珪は各地を放浪しながら苦行に専念している。ことに、五条の橋の下で乞食と共にいたとき、金銭の紛失した事件がおこった。盤珪が疑われて、半死半生のひどい仕打ちにあったが、一言の弁明もせず、叩かれるままに任せていた。やがて他の乞食の盗んだ事が知れて、深く盤珪にわびたという。」
盤珪自身が苦行時代を振り返って語るに
「夫(それ)から思ひよりまして、去る禅宗の和尚へ参じまして、明徳の事を問ひましたれば、明徳が知りたくば座禅をせよ、明徳が知れる程に、と仰せられましたによって、それから直に座禅に取掛かりまして、あそこな山へ入っては、7日も物を給(た)べず、ここな巌に入っては、直に尖った岩の上に、着物を引きまくって、直に座を組むが最後、命を失ふことも顧みず、自然と転(こ)けて落ちるまで座を立たずに、食物は、誰が持って来てくれう様もござらねば、幾日も幾日も食せぬことが、まま多うござった」
法語集・14頁。同・176-177頁、文庫・44頁など参照
明徳の意味を知らんがため、垂直にそびえ立つ岩のてっぺんで座禅を組んで、転げ落ちる死の時まで、一心不乱に求め、生涯この一点の体得にかける。この姿勢は微動だにしなかったようである。信仰はかくありたいものである。
このような志を祝福二世が何時如何に持つことができるようになるか、親であれ、一世であれ、教会であれ、お父様立志の15~6歳までを目標に、否、お父様は統一原理を知らなかった。小学生、遅くとも中学生の時機には志を抱くようになってほしいものである。
さらに数年の修行の末、
24歳の時
再び随鴎寺の雲甫の許に帰ってくる。
疑惑は晴れず、あまねく善知識を訪ねるも意に適う答えは一人からも与えられず、苦衷を泣いて訴える。これにたいして雲甫は
「擬欲すれば即ち差(たが)う。是れ汝が為に、根元を掲開(開いてみること)し了(終わる)れり」
漢文は苦手であるが、こういうことか
「あれこれ考えたり他と比べてみたりすることを欲するならば求める事ができない。こう言うのはお前の(悟り)ために、根元を開示し終えたというものだ」
つまり思量せず、非思量。分別ではなく無分別ということか。
この言葉の意味を玉城先生は解釈を書かれていないので残念である。おそらく先生も悩まされた言葉であったかも知れない。
しかし、盤珪にはこれを受けて大きな変化があった。
「大いに承当(じょうとう)し」
とあり、心に会得するものがあったという。
そこで心機一転して春日山の興福寺の草庵に入り門を閉じて「あまりにも身命を惜しまず、五体をこつかにくだきました程に」命がけの座禅三昧に至った。
「一日も横寝などは致さなんだ」つまり、座りっぱなしの生活で、血が流れずきずき痛みが増す中で、座りにくいことこの上なしであっても、昼夜ついに横たわることがなかったという。
玉城先生は盤珪のこれまでの歩みを図式化すると
やみくもの模索から確立した方法に準じての苦行へ
→苦行が熟して、確信された純一化の道へ
これが盤珪の内面的発展であるとしている。
その頃の様子を本人は
「何かとその数年の疲れが、後に一度出まして、大病者になりましたけれど、明徳がすみませいで、只久しうが間、明徳に掛って骨折り、難儀しましたわいの。
それから病気が段々重りまして、身が弱って、後には痰を吐きますれば、大指の頭程の血痰が固まりまして、ころりころりと、まん丸に成って出ましたわいの。或時、痰を壁に吐きかけて見ましたれば、ころりとこけて落ちる程のことでござったわいの。その時分皆が白(もう)すは、それではなるまい程に、庵居して養生せよと云われるに付きまして、皆の者にまかせ、庵居して僕一人使うて煩ひをりましたが、漸々(ようよう)病がつまりまして、ひっしりと日の七日程も食が止まって、重湯より外には、余の物は喉へ通りませいで、それ故もはや死ぬる覚悟して居まして、其時に思ひますは、はれやれ是非もない。別に残り多い事はなけれども、只平生の願望成就せずして死ぬることかな、とばかり思うて居りました」
法語集・179-180頁。同・15-16頁、文庫・47頁など参照
私は盤珪が「別に残り多い事はなけれども、只平生の願望成就せずして死ぬることかな、とばかり思うて居りました」と語っている心情に強く惹かれる。
我々統一信徒も聖和して別世界に旅立つ前に、なんとしても神の心情を明らかにしないわけにはいかないからである。
さてこうしてひょっこりと開悟の時を迎える。
「折節ひょっと、一切事は不生で調ふものを、さて今まで得知らいで、むだ骨折ったことかな、と思ひ付きまして、漸々と、従前の非を知った事でござったわいの。」
行業記では
「一朝出でておもてをあらう。紅梅、鼻を撲(う)って、疑情頓に除くこと、桶底の脱するが如し。病も復、立ちどころに癒ゆ」
盤珪26歳の時である。
ついに志を遂げたのである。
そこでその旨を師である雲甫に報告している。
「是れ所謂、達磨の骨髄なり。然りと雖も、須く諸方の尊宿に叩き質すべし」
全集・172頁
悟後が大切なのである。
立派な先生である。
もしかしたら自分の預かり知れない世界を盤珪が持っていると感じてのことかも知れない。
悟後の盤珪も実に多くの示唆を示して下さる歩みであるが、立志と云うことでこの辺で終わりたいと思う。盤珪の不生禅とは何かは到達した人にしか説明が付かぬものではあるが、今後も学ばせて頂き統一原理の理解の手助けとして拝受していきたい。
盤珪は明徳とは何かを人生の課題として掲げ、在り来たりの説明では承伏しなかった。分かった振りをせず、とことん納得がいくまで、善知識の人々をどこまでも訪ね、また自身も座禅を徹底して命すら捨て切るほどであった。
堕落世界に堕落人間として生まれてきた我々一世は、自分と世界に対する何らかの終末観を抱いてきた。
祝福二世は我々に比べると問題意識が実に低い傾向が見られるようである。
盤珪は母親との関係が大変良好であり、母親孝行であった。
母親は祈りや子供のその時々に必要と思われる御言葉を優しくかみ砕いて与えなければならない。
伝書鳩は体の中にある袋に自分が食べたものを一旦蓄えていて、消化しやすい形の物を仔鳩のために戻して、口伝えに渡して食べさせている。
同様に人間の母親は命の御言葉を租借して子供に日々与え続けなければならないであろう。先ずはその準備を家庭を持つ前に確立していかなければならない。
また祈りのある生活の雰囲気を子供にもたらさねばならないであろう。
子供は帰ってきたら何でもお母さんに、こんなことがあった、あんなことがあったと話して聞かせたいものである。
よくよく子供の話に耳を傾け、子供が納得するまで聞ききって、励ましや褒めることを絶やすことのない様に真心を尽くしてほしいものである。
さて、敬礼式であるが、我が家では0歳から始めている。少なくとも100日式までには始めたらよろしい。
首が据わっていないので無理は禁物であるが、本人の意思では敬礼できないので、抱えて少し会釈させてきた。
たまたま子供が足の強い子供であったので、生後8ヶ月からは本人が自分で敬礼を親と並んでするようになった。
興進様がアフリカの宣教師の子女を鍛えておられる証を聞いたのが、子供が1歳のころであった。
私には20歳の頃から課題があって、ひとつに我々は神の愛する血統ではないという事実をどのように少しでも克服できるかということであった。
そこで、祈りは復帰歴史上の中心人物の名を挙げ、そこに於ける神との心情関係を巡って祈ることが度々であった。
家内からは形式張った祈りをするものだと思われてきたところがあったが、本人にとっては実に深刻な問題であった。血統は心情を現しているという。
自分は望むことができない神の血統に切ないほど憧れてきた。
あるとき一歳の子供と家内と私の三人で就寝前の祈祷をしていると、子供が祈る声が聞こえてきた。「アダムやエバ、ノア、アブラハム、ヤコブ・・・と誰々がこうしてこうなって神様を悲しませた・・・だから・・・・」そのような祈りであった。
他人の祈りが聞こえてくることがあっても、祈りが止まることはなかったが、この時は統一原理を知らない子供が祈る祈りではないので、驚いた。
霊通でもしてしまったのかと心配して、大丈夫かと子供に聞いた、子供は何が大丈夫なのか質問の意味が分からないようであった。
子供は親たちが祈っている内容をよく聞いていて覚えていたのである。
私は興進様の証によって、さらに祝福二世が神の子であるという一線を死守しなければならないと肝に銘じた。
盤珪の母親のように親の務めを果たしたいものである。
悟後の盤珪も魅力がある。
私自身、神の心情を掴むための何かを盤珪が教示して下さっている気がしてならない。
その後の盤珪と私が教えて頂いたものはまた機会を見て書きたいと思う。
不生禅の不正とは何か?我々に於ける神性とは何か?
わたしにとって盤珪は他の禅者とは違う、何か親しみのようなものが感じられる。
しかし、畳の上で悟らせてあげたいと思っていた盤珪の伝統は3代にて終わるという。悲しいことである。せめて統一信徒によってその恨みを晴らして差し上げたいものである。盤珪は自ら仏心宗を名乗っている。無に始まり無に終わる他の禅宗と違って、心情一つで生きる我々にとっては親しみがある。
全ての努力が水泡に帰した時でさえ、神の祝福、即ち心情の悟りがもたらされるまでは死んでも死にきれず、たとい死んだとしてもこの地上に再臨協助して共に精進し、また次世代、さらにその先の世代へと宿題を残すとも解決したいという決心覚悟で、天使と組み討ちしたヤコブのように、今生での完結を求めていきたいものである。