原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対基準と人格完成

我々が人格完成を目指して行く路程において、相対基準というのは実に重要な概念である。

仏教で言う因果応報を授受作用で考えてみると、授受作用には善因善果と悪因悪果の二通りがあるとみることができる。

人間が霊肉を持つ存在であるので、霊人体の生心は全体貢献を目指して利他を、肉身の肉心は自己保存を目指して利己に立つ。正確には、肉心といえども利己という一面の他に種の存続継承という利他乃至公的目的をも指向している。そして生心が主体となり肉心が対象として授受作用して、創造目的を指向する作用体をつくる。これが心である。人類始祖に堕落行為が発生していなかったら、その心は本心(ほんしん)と呼ぶことができ、神と一心であった。

残念ながら、堕落により、創造主である天の父の神性とは別に、偽りの父であるサタンとも血統的因縁である原罪と、それによって生じる堕落性を継承しているが故に、善の絶対的基準が分からなくなった人間には、各々自分が善と考える相対的基準によってしか、創造目的を指向することができなくなってしまった。そのような相対的善の基準によって心は良心という相対的な、不完全な心しか持ち合わせることができなくなったのである。

人間の争いは互いが持ち寄って譲らない相対的価値観によって引き起こされてきた。そこで再臨主が天界の秘儀を明らかにされた絶対価値・絶対真理が地上にもたらされない限り、醜悪な様相は続くしかないのである。

生心と肉身がサタンの拘束を受けて、反創造目的を指向すれば、ここにも作用体が生じるが、これを邪心という。

復帰原理の緒論においては、われわれ堕落人間が神にもサタンにも相対する中間位置に落ち入っていることを重視し、善のみに生きられる神や悪のみに生きているサタンと違って、ある時は善にまたある時は悪に荷担してふらふらとどっちつかずの道をダッチロールしながら歩んでいるのが、悲しいかなわれわれの境遇である。

それゆえ、ある意味においては神にとってもサタンにとっても信用のおけない理解しがたい存在が人間なのかも知れないのである。

さて神が臨在される生心と肉心が授受作用して人間の心の本体ができ(本心)、これを主体とし万物(心に思い描くことも含めて)を対象としてさらに授受作用がなされる際に、心の作用として生じてくるのが、判断でありそこから導き出された様々な感情や思いである。

創造本然の世界においては悪や罪やサタンの存在は全くあり得なかった。しかし人類始祖のエバと淫行関係を結ぶことによって、偽りの父となったサタンが血統的因縁をもって、われわれの日常生活の心に干渉してきて、誤った感情や思いを持つように誘導してくる。

この思いを仏教では迷いと呼んでいる。

正しい認識が悟りであるなら迷いとは誤った認識のことである。

認識というのは学問的な難い言葉であるので、判断というほうが馴染み深いように思われる。

何故人間が虚妄な迷いの中に生きるようになったかといえば、人類始祖アダムとエバが神に反逆した天使長ルーシェル(ルシファー)の主導のもと淫行関係を経て、偶発的に生じた堕落性が心に浸透したからである。従って神性に対して魔性、創造本性に対してあたかも本性であるかのように振る舞う堕落性、本心に対して邪心というものが人間は所有するに至り、子々孫々に血統的に継承されてしまったのである。

仏教には三毒といって貪瞋痴が挙げられている。「むさぼり」「いかり」「ぐち」がそれである。

われわれは堕落性を伴った思いや感情が発生する根底には、「愛の減少感」があると考えている。

天使長ルーシェル(ルシファー)が堕落してサタンになった動機が「愛の減少感」であった。

この愛の減少感を克服して行くためには、堕落の動機と経路のところで出てくる、「神の立場」が最も重要である。

何よりも先に、神と相対基準を結ぶことが先決である。

生心は神が臨在されるところである。それをイエス様は「あなた方は神の宮であるのを知らないのか!」と嘆かれ叱責されたのであった。

昔のクリスチャンは「キリスト我にあり」とか「キリストにおいて」とか表現して、自らの意識ではなく神やキリストの意識を訪ね求めて、そこに全ての判断の基準とされた。

統一原理では堕落論で堕落の動機と経路から4つのパターンで堕落性を分類している。通常講義ではそれぞれの具体例を示すのが普通である。

われわれが日常の出来事に一喜一憂する背景にはこのようなことがあるということの確認には良いことなのかも知れないが、自分自身の人格の向上には、具体例を10挙げても20挙げても40挙げてもあまり効果はないように思われる。

興進様が我々を救うために天から帰還されて役事をされた際、天から御覧になっても引っかかることがない生活基準をヨーロッパにおいて(確かイギリスであったか)活躍されていた阿部正寿さんが「あなたの信仰を見た。」と評せられたことがあった。

この先輩の本が「新 堕落性の構造」として装いを新たに出版されている。光言社はもっと企画力のある人材の協力を得て出版物の質を高める努力をすべきであろう。阿部先輩は貴重なものを復帰されてきたのであろうから、広く信徒が相続し共有すべきものを持っておられることであろう。それを引き出すような企画を光言社には期待したいものである。

この本の目次は

1.見栄を張るということ
2.無視されるということ
3.嫉妬について
4.血気怒気について
5.ケチは世間を狭くする
6.身を滅ぼす不倫の愛
7.完全主義者の嘆き
8.自己中心からくる優柔不断
9.二重生活の偽悪主義者
10.達慮で隠す自己の罪
11.神と夫とを主客転倒
12.責任転嫁が恨みを生む
13.うわさは罪の繁殖行為
14.不信の根源は神への不信
15.妻を虐待する夫の背後は堕落天使長

となっている。

平たく言うとケーススタディによる学習である。

これはおなじようなパターンの情況に立った際には大変参考になる。

しかし信仰生活で出会う局面は様々である。

また、堕落性を堕落の経路において順次生じた4つのパターンとして説明されている。これはケーススタディに比してみれば、フレームワークと見ることができる。

ケーススタディにしてもフレームワークにしても言ってみれば戦術的な事柄である。われわれはもっと戦略的な事柄に集中すべきであろう。

よくよく考えてみれば分かることではあるが、第2第3第4の堕落性は、神の立場に立って愛することができれば生じない事柄である。

つまり誤解を恐れずに語るならば、「神の立場で愛する」のみで十分であり、その他は枝葉の問題である。

別の言い方をすれば、サタンに属するものに意識を一切注いではならないのである。

神を知り、その神の愛に背いて罪に堕ちいったことを悔い改めて、メシアを受け入れ贖罪を求める。神観→罪観→メシア観という、創造→堕落→復帰の道筋の信仰に至ってからは、勿論十分に罪を認識してからではあるが、サタンに属するものに意識を向けてはならないのである。

悪や罪を意識すると、そこにサタンがやってきて巧妙に人間に働きかけるからである。サタンは天使の姿をしてやって来るのである。「天使の姿をして」とは人間の良心(本心ではない)に巧妙に仕掛けてくるということである。

映画の「エクソシスト」では老練な神父が若い神父に忠告するシーンがある。「サタンの言葉に耳を傾けてはならない。サタンは嘘つきだ。だが心理的に巧妙に働きかけてくる。」と。

ところが、サタンが街の人に入って若い牧師に語りかける。彼の母親の哀れな声で・・・

教会に献身(出家)して奉仕活動をするためには、年老いた母親を置き去りにして行かなければならなかった。その事と母親を愛していることとは別である。

信仰生活において様々な信徒との交流の時に、「私はカイン的である」とかを口にすることは厳に慎むべきである。神が愛する私を愛する、ということが神の立場に立つことである。もしカイン的であるという思いに染まってしまうと、サタンが愛する自分を認めることになり、サタンの立場に立つ。即ち偽りの父の子であると告白することになる。

神の意見をとるのか自分の意見に固執するのか、それが問題である。

謙遜の中にもサタンが忍び寄るものである。

人情に相対する良心に囚われると、サタンによって振り回されてしまう。良心はサタンも相対基準を結んで働きうる不完全なものだからである。我々が保持すべきは天情に相対する本心なのである。

法然大蔵経を五回も呼んでいる。その法然が何故死の直前に一心に「南無阿弥陀仏」を唱えることに専念するよう、あえて箇条書きに纏められたのかは、重要な点である。以下にその文章が紹介されている。

http://www.zenshoji.or.jp/fuku/namu_7.htm

仏教徒は先ず第一に仏と相対基準を結ぶべし。まるでそのように聞こえてくる。

ブログを書き始めた頃は、できるだけ創造原理のこの部分なら、そこに書かれたことに限定して書いていきたいと考えていたが、うまくいかない。原理講論は有機的に組み込まれていて、ある部分だけでは充分に理解できないようになっている。

少々長くなってきたので、日を改めて続きを書きたいと思う。

神の立場、中間位置、善神の業と悪神の業、アベルとカインなどに触れて徒然なるままに書き進めたい。

神の立場と相対基準については、「大乗起信論」を参考に文章の引用をして統一原理の場合はどうなるのか紐解いた方が良いのかも知れない。

機会があればそれも何処かで書いてみようと思う。