原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

統一原理から見た 西田幾多郎と鈴木大拙 4        竹村牧男著 <宗教>の核心 西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ を参考にして

信仰は、他力の側面と自力の側面の両面とを併せ持っている話を前回してきた。

絶対者の責任分担95%と人間の責任分担5%があり、合わせて100%完成される。

人間の5%とは神から見ての5%であり、人間自体に於いては100%を意味している。

そこで上座仏教や禅の自力は後者にフォーカスして見たのであり。

大乗の浄土系思想においては前者にフォーカスして見たのであって、

二つで一つと見ることができる。

大拙が禅の悟りの体験によって浄土経系思想を見ているのはこのためである。

 

親鸞が59歳の時に風邪で高熱を出しうなされ「ああそうか。」と言うのを恵信尼が側で聞いて尋ねると、無量寿経夢現にずっと読んでいたという。

それで17年前に同様のことがあったことを思い出している。

 

その事を竹村牧男先生の親鸞と一遍」31頁に、

親鸞は、越後から関東へ行く途中、「さぬき」というところで、三部経の千部読誦を思いたつ。それは、農民らが飢饉などに苦しむ姿に接して、何とかしたいと思い、経典を読誦してその功徳を彼らに回向しようとしたのである。

 しかし親鸞は、これを始めていくらもたたないうちに、中止してしまう。そこに自力への執心を見たからであり、念仏のみで一切が片づくはずなのに、それ以外のことをしようとした信仰の不徹底さを自覚したからであった。この体験は、親鸞に後々まで深い影響を与えたのであった。

 三部経とは「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経

通常はよくよく他力にすがるべしということで解釈されるところであるが、統一原理では人間に責任分があるので自然のことであり、排除されるべきものではないと捉えられる。

 

また唯円が書いたとされる歎異抄には

念仏を申しましても、踊躍歓喜のこころのとぼしいこと、また早く浄土へまいりたいとのこころもないことは、どうしてなのでしょうか、と申し上げ質問しますと、親鸞は、自分もこの疑問があったのだが、唯円房もおなじこころであったことだ。しかし、よくよく考えてみると、天にのぼり、地におどるほどに歓ばしいことさえ歓ばないのだから、いよいよ往生は決定と思いなさるべきだ。・・・踊躍歓喜のこころもあったり、いそいで浄土にまいりたかったりするなら、煩悩はないのだろうかと、うたがわしく思いなさるべきだ、などとおっしゃいました。

 

 統一原理で言うところの「復活」がないと言うのである。

原理講論復活論から少しばかり引用する。

 

復活というのは、再び活きるという意味である。再び活きるというのは、死んだからである。そこで、我々が復活の意義を知るためには、まず、死と生に対する聖書的な概念をはっきり知らなければならないのである。

 

 

復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。
聖書で、復活に関する例を挙げてみれば、ヨハネ福音書五章24節に「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と記録されている。これは、イエスを信じることによって、サタンの懐から離れ、神の愛の懐に移ることが、すなわち復活であるということを意味するみ言である。

 

 

復活摂理をなさるに当たっても、神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。

 

仏教に於いても経典に書かれている仏陀の御言葉を学び実践することによって、より善化していき復活し、その結果として踊躍歓喜が起こりうると考える。

私自身も仏典によって復活することがあるのであるから、普遍的真理を説かれているものには同様の結果がもたらされることと思う。

 

以上人間の責任分担と御言葉を信じ実践することによる復活についていくらか述べてきたが、そろそろ西田に戻らねばなるまい。

 

ただ、親鸞のために竹村先生の見解にいくらか異論を申し上げる。

親鸞と一遍 22頁

 なるほど親鸞は、朝廷の念仏弾圧によって、越後に流されるという体験をもった。元来、都人であった親鸞にとって、越後への旅は、相当に気の重いものであったろう。『親鸞伝絵』は、「法然さまが、流刑に処せられなかったら、私も流されることがあったでしょうか。もし私が流されなかったら、辺鄙の人々をどうやって教化できたでしょう。この流罪も、師の恩の極みにほかなりません」と親鸞は思ったと伝えている。しかし、浄土教の未開の土地へいって念仏を弘めるのだと、心をふるいたたせてはみても、寂しさは隠せなかったと思われる。

 

「寂しさは隠せなかったと思われる。」は信仰する者として見過ごすことができない。

竹村先生には本を通して色々教えて頂いている身ではあるが、あえて、

大変な間違いであると言わせていただきたい。

もしそうであるなら、親鸞は大した信者ではない。

阿弥陀仏の導きに絶対安寧の信頼をもって身を委ね、そこに阿弥陀仏が与えてくださる「恩の極み」を拝受されたのである。ここに親鸞が現象の背後にある阿弥陀仏の慈悲という本質を、絶対他力に委ねる中に見出しているのである。

断じて誤ってはならないところである。

信仰は形が違っていようとも

得意の時に栄光在天があり、失意の時に永遠感謝がある

これが基本である。

親鸞は正しい見本を我々後孫のために残してくださったのである。

 

だが、そろそろ寄り道を止めて、大拙と西田に戻らねばなるまい。

 

自由について大拙が語っているところがある。

スチュワート・ミルというイギリス人が

自由を表す二つの言葉リバティとフリーダムを用いて「自由論」を書いていることに対して、大拙自身の自由論を披露している。

 

西洋のリバティとかフリーダムという言葉は、圧迫から離れるというような意味で、そこに消極性をもっておる。多くの人は知らずにおるだろうが、「自由」という言葉は、圧迫性から解放されるという意味の自由ではなくして、おのずからそのものがそのものであるという、それをさして自由というのです。そこに内面性があって、圧迫から離れるということではなくして、積極的で、自然にそのものになる。柳は緑、花は紅、松は松、竹は竹ということになる。その自然性というものを含めて、より深く、本来の自己、真実の自己のままにという意味を蔵しています

 

「自由」とは、自らに在り、自らに由り、自らで考え、自らで行為し、自らで作ることである。そうしてこの「自由」は自他などという対象的なものではなく、絶対独立の「自」ー「天上天下唯我独尊」の、我であり、独であり、尊で在るーであることを忘れてはならぬ。これが自分の今まで歩んで来て、最後に到達した地点である。

 

明治の精神と自由 「大拙全集」第21巻 「東洋と西洋」219頁

 

さらに大拙「自由は妙用である。この妙用がわかるとき、自由の信義がわかる」とも言っている。

原理講論堕落論では

(一)自由の原理的意義
自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する(前編第一章第五節(二)(2))。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。
第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。

仏教では先ず先に自然があって我がある。そこで自然の中に調和するように我が身を置くというふうになる。

これに対して統一原理では

先ず神があり、構想時には、神の似姿に人間を作り、次に人間の似姿に天宙を造ったとする。

これが実際の創造時には、人間が生まれ育つ環境世界である天宙のほうが先に造られ、次に人間が創造された。

存在物は個性真理体と呼ばれ、

神の似姿とは

人間は神の形象的個性真理体(そっくりそのまま)

その他の万物は象徴的個性真理体(部分的に似る)

 

神による愛の主管→人間による愛の主管→万物

親       →神の子として   →万物を主管

 

さて、上記の原理講論では自由の三原則を明示している。

1,原理を離れた自由はない

2,責任のない自由はあり得ない

3,実績のない自由はない

 

人間は天宙の万物と同様無形有形の要素からできている。

万物には原理自体の自立性あるいは主管性が備わっている。

神の世界の統一性という原理が既に自体内に存在している。

さらに人間は万物と違い自由意思自由行動がある。

これは神が三大祝福をして、これらを成就するために人間に与えた責任を果たすためのものであった。

三大祝福とは

1、個性完成(個性的な人格を完成せよ)

2、家庭完成(神の愛が具体的に顕現する理想家庭を築け!)

3、万物主管(神の愛による地上天国及び天上天国を建設せよ!)

これを自由意思で受けとめて、自由行動で実現することにより

無形実体世界(天=霊界)と有形実体世界(地=宇宙)の創造

+人間自体の神の似姿に向かう自己創造と家庭創造の完成及び神の創造世界に付加価値を与えることによって=天宙の創造が完結

この創造のみ業に荷担→神と同等の創造主、即ち神の子としての位置確定する。

 

ところで大拙自由天上天下唯我独尊でありでありだと言うとき、

個性真理体として生まれてきて、あらゆる被造世界の中で連体として存在している、

そのような中にある自由だと言っているのであろう。

 

しかし、それには人間が万物と同等であるという人間観からなっている。

そこで責任や実績という観点が欠落している。

大拙が言う、「松は松、竹は竹」と同じ括りで人間の自由を纏めることはできないのである。

 

ノーベル物理学賞で脚光を浴びているLEDで喩えて説明すると

原理と責任と実績が三色の発光ダイオードの赤・緑・青に相当し、これが調和したときに現れる白色の光が自由であると喩えることができる。

 

ところで、仏教では3の万物主管の発想がない万物融和である。

そこを禅体験のある大拙は社会に対し歴史に対し真空妙有から真空妙用に至らなければならないとしたのである。西田もそうであろう

この二人は日本的霊性に留まらず、世界的霊性の視座をもって活躍されていたであろうことは間違いないと思われる。

西田は西洋哲学の根底にあるキリスト教と神に出会ったのである。

 

主管とまでは考えなくても作用ということを積極的に肯定することができたのは、彼らの禅による体験があるからであろう。

 

作用ではなく主管によって自然が変わってもよいのである。

問題は変化の中に統一性連体性が兼ね備わっていればよいのである。

それが神の愛による主管だからである。

 

大拙の妻ベアトリス・レイン神智学に傾倒していた人であったという。

現代で言うスピリチュアリズムにあたるが、私の実感ではこれらは霊的現象を扱う学問であり宗教とは違うと考える。

唯物論に比して言うならば霊物論のような代物である。

霊的な唯物論という感じに近い。

この現象に囚われるとエドガー・ケイシーのような篤信者であっても、輪廻転生を信じるようになってしまうのである。

いつか何故ケイシーは輪廻を信じる事態に陥ってしまったのか、いくらか述べたいと思う。

その点、現象学と対比される仏教とは親和性があり、大拙にとっても夫人にとっても恩恵の交換があったことが想像される。

 

一回で終わらせるはずが長くなっている。

次回は西田の「対応と逆対応」や「自覚」や「場所」などについて考えてみたい。

その時々頭に浮かんでくることを即興で書き殴っているので、話がうろうろすることがあることをお詫びしたい。