原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

父母なる神 天の父母様 は正統な統一原理観である

太田朝久氏や彼を支える方々のご活躍には心から感謝したい。

ところで、6500双のgildongという人の見解があるが、執拗に太田朝久氏に対する批判をしているようである。この方に限らず、公式見解に対する批判の執念深さは蛇のようである。太田氏の主張を切り崩すことが神山氏を擁護し、彼の主張が正しいと証明するものと考えてのことのようである。

ほとんどが屁理屈であり、統一原理の表層的な理解や誤った解釈によるもので、取るに足りないものと考えてきたが、このような大変ずれた理解は、太田氏による老婆心からなる説明が丁寧にされているにもかかわらず、今日まで続いている。

一体これはどうしてなのだろうかと不思議に感じる。

どうやらその一つの理由が統一原理を知的に理解することで全てが分かるというような姿勢にあるようである。

統一原理の知的理解は問題ではないが、あくまで出発点としてあるのであって、終着点ではないのである。

先日たまたま可知講師によるある分派に関する動画を70分も見たが、聞くに堪えない分派の原理理解に、何度も苦痛で受講を放棄したい思いになり、止めては見るの繰り返しになった。

神学論争というものは頭の中で考えだした神様で、事足りると考えることから起きてくる問題なのであろうか?

 

gildongという6500双の人は例えば以下のように勝ち誇ったように主張している。

ここに訪れている祝福二世の方には、統一原理の理解は理論理屈から心情に向かって飛翔しなければならないことを肝に銘じてほしいと願うところである。

 

 

4.原理的観点 
 
前回記事の冒頭で次のように書きました。
「先ず、最初に明確にしなければならないのは「天の父母」は概念であって呼称ではないということです(原理的観点は後述します)。・・神山先生を始め多くの方が問題視しているのは、「天の父母様」という呼び名(呼称)であって、「天の父母」あるいは「父母なる神」という概念(本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体)に関しては誰も問題にしていない・・・」
誰も問題にしていないことなので、ごく簡単にとどめます。
 
創造原理・第一節「神の二性性相と被造世界」によれば、
 
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体(人格神)であると同時に、
本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体(父母なる神)としておられ、
被造世界に対しては、性相的な男性格主体(父なる神)としていまし給う
 
と明確に定義されています。前回簡単に書きましたが、「神の成長」なる理屈を持ち出して原理講論の記載を無力化しようという考えがあるようですが、成長段階あるいは復帰途上の過渡的な部分によって創造原理が変更されることはありません。創造主、設計者としての神様の中に、被造物の成長過程、段階的創造という経時的概念は存在しますが、神様は時間空間を超越した絶対者であり、神様ご自身は永遠に不変です。単に被造世界の成長過程を経験しておられる、正確には堕落によって復帰摂理を余儀なくされたに過ぎません。
 
上記定義のうち、最初の2行は、いずれも、被造世界を観察することによって間接的に推定される概念であって、直接認識される神様の性禀ではありません。原理講論では、ロマ書1/20を引用し、作者と作品の関係から説明していることは周知の通りです。
 
それに対して、3行目は被造世界にいる人間として直接的に認識可能な神様ということになります。神様は「父なる神」として被造世界に臨まれるので、人間が神様を天のお父様と呼ぶことは原理的に妥当であると言えます。
 
これを図示すると下記のようになります。
 
 
 112901

 
神様は、被造世界に対しては、性相的男性格主体として臨まれるので、矢印Aに示されるように、人間が授受作用することができる対象は、あくまでも「父なる神」であり、「天のお父様」として、唯一なるお方を認識することが自然と言えます。一方、本性相と本形状の二性性相の中和的主体(人格神)や、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体(父母なる神)は、矢印Bで示されるように、人間が概念上の観察者として被造世界という系の外から神様を推定しているに過ぎず、それらの実体はあくまでも「中和的主体」として父なる神(性相的男性格主体)に含まれていると言えます。
 
さらに創造原理「神と被造世界との関係」の記載、すなわち「被造物はすべて無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された神の実体対象である」という記載から明かなように、人間が男性女性の何れかとしてのみ存在するのは、創造が神の二性性相の「分立」であることによるなら、根源者である神様は一なる存在であり、父母という概念や属性はあったとしても、父と母の2つの実体の総称である「父母」と呼ぶことは原理的に妥当でないと言わざるを得ません。
 
 
112902 

「父母」という2数を意識させることによって、神様と人間との授受作用を阻害することや、あくまでも人間に過ぎない真の父母と神様を混同させ、人間を神格化しようとすることは、サタンの目的にかなう悪神の業と言わざるを得ません。

 

彼は言う。

「先ず、最初に明確にしなければならないのは「天の父母」は概念であって呼称ではないということです」

これは我々が日常で言葉を使う感覚とはかなりかけ離れている。

例えば「テレビ」という言葉で考えると、「テレビ」は概念を示すと同時に呼称でもある。別々に分けて考える必要がない。言いかえれば「テレビ」という呼称は「テレビ」の概念を表しているというのが普通の人の受け取り方であるかと思う。

 

概念と呼称を無理矢理区別することから論理展開している。

 

「人間が男性女性の何れかとしてのみ存在するのは、創造が神の二性性相の「分立」であることによるなら、根源者である神様は一なる存在であり、父母という概念や属性はあったとしても、父と母の2つの実体の総称である「父母」と呼ぶことは原理的に妥当でないと言わざるを得ません。」

と言い、原理講論の神の定義に関する箇所に( )を付けて解説している。

 

「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体(人格神)であると同時に、
本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体(父母なる神)としておられ、
被造世界に対しては、性相的な男性格主体(父なる神)としていまし給う」

 

神様の定義が「AかつBかつCの条件が満たされれば神である」というような表現になっているが、本来神においては一つに統一されているのであって、単に言葉ではこのように構造的に表現するより他に方法がないので、このように定義されているのである。その意味で神は構造的な存在ではなく統一的な存在である。

 

gildongの統一原理の理解は極めて観念的傾向が強いように感じられる。

別のいい方をすれば、我々は信仰生活の実践の中で御言葉を復帰し理解しなければならないということであるが、まるで頭の中で信仰しているように感じられるが、大丈夫であろうか?

さて、gildongは「人格神」とは如何なるものであると了解しているのであろうか?

私の場合はこの言葉には随分手こずらされてきた。腑に落ちるようになるまで数十年かかってしまった。

ある神秘的な体験をし、その後しばらく経って、神の導きによりお父様が語られる内容とお姿を見ることになり、それが自身の体験と極めて一致したことからこの言葉に対する違和感がなくなり、ある意味で人格神という言葉が必要でさえなくなった気がする。

では父母なる神のほうはどうであろうか?

なるほでそうか、jildongは正分合作用の合の観点が欠落しているのでこのような論理展開になるのであろう。正分で考察が終わっている

 

人間は一なる神から男と女に分立されたことは確かである。しかしそれは、「正」の時の神に内在していた男と女の要素が、そのままの状態で留まることを神が願われず、いっそう強化され発展するために、一旦分立し「分」、その後元通り合性一体化するためである「合」。

我々はこの正分合を体験しなければならないのである

分で終わってはならないのである。

この辺の理解がずれているようである。

言わずと知れたところではあるが、正分合の合とは、一つが夫婦が一体一如になることである。一体とは心情の一体一如とは心情一体化した夫婦が行動を一つにすることである。御父母様を御覧になれば誰でも知っていることである。

つまり真の御父母様は神の如く一つの人格を人類に示すために来たという表現も可能であろうかと思う。

もう一つは子女であった。

 

ところでお父様が還暦を迎えた頃、しばしばお父様がお母様の手を引かれて行かれるお姿を拝見して、子供でもないのにと不思議な気持ちがしていたことがあった。

私が外的に形だけを見ていたからである。

現在私も還暦がもうそこまで来ているが、最近つくづく感じることは、私と相対者が一つの人格に融合されるべく導かれているという実感であり、感覚である。

その方が二つでいるより自然であるような気さえするのである。

さて、こんな風に感じるのは私の方だけなのだろうかと思っていると、数日前に帰宅した相対者が彼女なりの表現で同じようなことを言ってきた。

やはりそういうものなのかと、還暦の御父母様のお姿を追慕することになったのである。

gildongも、おそらく私のような年齢になると、このことが分かるようになることであろう。

お父様の御言葉では一体化した夫婦は霊界では、夫を見ると女性が見え、それが相対者であると言い、同様に妻を見れば男性が見えて、それが主体者であるという。

ところがこうした事は霊界に行って急にそのようになるのではなく、イエス様が「地で解かれたことが天でも解かれる」と言うが如く、地上生活で起きて後、天上生活でも同様なことが起きるということである。

従って陽性の実体と陰性の実体に一旦分立してはいるが、その目的は一つの人格として高次に統一されることにあり、このことによって我々は真に神の似姿になるのである。

その見本を真の御父母様が究極の有り様で我々の前に、また全人類の前に勝利宣言をされたので、後は基元節を待つばかりであったのである。

もし、お母様だけでは祝福の式が不可能であるとか、無効であるとかいうのであれば、興進様も天におられて薫淑様しか地上におられなかった祝福結婚は無効になるはずであるが、お父様はそのようにはおっしゃられていないのである。

このように三次のご成婚を無効と考える信徒が現れてきたことを思うと、興進様が不本意にも天におられる状態でご結婚されたことが、かえって今日お父様の三次のご成婚が成立された正しいものとして証して下さることになり、大変感謝しても足りないことである。

一体聖和された時点のお父様が到達している境地と、仮に紀元節まで生き延びた時のお父様と何処がどう違うというのであろうか?既にお父様は最終的な勝利宣言をされているというのに何が言いたいのかさっぱり分からないところである。

相当頭の中が混乱しているようである。

レゴのブロックを積み重ねるようにしてgildongは神を理解し続けていく。

 「創造主、設計者としての神様の中に、被造物の成長過程、段階的創造という経時的概念は存在しますが、神様は時間空間を超越した絶対者であり、神様ご自身は永遠に不変です。単に被造世界の成長過程を経験しておられる、正確には堕落によって復帰摂理を余儀なくされたに過ぎません。」

成長する神というのは、知的に理解することではなく心情的に理解するべき事柄である。成長する神あるいは神の成長に関しては、よくよく太田氏の説明を心情的に理解されることを勧める。

せっかくなので、祝福二世の方のために、時間を超越する神とは一体、心情を中心としてどのように理解することが出来るか、考えてみよう。

神にとっては全てが今の出来事なのである。

これを分かりやすくするために、一段低い表現にすると、

過去の出来事を今の出来事のように感じ、未来の出来事を今のように感じる

と表現すればわかりやすいであろう。

しかしである。「のように」はよけいなのである。

そのものなのである。

神におかれてはアダムとエバの堕落もたった今ここに起きているのである。

人間は地上においては時系列で物事を考える。

また構造的に捉える。

しかし、神は統一して捉える御方であられる。

神は今感じ今考える御方である。

ノアも今。アブラハムも今。モーセも今。イエス様も今。2020年も今。

過去現在未来は今の一点に存在しているのである。遠い昔にアダムとエバの堕落によってもたらされた心の痛みが、過去の痛みとしてあるとかその余韻は今もあるとかいうのではなくて、たった今神の胸の内にあるたった今感じている痛みなのであるこれを時間を超越しているといいノアの歩みの場もここにある。アブラハムの歩みの場もここにある。モーセの歩みもここにある。イエス様の歩みもここにある。2020年もここにある。それが空間を超越していることである

ところでこの空間を超越しているというのは、物理的な距離を超越していることも、さりながら、心情的な距離をも超越しているということが重要である。

何故神は摂理的中心人物の名をもってご自身を表そうとされるのであろうか?

「我はアブラハム・イサク・ヤコブの神である」

神と人は別々の実体であるはずである。

ところがそれでは居心地が悪いと神様はお考えになられるのである。

そこで、神はご自身と人を同一視して生きるのである

これを臨在と言う。

神われらと共にいまし給う。

インマヌエルである。

神様は人と共に住みたかったのであるが、エデンの園を追い出されてしまい、流浪の身となられてしまわれたのである。

さて、私のような堕落人間は勿論のこと、如何なる宗教指導者も例外なく指摘する資格がないことではあるが、イエス様同様に一代で人類を救う使命を歩まれた、真のお父様にして初めて、ただ独りおっしゃることが出来るのが、ゲッセマネの祈りにおける神とイエス様の二心問題である。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」

マタイ26章39節

お父様の正確な解説ではなくて恐縮であるが、

このようにイエス様が祈られたということは、神とイエス様が一心一体ではなかった事を物語っている。「もしできることでしたら」そして「みこころのままに」ということは、神の心が理解できていない結果となってしまうのである。

神の心とイエス様の心が二つである。二心であると

gildongの初めの図ですが、確かに神様は超越神である。

しかしその超越した神様は人間の生心に臨在されて、共に生き共に暮らしたいとお考えの神様でもある。超越神であり内在神である。この超越神と内在神の統一。超越と内在の統一を完成させたのが真の御父母様であり、これは直接主管圏を完全に全うした結果なのである。

さて、先程の話にもどって、時間を超越している神にどのように我々は似ているのであろうか?

これは「歴史の結実体」という言葉で表現されているのである。

過去現在未来がたった今の私の中にあるということである。

これは血統的に、先祖代々が私の今にあり、子孫代々が私の今にあるということである。

また、心情の継承者として、復帰摂理上の中心人物の連綿の心情が私の今にあり、神の創造理想を担う子孫の心情が私の今にある。

そういった心情を時空を超えていると見ることができるのである。

 次の図は既に語ったように、正分合の合をはずした図であるので、解釈がずれてくるのである。

それ以上に酷いのが、

「 あくまでも人間に過ぎない真の父母と神様を混同させ、人間を神格化しようとすることは、サタンの目的にかなう悪神の業と言わざるを得ません。」

人類始祖のアダムとエバが堕落しなかったとしたら、アダムとエバは神格的存在であった。神の似姿として造られ、お父様は宇宙の最も重要な真理は「神と人間が親子の関係である」と語っている。

gildongのような考えはでてきようがないのである。

もともと人間は神格的存在として造られたのであるから。

ともかく、神学論争をふっかける方は頭でっかちな方が多いようである。

「頭使って神格成せず」と言うことのないように、くれぐれも御言葉は心情を求めて研鑽していきたいものである。

こうしてみると、残念なことではあるが

神山氏の信仰が真のお父様の心情的信仰と大きく異なっていることを確認することが必要なのかも知れない。

 

<後日追記>

 gildongが何を言いたかったのか最近分かるようになってきた。

神山氏がもっと問題を整理して提起し、それに追随してgildongが主張を展開すれば、

もっとわかりやすくなったことであろう。

 

私は「天の父母様」や「父母なる神」という言葉自体には問題がないと思っているが、

確かに悪用する者たちが出てきたようである。

言葉に込められた意味とその使われ方によってとんでもないことが起こることはある。

現在ではその点を考慮して以下のサイトのように捉えている。

 

 

アダムは実体の神 エバは実体をもった神様の妻 - 原理講論を読む