原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

妍進様と情進様の祝福に感謝し救われる思いが! 呉偉業の詩とドラマ「商道」の物語に心情を学ぶ


商道14 呉偉業の詩で清の商人の心を動かす。 - Dailymotion動画

 

ドラマ「商道」で取り上げられている詩は特定できないが、

呉偉業が明代に立てられた建物が清代に引き継がれた庭園で、今も庭番として残り働く老人に出会った時の詩がある。

分かりやすいように意訳してみた

 

日が暮れて もはや留まりがたくなり

薄明は なお青やかに満ちている

馬に鞭を打ち ここを離れるも

悲しみは ただ腸をえぐるばかりだ

むしろ願う この老人であったならと

鍬を背負いて 世の移りに委ねる歌を歌う

愕然として 二朝を渡る浮き世を悲しむも

世界は あまりにも広漠としている

 

ドラマ「商道」で主人公のイム・サンオクが北京一の薬材商に最高級の高麗人参を売りに訪れたが一向に会ってくれない。そこで、紙と筆を貰って一編の詩を書き店主に渡してほしいと願う。すると、店主は今までの態度をがらりと変えて、その詩を書いてみせた真意を問うのであった。

 

「この詩の作者を?」

「呉偉業の詩です」

「呉偉業を知っているのか?」

「はい」

「話してみなさい」

「明朝最後の皇帝 崇禎帝(すうていてい)の時の管理でした 36歳の時、明が滅び在野に下りましたが 40代半ば 節義を守れず清朝官吏になりました 私が差し上げた詩は 節義を守れず2つの王朝に仕えたことを嘆いた詩です」

「何故その詩を私に?」

「店主様も漢民族の子孫として同じ心境なのではと・・・私も明が女真族によって滅ぼされ 人々が苦しみ 文物が侵されたことを痛ましく思っております 私の住む朝鮮も二度の清国の侵略で苦しんだので 店主様の無念がよく分かります」

「・・・今まで多くの商人に会ってきたが 私の思いをこれほど分かってくれたのは君だけだ 君のような商人ならその品物も信用できる 持ってきた品物を見せてみなさい」

と言って結局全部買い取ってくれることになったのである。

しかも、後日再び呼ばれたので何事かと心配してみたが、会ってみると

2店舗ほど作れる程の金銭、即ち天銀200両を無条件で君に差し上げるといい、もし返したい時は君が成功した時でいいと言われたのである。

 

さて、これを一緒に聞いていた兄貴分は主人公を連れて遊郭に行った。主人公は酒だけで女を要求しなかったが、兄貴分が金を払っていたので女が連れてこられた。

女にとって主人公が初めての客であったが、サンオクは自分はお前を必要としないので、今ここからでていっても良いと告げた。

ところが、この娘は依然として救いを求め続けたので、サンオクは事情を聞くことになった。あまりにも懇願し続ける姿に、かってサンオクに人生を諭した山寺の和尚の言葉を思い出したり、理不尽な仕打ちから妹が遊女になって身を持ち崩していったことを思い出して、遊郭の主人にこの女を譲ってほしいと交渉することになった。

主人はこの女は店一番の美人で若くあなたが最初の客だったといって、天銀200両を要求してきた。驚き途方に暮れるもサンオクであったが、正しい行いをするのはこの時とばかりに天銀200両を差し出してしまったのである

女は囚われの身から釈放解放され晴れて自由のみになったのである。

さて、この助けた娘はずっと先になってサンオクの力になるようになるのである。

 

心情から祝福というものを考えてみた時に

我々は誰一人として、その恩恵を受けるに相応しいものは存在せず、

天の父母様と真の父母様による一方的な恩恵として与えられたものである。

我々自身が受けるに相応しい条件を携えているのではなく、真の御父母様の勝利圏によって、サタンの支配から買い取られ救われたのだと言うことである。

 

また真の御父母様はお二人にとってご自身の命よりも大切な宝である御子女様を顧みられることなく、我々堕落人間がサタンのくびきから釈放解放されるために、心情の限りを尽くして下さったのである。

 

授受作用とは心情の作用のことである

真の御父母様が、ご自身の命よりも大切な御子女様を孤児のような道に放って置いて、我々の如き価値のないものどころか負の価値しか持たない存在を、あたかも宝のように大切に扱って下さったのである。

それは我々が与えられた祝福において最も表現されているのである。

そうであればこそ、授受作用から、心情の作用から、居ても立ってもいられない想いがこみ上げてくるのが極当然の我々の立場である。

即ち、我々が祝福を受ける事以上に、我々の子女が祝福を受ける以上に、待ちこがれ切なく願い、たとい我々の祝福が剥奪され我が子の祝福が剥奪されようとも、御子女様の祝宴の日を迎えることが出来るなら、これ以上の幸せはないという本望だけがあるばかりであるはずである。

このたび妍進様と情進様の祝福されたご婚礼を迎えることが出来たことは、先ずもって我々自体の救いである。負の価値に汚染された 堕落人間である我々が祝福を受けて御子女様が未だ受けられずというような事が続くことは針の筵に座しているような日々であったが、こうして栄光の日をお迎えできて、我々の罪が再び許されたような感慨がある。

 

真の御父母様に真の愛で至誠を尽くされた時に、お呼びでないものであり不肖な身ではあるけれど、真の御父母様に愛された以上にお返ししたいと思うのが、心情の因縁で結ばれた父子の避けることの出来ない想いであるはずである。

本来御子女様に注がれるべき心情を、結果として我々祝福家庭が御子女様から奪ってきたのである。

真の父母様が我々を愛する限り、我々はその頂いた愛情を預かりものとして御子女様にお返しすべく生きなければならないことは当然のことなのである。

心情から全てを判断しないと統一原理は理解できないのである。

 

さて、76年にお生まれになった善進様ですら、今年来日した際に

「私の人生において、最近の二、三年ほど、
娘として真の父母様とともに過ごせた時間はありませんでした。
真の父母様と過ごす貴重な一瞬一瞬を通して、
多くのことを学ばせていただきました。」

とおっしゃられたのである。

「たった最近の二、三年ほど」しか親子の交流がないというのである。

捨て子のような道を行かれてしまったのである。

真の父母様の血統と心情を持たれる御方がである。

 

お父様は以下の御言葉を語られている。

 

「先生の家庭に様々な問題があったということは、サタン世界にいる祝福家庭たちが責任を果たせなかったためなのです。先生の家庭の子供たちは、どんなに誤ったとしてもサタンとは関係がないのです。」

四十日海洋修練会 2000年11月11日

 

 

「野生のオリーブの木では、千年を生きても野生のオリーブの種を生産せざるをえない悪循環が継続されるからです。これはどういうことかといえば、先生の息子、娘がたくさんいます。親戚が多いのです。この先生の息子、娘はたとえ今、堕落行為をしたとしても、心配は要りません。これは生まれつき先生の血筋です。ですから、条件に引っかかったとしても、サタン世界に完全に引っ張られていくようにはなっていません。先生が勝利したので、いつでも神側に引っ張ってくることができます。ですから、先生は、放っておいても安心なのです。」

真の神の日記念礼拝 2006年1月1日 

 

 

お父様の御言葉を根拠として理解することは大切であるが、それ以上に我々の心情に真の御家庭に対する孝心があるかどうかが、授受法を心情的に掴んでいるかが信仰の根幹なのである。

 

商道のドラマで主人公が呉偉業の一編の詩に託した心情を、漢民族の店主の心情に響き意気投合するようになり、門前払いした立場からこのような心情を解する男ならその商品も確かであろうと全て購入して、普通ならこれで均衡して終わるものを、さらに与えたいと願うのが心情の世界なので、無条件で天銀200両を与え、サンオクの人物を見越して、どうしても返したいと思うなら君が成功した時でよいと言い添えるのである。堕落人間が作ったドラマにしてこうである。

妍進様と情進様の祝福に何やら原理を持ち出して批判をするのであれば、一旦自分の祝福を返上してから述べるくらいの覚悟は最低必要であろう。

子女様を天銀200両に喩えることはいささか不謹慎ではあるが、このドラマを基に考えてみよう。

サンオクが呉偉業の詩に表現された心情は「二人の主人に仕えず」。いわば神に対する絶対的信仰を勝ち取った真の父母様の勝利圏に準えることが出来る。

店主は神の立場である。我が意を得たりと祝福し願いの取引を受け入れる。そればかりかこの勝利圏が相続されるべき財産となるよう天銀200両を下さり、タラントが増えることを願われた。天銀200両とは御子女様、タラントの増加とは御子女様の御子孫の繁栄である。

ところが本来神様が願われた御計画を自らが受け取ることなく、真の父母様はご自身の子孫の幸福と繁栄と引き替えに、サタンのくびきで罪の囚われにある我々堕落人間を買い取って下さったのである。

遊郭の奴隷の身から晴れて自由の身になった女は、片時も自分を救って下さった御方のことを忘れはしなかった。富豪に嫁いでいた彼女は、窮地に陥っていたサンオクを助け、そのことによって自らの負債を清算することが出来たのである。

我々は真の父母様に救い出された感謝を何処であらわすべきであろうか?

勿論、御子女様の祝福とお幸せの中にである。

二世同士の祝福でなかったことは残念であるが

すでにその道を出発されたからには心から幸せをお祈りしたい。

遊郭に売り飛ばされて何の希望もなかった女が救われて、自分を救って下さった主人に何とか恩返しをしたいと日々を送っていたのである。

真の御父母様の恩返しするというのは、御子女様や御孫様を支える基盤となることである。

真の御母様は現在、ご自身の真の母としての責任と聖和されて天に行かれた真のお父様の責任の二つを一人で引き受けて2020年に向かって、先頭に立たれておられる。ある意味でこれはお父様ですら経験のない道を人類のために歩まれておられるのである。お父様がこれほどあなた達に尽くされたのに、どうしてあなた達はお父様に似ていないのかとため息をつかれる時、お母様をお支えすることの出来る体制が出来ていないことが憂慮される。

お母様が先頭に立たれているので統一教会はもっているのである

心情は心情を呼び

心情は最も大切なものを無償で差し上げ

心情は自身が窮地の中にあっても他者を見過ごして過ぎ去ることが出来ず

心情はもう与えることが無くなってしまった空っぽの心の中に限りなく溢れてくる。

 

さらに、遊郭に売られた女性の話まで知りたい方のため「商道」14話を以下にリンクした。

 31分ぐらいから天銀200両の話があり、43分ぐらいの所から遊郭に売られた女とのやりとりがある。画面下のバー上にマウスでポイントすると時間の経過が現れる。上記の時刻でクリックして動画を始めると良い。

商 道 第14話 - Dailymotion動画

 

<追記>

最近は、お母様が御旨成就のために先頭になっておられることは、

見かけ上は形としてはそのように見えるが、

お父様とお母様のお考えには相当な違いと距離があることを知るに至った。

お母様の御旨に対する動機が、独生女神学に支えられていることは誠に残念と言わざるを得ない。