原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

イエス様の蕩減を与える愛 李耀翰先生が書かれた「信仰と生活」で基礎を造る

我々が日々の現象に振り回されることなく、内的な生活をするために貴重な示唆を与えてくれるものはないであろうか?

李耀翰 先生が書かれた「信仰と生活第一集」という本がある。

光言社のサイトを見てみると、現在では「心情開拓」という名称に変更されたと記載があり、購入することができる。

ものごとをどのように捉えるか、神の視点から意味を発見する。

組織神学の様式で表現されている原理講論は、キリスト教信徒が神やイエス様を理解しようと努力する中で、聖書の記述が、求めれば求めるほど、かえって理解不能になる試練をすんなりと超えていくことができ、それ故一体どうして一見相反するような矛盾に満ちているとも見える聖書を旧約新約を貫いて統一的に解釈できるのか、これを解かれた方は如何なる方なのかというように熱心なキリスト教信徒に再臨主は誰であるのかを証しすることが第一の目的と推測され得る書物である。

したがって、我々の日常生活には使い勝手がよいようにはできていない。劉孝元先生がもっと長く地上におられていたら、信仰生活に適用・応用することがもっと容易な、別の表現形式の本が出版されていたのではないかと思う。

しかしながら、李耀翰先生が書かれた「信仰と生活 第一集」(現在の「心情の開拓」)は、この原理講論と信仰生活を結ぶために必要な、ものごとの信仰的な捉え方を実にわかりやすく説明しているのである。

統一原理の内容を一通り学んだ後に、先ず第一に読まなければならない本であると考えている。

特に復帰摂理に見る生活原理までを繰り返し読み、書いてあることの理解は勿論のこと、統一原理のキーワードとの関係、内的に読み解く感覚などを育てることが肝要である。

多くの一世の信徒はここを手懸かりに出発してきている。

二世の信徒の方々にもこのことをお伝えしたい。

李耀翰先生はその他にも多くの出版物がある。

女性であれば神の愛する優れた子女が生まれるためにはどうすればよいかをレアとラケルが夫の愛を奪い合う話の中で説明がある。

こいなすびの話のあたりがピークになる。

端的に言えば、子供が生まれた際には子供に名前を付けるが、この名前の意味が彼らのその時の心情や信仰の基準を示している。

子供の名前が母親が子供を受胎した信仰基準の、いわば信仰告白になっているのである。

ヨセフの時に特に注目しなければならない。

しばしば李耀翰先生の牧会に出てくる言葉にも注目したい。

「葛藤」などである。

読み方としては、見出しごとに読んで、一体そこに書かれている信仰的な捉え方は何であったか、自分の内面を見つめるとはどういう事かを、自分の言葉で纏める。

5人などの複数で読む際は、やはり見出しごとに輪読し、一人ずつそこに書いてある要点をどう思うか順番に言っていく。そして司会が補足すべき点があればそれを語る。

集った兄弟を通して語られる神の言葉を共有する恵を実感するはずである。

信仰的な捉え方、内的な捉え方が身に付いてきたら、新約聖書福音書も同様に読み解いていく。

前回新約的な信仰観という話が舌足らずであったが、若い頃教会長がそこの信徒のためにわかりやすいキリスト教の基本的講義をして下さった。ところがパウロからなるキリスト教とイエス様の教えの違いが意識されていないように思われ、講義の途中その点の疑問を発言したが、一緒に聞いていた先輩姉妹が急に立ち上がり「あなたはパウロより偉いのか」と声を荒げて言ってきたことがあった。

わたしは絶句したが、そこではじめて自分がミッション系の大学を通過してきた恩恵を受けていたことに気づいたのである。

教会長も気分を害されていたようであったし、受講していた信徒も不思議に思っているようであった。講義の邪魔をする気はなかったので、不本意であったが疑問の他に言葉を発することはしなかった。

どうやらパウロとイエス様の違いを意識する信徒が少ないことを感じるようになったが、何年も経ってその当たりの御言葉が行き渡り多くの信徒も理解するようになったようである。

この教会長は後に日本の伝道部長になられて活躍したようである。

お父様は長老教に学んでいるが、この長老教というのは大ざっぱに言って、長老を中心とした秩序を重んじながら、かつ信徒が自由に神の前に出る特徴を併せ持つ。すなわちカトリックの良さとプロテスタントの良さを引き継いでいるような感じである。

賀川豊彦も長老派であった。

西川先生が訪問したが、弟子は好意的であったが賀川は会うこと拒んだ。学生時代に後輩の信徒が西川先生の伝道記を読んで「賀川という男に会った」と書いてあるのが賀川豊彦だと思うと教えてくれた。しかも「賀川という男」というのはおかしいという。どうしてかと聞くと、「普通なら賀川先生と書くだろう」と言う。さらに「たいした男ではない」という意味だろうと言ってきた。自分なぞには想像もできないことであった。

賀川にはマッカーサーが総理大臣になることを希望していたが、その要請を蹴ったという話がある。聖俗は相容れずということか、大物であったため俗事に荷担することはなかったとされている。

イエス様が来臨した目的が十字架にかかることであるとすれば、霊的王国には関心があっても、地上の政には関わる理由を見いだせなかったのであろうか?

旧約では理想世界の建設は、カナンとかシオンとか地上に現されるべきものである。賀川は旧約をどのように読んでいたのであろうか?

メシアは油を注がれたもの、王を意味している。

この王とは単なる霊的王国の王なのであろうか?

パウロをとるかイエス様をとるか、それが問題であり、聖書を内的に読みとらなければならない。

賀川は来るべき唯物論の嵐がキリスト教の最も大きな試練となることを予感し「宇宙の目的」を書いている。

文鮮明先生は日本が共産主義によって滅びることを防ぐために、国際勝共連合を設立し、李想憲先生に勝共思想を纏めさせ、共産主義の思想的誤りを完膚無きまでに打ちのめして、明らかにし、共産主義との理論戦を日本において勝共連合が論破し決着をつけたと、 世界的評価を得るに至ったのである。

だが、ひとたび日本に唯物的共産主義や唯物的社会主義のの政権が樹立したらどうなるか。亡国である。

社会党の村山や民主党の管が総理大臣になった際には、大変な災害に見舞われる事態になったのである。次には日本が海の藻屑となるやも知れない。

神が賀川に日本に地上天国を建設する礎を築くことを如何に期待したであろうかと思うと残念である。

東洋に賀川ありと言われ、如何に功績のある人物であったとしても、洗礼ヨハネのように、神の導きでメシアに出会い、共に歩む栄光を拒否すれば、名声や功績など何になろうか?

たといその他全てに問題があるとしても、決定的な瞬間に神の訪れを受けとめることのできるものは幸いである。

決定的な瞬間に信仰を立てられないのは、誰であっても何かそれまでの歩みに問題があるからである。賀川も例外ではないはずである。

母校の先輩の冥福を祈る。

さて、李耀翰先生の牧会をよく読んでから、新約聖書福音書、その中でも直接イエス様が語られた「譬え話」とイエス様の祝福による「奇跡物語」に注目してみたい。

内的に読みとる訓練が活かされて「譬え話」がすうっと心に染み込んでくるようになるであろう。

それでも不安である時は、杉瀬 祐の「愛の構造ー生きることの意味」を読まれることをお薦めしたい。

主要な譬え話と奇跡物語が解説されている。1969年の本だが2003年に新しく刷られている。この本が良い。

ついでに旧約聖書では北森嘉蔵の「旧約聖書物語」が良い。

奇跡物語では、主体であるイエス様をメシアとして受け入れる信仰が対象である問題を抱えた人々に求められている。

外的に見れば奇跡であるが、内的に見ると信仰のことが書かれているのである。我々は現象ではなく本質である信仰を見る。

読んでいけばわかることなのでいちいち挙げないが、神の権能を持ったイエス様は通常考えられないようなことをしたり、到底受け入れられぬようなことを彼らに求め、あるいは行っている。

即ち自己を捨て、信じられないことを受け入れたり信じることで、神が働くことのできる条件を立てさせてあげることで奇跡を生来せしめ、救いをもたらしたのである。

そこでイエス様はご自分が奇跡を起こしたとは語られず、「汝の信仰汝を救えり。」とおっしゃられたのである。

メシアであられるイエス様を、絶対的に受け入れたというための、信じられぬ条件を提示し、これを受け入れる信仰が見られた際、神様を中心として主体であるイエス様と対象である罪人の間に起こる授受作用の結果、現れた現象が奇跡である。

したがって現象である奇跡に囚われてはならない。

またイエス様を「安かれ。」に代表されるような人間的な優しい愛をお持ちな方と考えることもできるが、イエス様の愛の本質は、このことからむしろ、蕩減を与える愛ということができよう。蕩減を与える愛とは我々に巣くうサタンの分別のために与えて下さる厳愛のことである。

文鮮明 恵師が統一原理を人類のために解き明かして下さったので、末端の信徒のわれわれにもこのような内容が容易に理解されるようになったのである。