原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

イエス様の家庭でのヨセフとマリアの不信仰に学ぶ教訓 1

 

 

 神が祝福した血統を生命以上に貴重視する心情の継承者 タマル

マタイによる福音書の冒頭には、イエス・キリストの血統が書かれている。この記述からはイエス様がダビデの子孫であることが強調されてきた。

高校時代こんなに「誰々の父は誰々である」が果てしなく続く文章を見て、到底人間が書くことには思われなかった。こんな訳が分からぬ人知を越えたことをだらだらと書き続ける聖書は神様の霊によるものでしかあり得ないであろうと、低いレベルで感じていた。

我々日本人においては血統はあまり重視されない。「家」が重視される。

お家が安泰ならすべて良しである。それ故、実際の血統が違っていても構わないのである。上杉鷹山も然りであった。

つまり、ユダヤ民族とはこの点で極と極に位置する民族が日本人ということになろう。

創造理想では神の愛は、アダム→エバ→天使長 という風に流れ、主管されるべきであった。

ところが神に反逆して善の天使長から悪のサタンに堕落したルーシェル(ルシファー)がこの秩序を転覆してしまったのである。

そこで、

アダム→エバ→天使長 (神の愛による地上天上天国)

ではなく、

天使長→エバ→アダム (サタンの淫乱による地上天上地獄)

というふうに次々に誘惑し、不純なる淫行関係を結び、神を中心とした愛による主管の秩序を崩壊させたのであった。

絶対愛・絶対「性」の伝統が確立できなかったのである。

これによって人類始祖に原罪が発生し内在して堕落性が思いや言葉や行為に現れるようになってしまったのであった。

これを元返すために、アダムの失敗を蕩減復帰(罪の負債の精算)して、後のアダムとして来られた方がイエス・キリストその人であった。

ところが第2アダムは本来の子羊の婚姻理想を人類の見本として提示することなく、罪人たちに十字架の刑に処せられて、天に行かれてしまったのであった。

アダムとエバの真の父母理想が失われ、イエス様が取り戻そうと御旨を歩んでいたがその道をユダによって身売りされ塞がれてしまったのである。

マリアという女性がイエス様の伴侶ではないか、あるいは予定された女性ではないかという議論が沸いてくる原因は、このような背景があるからである。

十字架を超えて勝利された復活のイエス様が、最初に現れたのは弟子たちの前ではない。女性の前に現れたのである。

イエス様と選ばれた女性が、人類の真の父母になって、その方に接ぎ木され、原罪を持った堕落人間から、原罪のない本然の人間に血統転換し、それはそのまま神の心情を体得する心情転換を意味し、正にこれこそがイエス様が語られていた「オリーブの木に接ぎ木する譬え」の核心であったのである。

この真の父母思想は神による人類復帰摂理にしばしば現れるものである。

アブラハムも勝利してアブラムからアブラハムに、サラもサライからサラに名前が変更され、それぞれ諸国民の父・諸国民の母と呼ばれるようになったのである。真の父母思想である。

諸国民の父と諸国民の母は地上天国の王のことである。

メシアは地上に天国を建設されるために降臨するのである。

ところがその道が、外的迫害に加え内的迫害、すなわち弟子たちの不信仰によって完全に閉ざされ、せめて霊的な神の国を建設するために、全堕落人間の命よりもサタンが固執するイエス様の命を捧げる、十字架の道を行き、勝利して復活したイエス様が、霊的神の国として世界的基盤を築いてこられたのがキリスト教圏である。

ドストエフスキーの「罪と罰」にラスコーリニコフを蘇生復活させるソーニャという女性が出てくる。

家族の貧困を救うために死ぬほど嫌いな売春をして家族を支えて、そのような境遇にあるにも拘わらず、我が心は神のものであるとして、信じられないほどの清らかさを心に保っている。

人は霊と肉からなり、世界もそれに対応して霊的世界と肉的世界がある。肉的世界である地上がサタンによって淫乱と殺人と不義の世界とされ、完全に悪主権が樹立してしまっている。そこで地上に降り立つことのできぬ神様は、イエス様が創られた霊的王国に仮住まいするようになったのである。

たとえ淫乱に身は犯されようとも、この心はただ神のものであるというソーニャの信仰は、キリスト教の現実を物語っているのである。

すなわち、十字架は神にとってもイエス様にとっても恩讐なのである。

この辺の神の摂理の事情を詳細に、人類史上初めて解き明かしてくださった御方が、文鮮明 恵師、即ち真の父母様であった。

イエス様の血統図とは神が祝福した血統、文鮮明 恵父の語る、絶対「性」という視点からでなくしては読み解くことができないのである。

エバが、アダムと婚約期間中であるにも拘わらず、しかも「取って食べたら死ぬ」という戒めをも破って、「死を覚悟して」までも天使長ルーシェルと不倫なる淫行関係を結び堕落していったのである。

ゆえに神が祝福した血統、絶対「性」を生命より貴重視する女性を求めて神は働かれてこられたのである。

その女性は神の血統の尊守のためには自らの命さえ省みない、「死を覚悟して」までも行くという女性でなければ、エバが犯した罪の負債精算を成立させることができなかったのであった。

タマルがその人である。

淫行の情を持つサタンや堕落人間がこの経緯を見れば、単なる淫乱にしか見えないが、神の次に知恵のあるサタンをも欺いて、密かに神は人類救済の摂理を先頭に立って歩まれてこられたのであった。

血統転換のためである。

現実的に見れば中東にはレガト婚という風習があって、長男が子供を持つ前に死んだ際には、次男が長男の嫁を娶り、その後生まれた男の子は死んだ長男の子供となる。その際でも姑と結ばれることは知られていない。

タマルの物語の経緯をみると。

1,タマルはユダの長子エルと結ばれるが、エルは「主の前に悪い者であったので」神の怒りに触れて死んでしまう。

2,そこで(風習に従って)ユダの命により次男のオナンがタマルを娶ることになるが、生まれてくる子が兄の子になってしまうことを嫌って、精子を胎に入れずわざと外に出してしまう。これがまた神の逆鱗に触れオナンも死んでしまう。

3,これを見て三男のシラまでも死んでしまっては大変だとユダは考え、シラが成人するまでタマルに実家に帰って待っていなさいと命じる。

タマルはこれに従うもユダがシラの元に嫁がせるつもりがないことを知る。

4,(ここは聖書には書いてはいないが)タマルは貞操観念の徹した女性であったが、このままでは神が祝福した血統が絶えてしまうことを何よりも恐れた。

5,ユダの妻シュアが死に喪に服する時期を終えたとき、ユダが羊の毛を切るためにテムナに行くことを人から聞いて、寡婦の衣服を脱ぎ被衣で身を覆い遊女を装ってユダを待ち受けた。シラが成人しているにも拘わらず妻にはなれないと知ったからである。

6,顔を覆った遊女タマルを見つけ、ユダは子やぎと引き替えに行為を望んだところ、タマルは子やぎを与えてくれる時まで保証として印と紐と杖の三種を交換の日まで与らせてほしいという。

7,交渉が成立し二人は結ばれ、ユダによってタマルは身ごもる。被衣は脱いで寡婦の衣服に着替えた。

8,ユダは女からしるしを取り戻そうと人をやるがこの辺りに遊女はいないと報告を受ける。

9,三ヶ月後にタマルが姦淫を犯し子を身籠もったと聞いて、ユダは彼女を引き出して焼いてしまえと言う。

10、引き出されたタマルはユダに使いをやって、このしるしの主が相手であることを伝え、誰の者か見定めてほしいと懇願した。

11、ユダは「彼女は私より正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである。」と言い、再び彼女を知ることはなかった。

サタンと淫行関係を結んで堕落したエバは、アダムをサタンと同じ立場でサタンと同じように誘惑して堕落させた。

タマルは神の祝福した血統を守るという、神の立場で殺されることを覚悟してユダを誘惑して身籠もった。

タマルの勝利故に、サタンが愛し奪ったカインの長子権を、彼女の胎にいた双子で先に手を出した兄のゼラに緋色の糸を結んだのに、弟のペレヅが押しのけて先に生まれることとなったのである。

外的ではあるが長子権を復帰したと見ることもできるし、神が今後の摂理を教示してくださったとも言えるのである。

数十年前までは後から生まれた方を兄として戸籍登録していたが、ある時点より先に生まれた方を兄とするようになったことの背景には、このことが関係していると考えられるのである。

誰も何故なのか分からなかったことなのである。

そこでイエス様の血統を辿ると理解しがたいことがいくつも出てくるのである。

「タマルが分かれば原理のすべてが分かるよ」

 と文鮮明 恵父はおっしゃっていたのである。

エバが神の血統を重要視せず、戒めを破って死を覚悟して堕落し、天使長ルーシェルとの淫行関係に陥ってしまった、罪の負債精算(蕩減復帰)の道をタマルは歩んだのである。

ヨセフの話をするつもりがタマルになってしまった。次はタマルの前に神の前に絶対「性」と絶対貞操を表したアブラハムの妻、サラと少しだけダビデのバテシバ問題に触れて、3回目に本題に入りたいと思う。

私自身は思考の話が書きたいのであるが、信仰の話を書くように私に力が働いてくるのを抑えることができないでいる。ブログの趣旨からはずれてきている今日この頃である。