原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

日本統一協会も世に存在する多くの組織のように組織疲労を起こしているのかも知れない

真のお父様は心情を常に重視される方であった。

このことは組織を考える場合でも例外ではないであろう。

現在では牧会者・教育伝道部長・総務・会計の職種があり、信徒側には壮年部長・婦人部長がある。規模が大きな教会では青年部があり青年部長のような立場があるのかも知れない。

ところで各地の教会はその時々の神の摂理に対する貢献と、信徒の心霊の成長による伝道基盤の拡大、すなわち会員の獲得と会員数の増量の、大きく二つの願いが期待されている。

このバランスを調整するのが牧会者の役割である。

ところが前者に投入しすぎて青田刈りをして教会を疲弊させてしまうと、翌月からは大変険しい道を歩むことになり、そのようなことが長く続けばばったりと組織は倒れてしまうことになるであろう。

人間は誰しも今どうすれば自分が報われるか、自分が評価されるかをもって行動する傾向が強い。

そこで牧会者が直上の上司に評価されんがために無理な行動を続けていくと、信徒は枯れ果て教会に足を運ぶことが重くなるというような事態に陥りかねない。

牧会者は何を最優先するべき職責であろうか?

当然信徒の霊的成長であり復活である。

霊的成長が円滑に進むためには、御言葉の理解と生活に対する応用が不可欠であり、さらには人間の責任分担の重要性から、自発的動機の成長が望まれるところである。

いつまでも一方的に牧会者が御言葉を語り、「こうせよ」というようでは信徒の心霊は子供のままで成長を阻害されることになるのである。

本人の自発性や主体性によって問題を解決したり、今どうすべきであると道を見出すか、その信徒を支配するのではなく協助、即ち自発性が育つように支援できることは何かを知り提供することが本筋になってくるのである。

多くの牧会者を知る立場には居ないが、環故郷の摂理以降の牧会者の質の低下には目を疑うものがあるように感じられることがある。

十数年牧会者を務めていながら、一向に牧会ができないという場合がある。神学校を卒業しながら牧会に自信がないという場合さえある。ご本人達も自分の課題に気づいているが如何ともしがたいという実情もあったりする。

私が不思議に思うのは何故直上の上司達は牧会ができるようアドバイスを与えることがなかったのかということである。

こんな苦しい生活はなかったであろうと思われるからである。

昔は毎週聖日礼拝に一体信徒のため何を語って差し上げるべきか、本当に教会長は悩まれたと思う。

ところで、協会本部が牧会者が忙しいからといって、礼拝のアンチョコのような資料を毎回造って差し上げたらどうであろうか?

それは大変な間違いである。

牧会者も信徒のひとりであることには変わりがない。

自発的動機の成長によって心霊の成長と復活を得るべきなのである。

人間は苦労して得たものしか自身には残らないものである。

真のお父様もイエス様もご自身が体得された内容を御言葉として語って下さったのであった。

われわれはそこまで行かなくとも、御言葉を生活に活かしてみたら、こういう結果や恵があったと言うような体験として、御言葉を信徒に伝えるべきである。

信徒は牧会者の言葉ではなく生活に御言葉を見出して、希望をもち自分もそれに倣って御言葉と共に生きたいと願うものである。

人材がないからしょうがないという人もいるのかも知れない。

牧会者ひとりをまもることとひきかえに、協会員の全ての心霊を失っても良いものであろうか?わたしはそのようには考えない。

しばらく総務部長や伝道部長で凌げばよい、信徒の心霊に打撃を与えるよりは遥かにいいのである。

牧会者の人事の際には赴任していた教会信徒による評価も為されるべきである。

それによって自分が信徒のどのようなニーズに応えることができ、またどのようなニーズに応えることができなかったかを知ることができ。

上司も教会の事情を把握することができよう。

現在では牧会者より遥かに信仰歴の長い、30年40年信仰してきた信徒も教会には多く見られる。

すると役職上は牧会者に信仰があるように見えても、実際には信徒の方にあるというような逆転現象が起こってくるのである。

ところがもしおれ様は牧会者様であるというような立ち振る舞いをすれば、信徒は枯れ果てていくことであろう。

イエス様も真のお父様も仕えるために地上に降り立った。「父母の心情、僕の体」と言うが如くである。

サモニムとは何であろうか?

サモニムに神の愛する個性があり、教会生活を潤す何かを持っている場合には、教会の運営に積極的に関わっていくことは良いことである。

しかしながら、特別なものをギフトとして持っていないとしたら、そのサモニムは教会運営に入り込めば逆効果である。

夫個人を支えることで教会にプラスになるよう専念すべきであり、出しゃばらないことである。

牧会者夫婦が仲が悪く別居状態であり、しかも教会の信徒が誰でも知るような場合は、牧会者にしてはならない。

希望があり幸せな牧会者夫婦であるからこそ、伝道された方々も祝福を受けたいと考えるのであって、そこには真理はない。

では夫婦はどうあるべきなのか、私が若い頃、会津に工務店をされていた信徒がおられた。その方とお会いした際に、その方の相対者に対する態度があまりにも素晴らしかったのでずっと心に残っていた。

真の御父母様が選んで下さった相対者にたいする愛情ばかりではなく、尊敬の念が本当に見事に伝わってきたからである。

この兄弟から悟らされたことは「相対者を愛するだけでは充分ではない、尊敬するようにならなければならない」ということであった。

敬愛。これが大切である。

私は足りなかったのでこの兄弟に教えられながら、同じ心情を知るまでその後随分時間がかかってしまった。情けないことである。

兄弟は実にそれぞれ神から与えられ預けられた賜物を持っているものである。

統一協会は牧会者を直上の上司やさらに上位によって評価した来たことがほとんどであろう。

その人達はサラリーマン牧会者である。

短期間で人事となり、その時課せられた願いに答えればそれで万事良しである。

地域社会に於ける発展はお題目としてはあっても、実際にはなおざりになる傾向にあることだろう。

人間は自分の立場でものを考える存在である。

どうすれば一番報われるかを判断し行動に移す。

時の摂理に貢献することのみに重きを置けば教会は形骸化されていくことであろう。

既成教会でも、月間の献金状況をグラフ化したり、月間平均礼拝出席者や洗礼を受けた者の累計をやはりグラフ化したり、前年対比で成長率を出して評価したりすることがある。

しかし大切なことは教会の信徒が幸せに満ち、希望にあふれ、日々心霊の成長をもって復活して生活しているかである。そのような教会は発展することであろう。

牧会者が独善的にならないように、信徒が投票で選んだ長老によって牧会者が聖書に忠実に教会運営を行っているかどうかを見るチェック役が既成教会にはある。

総務も執事のような名称の方がよいかも知れない。

単なる外的な仕事ではないからである。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」

山本五十六上杉鷹山の言葉に褒めるを加えて人間の教育のポイントを纏めている。

現在二世が多く育ってきているが

牧会ができ講義ができ伝道ができる二世となると、数えるほどしか居ないのかも知れない。この3つを習得した二世を繁殖することが教会発展の原動力となることだろう。

もし組織変革を為すことができないようなときには、

70年代にお父様が語られたホームチャーチに伝統を残して行くしか道がないであろう。ホームチャーチは全ての信徒が牧会者であり、教育部長であり、経理であり、総務である。

開拓教会に他ならない。