原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

イエス様の家庭でのヨセフとマリアの不信仰に学ぶ教訓 5

 

今日は結論からはじめよう。

二世教育の最も重要な核心教育は、

「私は神様の独り子である」という意識の体得と実践にある。

統一思想において、やれ善民教育だの規範教育だの天才教育だの言うが、それらを貫き、またそれらの出発点となるべき根本が、神の独り子意識である。

この意識さえ、思春期までに獲得できさえすれば、天志を立てることができ、その実現のためには何が必要かはっきりしてくることであろう。

我々が目標としているのは神の子たちの出現と繁殖である。

「自分以外に神の事情と心情を知る者は他にはいない」という限界情況のまっただ中で、生涯を天の父母様と人類のために捧げ尽くすという決心覚悟の確立と実行である。

我々は「神の子」というが、神の子とは誰のことなのか?

それは歴史上イエス様が初めて確立してくださった内容であり、およそ2000年経て文鮮明 恵父が次に継承し完熟した内容である。

したがって、当たり前のことながら、祝福二世が目標とする理想像はこの方々をおいて他にはいないのである。

そしてこの御二方が生涯心に秘めた秘密「わたしは神様の独り子である。」「わたしの他には神の事情と心情を知る者はなく、したがって、神に代わって御旨を推進し完成させる者はいない。」

という感極まった自覚である。

この心情から全ては出発するのである。

残念ながらイエス様は両親から自分が神の子であることを教えられず育てられたのであった。

そこで12才の時、過越の祭りで行方不明になり両親が探し当てたところが教会であり、「私が父のところにいるのをご存じなかったのですか?」と言ったが、何のことか両親は解さなかったのである。

夢の中で啓示されたことをすっかり無視して両親は信仰生活してきたのである。

過越の祭というのは一体何なのであろうか?

天使長ルーシェル(ルシファー)が人間を誘惑し不倫なる淫行関係を結ぶことによって、人類は原罪に占領され罪悪の血がこの身に流れるようになってしまい堕落性剥きだしの悲惨な姿に陥ってしまったのである。

このサタンの血統である罪悪の血をすっかり抜き取ってしまい、反対に神様に由来する純潔の血統に転換しなければならないのである。

ところが生身の生きた人間の血を流せば死んでしまうので、堕落人間の身代わりになって死亡の血を流してくださるのが、従順な羊の血なのである。

尊い命を捧げてくれる羊に感謝して、本然の人間に立ち変わらなければ、羊には気の毒な話なのである。

われわれはユダヤ人ではないと距離を置く事なかれ。感謝すべきで、われわれも歴史的な恩恵を受けているのである。

過越の祭りとは、血統転換の象徴的な儀式である。

割礼も然り。そこで堕落した局部の一部を切って、サタンの血統が死亡した血を流すことを意味している。

淫乱の情を持つ堕落人間が見れば、なんともおかしな事に見えるわけではあるが、しかし、おかしく見えることが聖書にしばしば見られるのは、人間が堕落してしまったからなのである。

堕落さえなければあり得ないことなのである。

人間が予想だにしなかった堕落をしてしまったから、神様も考えもしなかったことを、人間を救い出すためにはこれしかないとばかりに進めてこられた本当に気の毒な有り難い神様なのである。

この血統転換の完全無欠版が三日行事なのである。

復帰摂理上の神による役事の集大成である。

さて、

イエス様の両親が律法の定めを守るべくイエス様とエルサレムの宮に来て、子供を主に捧げる儀式をされる記述が聖書にはある。

 

これはわれわれ統一信徒にとっては何に相当するのであろうか?

それが百日の儀式である。

わが子を神に捧げるという儀式である。

捧げたからには自分の子であるようであって、自分の子ではないのである。これが重要である。

 

そこで祝福家庭一世の親にとっての試練

 

1,血統転換の恩恵を100%信じているのか

①原罪を精算されたという確信

②真の父母様はキリスト・メシア・救い主であるという確信

③したがって、生まれてきた子女は原罪のない神の子であるという確信

2,百日式の意義を信じているのか?

①我が子を神に捧げたという自覚

②もはや自分の子ではなく神の子であるという自覚

 

 この二つに問題がある家庭は、基礎の崩れた家のようなものである。

 

すなわち

親が救いを実感せず→メシア観の崩壊

親が子女を神の子として実感できず→当然子供も実感できない

 

イエス様の家庭環境とそっくりになってしまうのである。

すると、

信仰的価値観ではなく、自分の人間的な価値観によって育てようとしはじめる。

この世的な価値の尺度で我が子を育てたいという誘惑に屈する。

とどめは祝福に対する希望を子女が失う。

つまり、二世教育の要諦が「私は神様の独り子である」という意識であるといくら言ってはみても、肝腎の両親が我が子が神の子かどうか確信が持てないようでは、その不信仰が直接子供への信仰の試練として襲いかかってしまうのである。

「あなたの子は神の子なのか?」と聞かれて「ハイそうです」といいたいところだが、ハッキリとは言えず、「では、あなたの子はサタンの子か?」と聞かれれば、「いや、そうではない。」となる。では、神の子でもサタンの子でもないなら、一体全体誰の子か?

そこで、中間位置の(堕落人間の)自分の子であるということになるのである。

これでは、アベルから始まる復帰摂理上の中心人物が、どれだけ苦労して、その果てに我々が真の父母様による勝利の恩恵に浴しているという価値が崩壊してしまうのである。

この道は、他の信仰の道とは全く違うのである。

教主が人類の救世主であるということを、ハッキリと内外に宣言しているからである。

ただ単に教えが素晴らしいというだけでは、存在し得ないのがこの道なのである。

したがって、教えが良い教えであっても、教主が人類の救世主でなければ、嘘つき集団になってしまうのである。

我々が本質的に信仰していないとすれば、真の父母様は大変悲惨な立場に立たざるを得ないのである。

ではもし僅かでも、上記の二つある試練の問いに不安があるようである時には、如何にしてこれを克服して行けばよいのであろうか?

 

迷子になったイエス様はその後、両親に仕えたと記されている。

神様は東方の三賢者(三博士)を通して、ヨセフとマリアにどうイエス様に接するべきかお示しになられている。

ユダヤの王が誕生したことを知り、星に導かれてイエス様がいる家に入り、ひれ伏して拝んだのである。

両親とは正反対の行為である。

イエス様のご両親はイエス様に対して崇敬の念がほとんどなかったと言わざるを得ないのである。

 

我々は名節に月初めに聖日(日曜日)に三拝敬礼を、神と真の御父母様に捧げてきた。

これはメシアと信じ侍っている信仰の証である。

信じていればこそ、そうするのである。

では、我が子を神の子として信じていれば、どうであろうか?

我が子に対しても敬礼の時に、同様に三拝敬礼することができるであろうか?

ある家庭は約十年そうしてきたという。

敬礼式の後で、子供たちをお写真の前に座らせて、三拝敬礼してきたという。

できることならば、アダムとエバが試練を受けた思春期が過ぎ去るまでは、あるいは成人になるまではそうすることができれば幸いだという。

想えば、イエス様の悲しみは、ヨセフとマリアが神のみ旨に立つことができず、したがって、イエス様に対して私的にばかり接して公的に接することができなかったことである。

夢で教えられた啓示を忘れかけている二人を、霊的な夢ではなく実体の人を通して何度も神はイエス様が神の子であると証しされ、導かれた。

ところが、それを無視して、あげくは故郷で伝道するイエス様を気違い扱いされるようにまでなってしまったのである。

したがって、一つの道に

子女に対する三拝敬礼の実施という道があるという。

第一にイエス様が両親に侍り仕えられる事がなかった無念の思いを晴らすために、我が子を代身として三拝敬礼するのだというのである。

そして第二には、子供は神からの、授かりものであり、また預かりものである ので、公的に接することができる(仕え侍れる)ようになるためであるという。

第三には、我々両親はヨセフとマリアのように、本然の罪なき人間ではなく、本来は罪なき神の子を育てる資格がないという自覚を肝に銘じるためであるという。

 さて仮にこのようなことを実践しないにしても、我々が実際に行動するとしたらと想像した時に、心に抵抗する引っかかりが生ずるであろうかと自問するだけでも、我々の真の御父母様に対する信仰の至誠が有りや無しやが確認できるのではなかろうか?

2000年前のイエス様に時空を超越して、侍り感謝することができる一つの方法として味わいがあるように思うがどうであろうか?

勿論、文鮮明 恵父は以上のことを語ってはいない。

しかし、今日の二世問題の本質に一世の両親の信仰姿勢があると私は考えている。

現状を深く鑑みれば、上記のことは決して突拍子もない方策というわけではなく、むしろ熟慮すべき観点の一つであるように思われるが、如何であろうか?

 

聖和二周年の行事で、

真の御母様であられる韓鶴子様は、

そこで何を語られたであろうか?

驚いたことにこの「独り子」のお話である。

イエス様や文鮮明 恵父

さらに「独り娘」であられる

真の御母様自身を指すお話であった。

 

 大切なことは多くはない、一つである。

それは、「私は神の独り子である」という究極の意識である。