原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

猪瀬優理著 「信仰はどのように継承されるか 創価学会にみる次世代育成」に思う

この書は学術書であるので、いくつかの切り口を使って客観的事実に基づいて信仰継承の影響や傾向を判断しようとしているものと思われる。

切り口というのは父親の信仰態度とか教化態度、同様に母親の信仰態度と教化態度、これが信仰二世の性別によって影響の差異が生じるかなど様々である。

信仰を持つに至った理由では、「親が創価学会会員だった」を筆頭に男女ともに「悩み・問題(病気、経済、人間関係)があった」続く。三番目が男性では「人生に哲学・目標がほしかった」で、女性の場合は「配偶者が学会員だった」。

一世信者の入信動機の約三割が「悩み・問題があった」ことと回答があったようである。

男性にとっては父親の信仰態度、女性にとっては母親の信仰態度が二世の信仰態度に影響を与え、意外なことは親の教化態度が強いほど子供の信仰態度が弱くなるという結果である。

また子供時代の教団での活動程度が強いほど、活動から離れる可能性が低くなり、中学当時の家庭関係の良好度が女性の活動離脱を抑制させるといった結果が出た。

信仰継承がスムーズになされるための影響で最も大きいのが「肯定的効果」であるという。つまり教団の活動に参加して良い結果がもたらされたという実感である。

男性は母親の教化態度と父親の信仰態度から直接的な影響を受けているとし、女性は父親の影響は重要ではなく、肯定的効果の他には、母親の信仰態度と教化態度が直接的に信仰の継承を円滑にすることを高めていて、母親の教化態度は逆効果となっているという。

以上はかなりはしょって纏めているので、詳しく知りたい方は実際の本を読む必要がある。

猪瀬優理さんは統一教会を否定的に捉えている櫻井 義秀教授との共著がある。同じ北海道大学の大学院に所在していた時期があるようである。

猪瀬優理さんの本はまどろっこしくて読むのに大変手こずった。

わたしが学術的な記述に不慣れなせいであろう。

また信仰という主観的なものを、信仰経験がない者が外から見るだけで客観的に理解できるものなのだろうかという疑問が湧いてもきた。

ご本人に何かの宗教を信仰している無しの記述はない。現在は仏教系の大学である龍谷大学におられることに救いを感じた。

仏教も上座仏教から見て大乗が現れるとこれをカルトと見られたのであろうか?結局少数派が多数派になった際にカルトを卒業するということであるのか。真宗や浄土真宗。日蓮宗はどのような歴史を持つのであろうか?迫害時代はみんなカルト扱いされていたのか?正統性を主張するために異端(反社会的宗教団体)としてレッテルを貼り排斥するための言葉がカルトであり、これにプロテストして正当性を主張することに成功する日まで続くのであろうか?

お釈迦様が南無妙法蓮華経を唱えたり、南無阿弥陀仏を唱えた記述がなければ、日蓮宗や浄土宗はカルトか?

「カルトとスピリチャリティ」という本はアマゾンでは櫻井 義秀が著者となっていて変だと思った。猪瀬優理さんの著書では最後のところにある経歴では、この本の共著となっているからである。出版社のミネルバのサイトでは櫻井 義秀 編著となっていて猪瀬優理さんの名前はない。意図的であれば良い印象を持つことができない。

カルトな話である。

上記も含めて、カルトという言葉は人によって使われ方が千差万別であって、その結果実質的な意味を持たないに等しいと思われる。

またカルトについて話される時にセットで出てくるマインドコントロールという言葉も奇妙奇天烈な言葉である。

マインドコントロールと啓蒙や教育やマーケティングは本質的に何処が違うのであろう。

カルトを研究したり批判する人の心に同種の闇があって惹かれる事なきよう御用心。マインドコントロール教にマインドコントロールされぬよう御用心。

脱会カウンセリングなるものが信教の自由に抵触する魔女狩り人民裁判と同質の匂いを放っているように感じられる偽善。

脱会屋と脱会牧師と脱会弁護士が三位一体となって信教の自由を奪い、その結果報酬を受け取るという脱会ビジネスという反社会的宗教。

彼らはヒーローなのかアンチヒーローなのか?

結局被害者という人達を洗脳して金を巻き上げているという見方は成立できないのか?

さて、この本で何か特に役に立ちそうなことは見受けられなかった。

ただキーワードの選び方で、両親の信仰態度と教化態度は自然でなるほどと勉強になった。そこでキーワードから連想して話を進めることにする。

私なら信仰態度を内的か外的かと見る。

外的というのは形式的であったり、権威主義的であったりしてはいないか?行為を重視・・・行いによって義とされる?

内的であるとは行為よりも心の内面、すなわち動機を重視するということである。ここで言う動機というのは自発的動機である。

旧約時代に神のみ旨を成就していたら、その信仰態度は心情的であったはずである。ところがこれが形骸化して形式化し律法学舎パリサイ人のようになってしまったのである。

これを取り戻すたまに心情的な信仰態度をもってやってきてくださった御方がイエス・キリストであった。

アダムとエバが果たすことができなかった真の家庭理想を実現し、さらには心情文化を築いて理想世界を完結するよう神は予定されていた。

しかし十字架の道に行かれるようになり内的なまた霊的な信仰態度が、残された弟子たちの内に残った。

成約時代は真の父母様が心情的な信仰態度を教示された。

われわれはこれを相続していく責任がある。

つまり、われわれ両親の信仰態度の問題がある。

次に教化態度にも三通りが考えられる。

内的の中に心情的と内的を含めて一つとしても良い。

それは人間が霊と肉からなっているからである。

子供に対する教化態度が内的であるか外的であるか?

外的というのは修練会に参加させさえすれば子供は復活し信仰が強くなるというような考え方のことである。

内的というのは自発的動機を成長させるということである。

「~すべきである」とか「~しなければならない」といった態度がある。これは結果は出しやすいが、心に渇きを生じやすい。

これに対して自発的動機というのは「~したい」という態度である。

前者は頭で信仰しているとその罠に陥る危険がある。

真面目に考えれば考えるほど自分と理想のギャップに苦しみ、自分はもしかしたら偽善者ではないかと息苦しくなる場合さえある。

律法が外にあるとmustになり、律法が内にあるとwantに変わる。

頭で信仰をしているのか、情で信仰をしているのか確認することは極めて大切である。

これを便宜上旧約的信仰と新約的信仰と表現して区別している。

外的か内的か、依存的か自発的か、他律的か自立的か

こうしたことをキーワードに自分自身の信仰の特性を吟味してみることは大切なことである。

永らく信仰して思うことは、信徒の中に新約的信仰を通過して来なかったように感じられる方が意外に多いのではないかということである。

物事を外的にだけではなく内的に見る。

ポジティブ・シンキングと何処が違うのか?

愛の神の立場に立って考えるということである。

神との関係の中で神の愛や恵を発見することである。

神は我々を愛さずにはいられない心情的な存在である。

だから、試練の時でさえも、神の愛の恵として捉える。

たとえ試練であったとしても、その試練を与えている後ろにおられる神の存在に焦点を当てる。サタンがヨブに試練を与えている、その試練に集中するのではなく、試練を受けているヨブを見守っておられる神様に集中する。すると、遠くで見守っておられたはずの神様が、ご自身を現すために我と信徒を同一視した立場でアブラハム・イサク・ヤコブの神と名乗る如く、愛する者と一体となって生きておられるために、ヨブの痛みがそっくりそのまま神の痛みとなり、神自らが傷つかれてしまわれておられているのである。

その事をよくご存知じの文鮮明 恵父は過酷な拷問の中で、私の苦痛の中で神様だけは苦痛を受けては申し訳ないと、打たれる毎に、「大丈夫です。神様。私が必ずあなたのみ旨を成就させますから、安心してください。」と心情を捧げたのである。

そこで神様の胸の中では、当初受けるはずであった肉的な痛みが如何に大きかろうとも、その外的な拷問の痛みは変質して、神の事情と心情を思う独り子が捧げる愛に、今度は内的な我が子を思う胸の痛みとなって、悲痛を凌駕する、独り子を思う愛の痛みに昇価されるのである。

我々が霊的存在であるということは、痛みもまた肉の痛みから脱却した霊的な痛みも併せ持っているのである。

新約的信仰の通過については別の機会に譲ろう。

 

 何でこんな話になったのか、元に戻そう。

 「肯定的効果」は考えさせられる問題である。

大手の家電メーカーの係長だか課長であったか、そういうポジションの信徒に若い頃会った。

部下とのコミュニケーションに問題を抱えておられた。この時若かった私は何もして差し上げられなかったのである。

教会は信仰的課題に対してはどうすればよいかアドバイスができるとしても、原理的な観点を如何に現実的問題の解決に落とし込んでいくかについては不器用である。

かって倉原氏が成功哲学のようなものを考案した。あまりにもそのもの過ぎるという批判もあった。しかし、誰も挑戦しないことに挑まれたことは高く評価されると考える。

谷氏もカウンセリングに挑戦されている。

今後は現実的課題や問題の解決のために、統一原理を落とし込んでいく試みが期待され、光言社には頑張ってほしいものである。

最後に、アダムとエバは神様が直接教育したというよりも、天使を介して教育されたということから、我々人間は両親以外の人に子女の教育あるいは育成を委ねる部分が必要であるのかも知れない。

昔、スーパーを経営していた人が、他のスーパーを経営している人のところで息子を働かせていた人がいたが、丁稚奉公というのは面白い仕組みなのかも知れない。

さて、天使に当たるのは子供である。

ウェディングの時もそうである。

独身者は子供を持たない天使の立場である。

二世が円滑に育っていく上で欠かせないのが、自分のモデルとしての先輩である、お兄さんやお姉さんであると考えられるのである。

献身者であることが望ましい。

二世が復興していくためには、少なくとも100人くらい、男女50人ぐらいずつのリーダーが必要である。最低各県に男女一人ずつということである。

徳野会長と二世の補佐を中心に青年のリーダーと家庭部長などのコミュニケーションが円滑にとれる仕組みが求められるところである。

祈祷・御言葉の理解・講義・伝道実践・信仰指導・牧会カウンセリングなど基本要件を身につけた若き信徒を育成する支援や教材が必要であろう。

また、環故郷以前に教会長を経験された、還暦前後の兄弟が彼らをサポートする体制も必要であろう。

献身生活を経験した者にしか伝えられない預かりものがあるはずだからである。

6,000双までとそれ以後では何故か溝が大きいと感じるからである。