原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対基準と人格完成4

 

善神の業と悪神の業について統一原理は以下のような点に注目している。(堕落論 (四)善神の業と悪神の業より)

このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることはむずかしい

 したがって我々堕落人間は我々の思いと言葉と行為を神がとることができるようにするには、様々な善の条件を立てることになる事柄の中でも、とりわけ御言葉(統一原理)を重視しないわけにはいかないのである。

神の立場に相対しうる相対基準を結ぶことによって、人間的な(人情的な)善悪の判断ではなく、天的な判断を得ることができるようになるのである。

さて実際の信仰生活においては、アベルアベルで神のみに相対し得る心情圏を得て、中間位置問題を克服しなければならず、カインもまた然りである。

さらに霊的な協助と霊的な妨害が、その中間位置にあるアベルとカインそれぞれに働かんとしているわけである。

統一原理ではアベルは善の表示体でカインは悪の表示体とあり、相対的な意味においてアベルはカインに対してより善の立場であるとされている。

しかしながら実際の信仰生活においては、このアベル意識やカイン意識は問題を秘めていると言わざるを得ない。

より善であるということは、完全な善ではないからである。ということはややもすれば、わたしは常にアベルであり正しい、アベルに従うことが常に正しという誘惑に陥りやすいということである。

四位基台の中心(神の目的や神の心情)は実際には主体の中に存在するようになるので、これに注目して教会では「中心性」という言葉が広く使われている。

私自身は文鮮明 恵父の御言葉の中に確認できていない言葉である。

「中心性」とはアベルの立場からすれば、アベルの意思にカインは従順に従うべきであるという権利になり、カインの立場からすれば、アベルの意思に従順にしたがうべき義務となる。

堕落性を脱ぐための蕩減条件がこの根拠となっているのであろう。

しかしながら、くどいようであるが、アベルというのはより善という不完全な善の立場である。兄や弟の兄弟意識とは不完全なものとも言えよう。

もともと中心とは天の父母様であられる神を表す訳であるので、中心性とは父母のことである。したがって「私はアベルである」というアベル意識を持つとするのなら、本来は父母意識を持たなければならないのである。

それがアベルの正道であるはずである。

文 鮮明 恵父が常に「父母の心情、僕の体」とおっしゃって来られたことを思い出してほしい。

アベルもカインもそれぞれ自らを聖別して、神のみに相対する意識をもち、しかる後主客として交わらなければならないのである。

アベルといえども誰かに対してはカインでもある。

さて、中心性を振りかざしてアベルを全うしようとすると、対象(フォロワー)として立つカインは如何なる不本意な情況においても主体であるアベルを支えていくことにより、単なる消極的対象ではなく、主体的対象性を持つようになる。武士道もこれに似ている。

ところが対象の活躍に依存してばかりのアベルであると、対象的主体性(消極的主体性)を持つに留まってしまうのである。

今日、この世の日本社会においても、統一教会においてもリーダーが育たない一因となっていると思われる。

リーダーは僕の体を持たなければならない。

イエス様が「わたしについて来なさい」と言って弟子が簡単に従ったのではないことは、十字架に向かう際の洗足の儀式の場面によく現れている。

イエス様がどれほど僕のように身を低くされて弟子たちに侍ってきたか知れないのである。その当時の自分を恥ずかしく思うので弟子はそのようにされたくないのである。

アベルとして愛するというのは本当に難しいことである。

大谷哲夫氏が書かれた「道元 読み解き辞典」によると、道元を悟りに導いた如浄は以下のように語ったという。

 座禅中に居眠りでもするような者がいれば、如浄は自分の拳や履いていた木靴で凄まじい勢いで打ちつけたり蝋燭を煌々とつけて眠気を覚まさせた。

 しかし、あるとき、如浄は、「私は年老いた。そろそろ草庵を結んで老後の生活に入ってもよいのだが、この寺の住職という責任ある地位にある以上、修行者諸君の迷いを覚まさねばならない。諸君の仏道修行を助けるために、私は叱りつけたり、怒鳴ったり、拳をふるったり、 竹箆で君たちを打ちのめすこともあえてする。だが、こうしたことをするのは仏の子である修行者諸君に対してまことに恐れ多い。このようなことはしたくない。しかし、これは私が仏に成り代わってすることである。それゆえに、修行者諸君、どうか慈悲をもって、これを許したまえ」と言った。

愛の中で最も美しいのは厳愛である。

さて、「私はカインである」というカイン意識もこれまた問題を孕んである。

カイン、悪の表示体である、より悪であるというようなイメージが少しでも心に浸透していくと、謙虚であれ良心を巧妙に利用して、悪霊人が相対して少しずつ我々を神からずれた方向へ引っ張っていくのである。

引っ張らずとも中間位置に立てば神が相対することができないので、真の復活に与ることができなくなるのである。

アベル・カインというのは形式的には原理講論に書かれているとおりである。だが、実際に信仰生活をする際には、わたしはアベルであるという意識やわたしはカインであるという意識は、父母意識に昇価してこそ神の立場に立つことができ、統一信徒の行くべき道であると考えるものである。

仏陀の悟りがインドで二八代引き継がれ、達磨によって中国に行き、二三代を経て如浄に、さらに道元が日本にもたらした。道元が尊敬していた栄西の高弟明全が中国で病に倒れる際に、栄西が彼に授けた50年後に禅が繁栄することを予言した「栄西僧正記文」という書を、今度は道元に渡して意を託す。「友よさらば」

後に永平寺にて道元が「天上天下、当処永平」と言って、仏陀より継承した法灯をここにこそ伝え継ぐと決心覚悟したのである。

仏陀の正法を個人が伝統継承していくことでも、凄まじいほど困難な道であるにもかかわらず、真の御父母様が立てられた真の家庭理想を三代をもって完成して伝統継承して行かねばならぬ我々は、如何なる決心覚悟を持つよう神に期待されていることであろうか?

路傍の捨てられていた石が拾われて、行かねばならぬ事情に、神の胸の痛みがあることを感じざるを得ない。