原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

二世教育 善の条件生活を如何にして教えるか 袁了凡の陰騭録に学ぶ


God only knows / Beach Boys cover [日本語訳付き ...

今からおよそ400年前、中国の明の時代に袁了凡(えんりょうぼん)という人がいた。

了凡というのは了解の了、凡人の凡が組み合わさってできた名前である。

自分が凡人であることをハッキリ自覚して目覚めたのであるから、精進して決して元の惨めな自分には戻らないという、決心覚悟を表明した名前であるかと思う。

この方が息子の天啓のために自分と妻の実践の中や自分の知る多くの方の実践の中から体得した、陰徳善行の意義と効用(肯定的効果)について諭し、家訓として伝統を立てるために残したものである。

したがって、単に頭の中で考えただけの理屈ではなく、実践の中で確認し、体得してきた事柄である。

理論と実践。信仰と生活。

そういったものの一致に対する示唆に富んだ希有の書である。

私が学生の頃には、文鮮明 恵父が我々若者に与えて下さった、「超越・跳躍」を胸に歩み、それなりのものを与えられ掴むことができた。

ところがふと足元を見ると、全く地に足が着いていない。それとなく気づいていたがほったらかし状態であった。この道に来る前も、この道に来てからもずっと万事この調子であった。

ある時、ダンバリーの刑務所に真の御父様 文鮮明 が生活されている様子の報告があり、囚人達の食事のためのテーブルにナイフやフォークを見事なまでに整然と並べられていたと聞いたのである。

これを聞いて私は愕然としたのである。

私は何という惨めな人間であろう?

合理的なアメリカ人には、我々以上に理解できなかったのかも知れない。

禅では事上磨練が説かれ、悟後の姿勢が重視される。

一流の人物、たとえば王陽明なども日常の生活に隙がないという。

そういう人たちに教えられることは、「平時の自分の姿が、有事の時にはっきりと現れる」ということである。

普段の日常生活が重要な局面に現れてしまうということである。

イエス様が十字架の道を行くゲッセマネの祈りの時に主の心情に相対することができず、眠り込んでしまった弟子たちの姿があった。彼らも苦労が多かったであろう。迫害を避けて枕するところもなかったのかも知れない。

しかし、決定的なこの局面で不信仰を表すのは以前からの日々の信仰に問題があったからなのである。普段の信仰が。

イエス様と弟子たちはこの時、二心だったのである。

心一つにあらず。

ダンバリーの出監の時に神山元会長は真の御父様に祝福されて帰ってこられたのであった。

そして、全ての兄弟を代表としてお父様に侍って下さったお礼と慰労のため祝賀歓迎会が開かれたのである。

ところが神山元会長は兄弟の心尽くしに感謝はしても、受けてはならなかったのである。むしろこれからもいっそうお父様がご無事で帰還されるためには、皆さんこれからが本番です。というように、みんなと心を引き締めて然るべき局面であった。

主が今も、たった一人刑務所の中におられていたからである。

勿論、出監が告げられた際には、お父様を残し自分だけ解放されることに、心が張り裂けるような心情を神山元会長が抱かれたことは想像に難くない。ところがいつの間にか主の心情から離れてしまっていたのである。

主が囲われの身であることを思えば、例えば同様の事情に身も心も置くため

暖かい布団に眠るのではなく、例えば、押入の荷物を全部外に出して、自らを閉じこめ、上にて眠られるお父様を思いながら、下にて寝袋で生活するという道もあったのである。たとえどんなに人に勧められても、主の境遇以上の生活はすることができない。お断りする。そういう姿を期待した信徒は多かったのである。

そういう外的なことをせずとも、臥薪嘗胆で生きるべき見本となるはずだったのである。

その後、身もだえるほど悔い改められたことであろう。

さて、偉そうに言うお前はどうなのだ?と聞かれれば、

以前にも記したように全く同様に情けなかったのである。

当時私は伝道部長の勧めで御旨の外で療養生活をしていて、ほとんど役立たず状態であった。そこには同様にして療養生活をしていた姉妹があった。

ここに孝女がいたのである。

あるとき、この姉妹が「ダンバリーのお父様に湯たんぽを送って差し上げたいと思うのですが、どう思われますか?」と尋ねてきたのである。

私はこの湯たんぽがさっぱり理解できず、まずブリキの湯たんぽを思い浮かべて、こんなものは脱走の道具に使われる可能性があるので、送っても受け取られないことだろうと考えた。姉妹の心情をさっぱり解すことができなかったのである。「送ってもお父様に渡されないのじゃないかと思う」といったようなことを語った。

届くか届かないかが問題ではなく。

お父様のこと情況を考えれば、ただ送って差し上げたいという思いを、行動に表さずにはいられなかったのである。それをわたしは解することができずじまいであった。

しばらくしてわかったのが、お父様と神山元会長がバケツにお湯を入れて寒さをしのいでおられるということであった。またその姉妹から詳しい素材はわからないが現在ではプラスチックのような素材の湯たんぽが出回っていることを教えられたのである。

わたしは愕然とした。

ところがその後、お父様はこの姉妹の夢に現れたのである

それはハッキリとした夢であった。お父様がこの姉妹を連れてダンバリーの隅から隅まで御案内して下さる夢であった

神様とお父様がこの信徒の心情を受けとっけくださったので、わたしにとっても僅かながら救いとなったのである。

また、この姉妹は裏山をお父様を慕って散歩していたら、急に目の前にくっきりと真の御父母様の幻を見たという。

夢ではなく幻を見た人に会った事は二度しかない。

一度目は福音派のクリスチャンがキリストの幻に抱擁され傷の痛みを癒された証しを本人から聞いたこと。

二度目がこの姉妹であった。

その他体験した人の話すら聞いたことがない。

 

「御母様がね。お父様の隣りに、本当に自然に、すうっと寄り添われたんです。そしたら、その御母様のお姿が・・・お顔が初めはお若い頃の、御聖婚の頃のお姿だったんです。それが次第に現在のお姿に少しずつ少しずつ変わっていくんですよ。そのお姿のいずれもお父様に本当に似つかわしかったんです。こんな風に寄り添われたらこの世のどんな男性も心を打たれるに違いないと思ったんです。」

 

真の御母様が如何なる路程におかれても、真の御父様と一心一体となって、天父をお支えしてこられたことを、姉妹の信仰を遮った私も、主人の食卓から落ちるパンくずを食べる子犬のように、許されて恵に与ったのである。

イエス様が語って下さった、放蕩息子の譬えのように、父と共に生活をしながら、父の心情から遠く離れ、兄の放蕩息子のようであったのが、神山元会長である。

一方私は父から遠く離れたところで、父と関係のない生活をしていた放蕩息子であったのである。

信徒に内外の放蕩息子が存在している中で、ダンバリーの塀の外で父をこよなく愛されていた真の息子がいた。

 

孝進様である。

 氷点下を遙かに超える極悪の環境で120日徹夜祈祷をされたのである。

 

孝進様がよくおっしゃっていた言葉を、ヨナ様が以下のように語られている。

「真の愛とは為に愛するものだ。為に愛するのに、どうして犠牲や忍耐、痛みもなくできるだろうか。その道が我々の行くべき道だと知っているので、為に生きる努力をしよう。今私たちが持つ痛みや傷で心配するより前を見て明日の発展を考えれば、その発展の日々を重ねて死の瞬間まで発展すれば懸命に生きたことであり、良く死んだと言えるだろう。」

 

現在、ある部屋で真の御父様と真の御母様、そして孝進様が最重要案件の会議を為されることがあるという。そこへは誰も入ることも許されていない。

 

現在、ビジョン2020を実現するために堅固なフォーメーションがとられている。

 

霊界   真の御父様(一代) と 孝進様(二代)の一体化

       ↓ ↑ 一体化    ↑ ↓ 一体化

地上   真の御母様(一代) と ヨナ様(二代) の一体化

 

孝子・忠臣・聖人・聖子の長子 孝進様

世界平和統一家庭連合会長 ヨナ様

 

これにアライメントしなければならないのである。

真の父母様を先陣切ってお支えしている、孝進様とヨナ様に子女様や信徒が

アライメントしていくのである。

ここに一致点があるのである。

 

顕進様を地上だけみて長子として、勝手に主張している者がいるようであるが、

長子は誰もが知る孝進様であり、その相対者のヨナ様が本年6月3日に、世界平和統一家庭連合の会長になられ、韓国の会長も兼任されているのである。

 

さて、陰騭録は漢字で書かれていたため一般の庶民の読める者ではなかったが、あるお坊さんが一般の人にもわかるように翻訳して、これを「和語陰騭録」という。

今回ご紹介する本は、これをさらに子供でも理解できるように体験談やエピソードを中心に纏められている。

我々で言う、(善の)条件生活のことを「積善」とし、

イエス様が善なる信仰条件は人知れず行うべきであるとしたことが、「陰徳」にあたる。

そして善と悪の行為をノートに毎日記録している。

善の行為にそれぞれ点数が付いている。

また悪の行為にも同様に付いている。

これらを相殺した点数が一日の評価となる。

十数年かけて3000の善行を達成し、さらに3000の善行の願をかけると4年で達成しています。さらに10000の善行の願をかけて精進してきているのである。

信心を重んじる箇所も多く出てくる。

一つ一つのお話が平易であるが実に味わい深く考えさせられる内容になっている。

こういうものを直ちに用いて、将来的には統一教会版のものができたら素晴らしいと思うのである。

例えば「葛藤」とか「恩讐」のようなキーワードを盛り込んで積善、すなわち善の条件を日常生活で立てられるように指導したり、さらに上級として「甘受」を巡った積善の指導ができれば良いであろう。

たたき台としては充分であり、これだけでも充分と言える代物である。文鮮明 恵師が自分ができて体得したものしか語られなかったように、袁了凡も実践して体得した証を書いているのである。

信仰的なものの捉え方を実に優しく説明している。

親子で学ぶことができるであろう。

そういう体験の書、実践の書はなかなか見つけられないものである。

「こどもたちへ 積善と陰徳のすすめ ~和語陰騭録意訳」

二世教育のための一押しの書である。

著者 袁了凡

和訳 無名上人

意訳 三浦尚司

梓書院 定価 667円+税

94ページ

こどもたちへ 積善と陰徳のすすめ~和語陰隲禄意訳~