先日、雪舟の番組があった。
子供の頃、記念切手で秋冬山水図を知り、中学時代に友人と上野の博物館に行って見てきたことがある。
秋冬山水図の冬景色は他の人が描く水墨画とは随分違う風情のものだとは思っていたが、それ以上どうしてなのかと考えることはなかった。ただ線がとても気に入っていた。
番組で雪舟が描いた「恵可断臂図」の紹介があって、こんな絵も描いていたのかと驚いたが、反対にどこかで何度か見たことがあるようにも思った。描かれている達磨が漫画のような描き方で特徴のあるものだったからである。
雪舟という人は単なる画家とばかり思っていたら、番組のドラマ仕立ての紹介では、明の国に渡った際に天童山景徳禅寺で第一座となっているという。栄西や道元も叶わなかった快挙である。
達磨に弟子入りを申し出た恵可が拒否されたので、ついに自分の肘から腕を切り落として、その心に私心なくただ道を求めるばかりであることを証して、念願の弟子になったというエピソードである。
実際には元々腕がなかったのではないかと考える意見もあるという。
当時は真実のことと伝え聞いていたのであろう。
雪舟もおそらく、仏陀を敬慕して悟りの道を行くに、腕の一本を落とすことぐらいは躊躇せず、覚悟ができていたということであろう。
技法がどうのということには一切気が引かれず、直ちにそのような雪舟の境涯が迫ってきて私を捉えて離さなかったのである。
それは幻想であろうか?
一昨日偶然この絵が雪舟が77歳の晩年に描かれたものであることを知った。
わたしが若い頃に、外国で神に誓ったことが果たせず、自らの指を切り落とした信徒の話が伝わってきた。
当然教会はそのようなことを奨励はしないし、問われれば禁止している。どこの宗教組織でもそうであろう。
多くのものはあきれ果て怪しんだ。
ところが文鮮明 恵父は、その行為の是非ではなく、その人物が天に捧げた決意の心情を思われて、非難することを諫めた。
また別の信徒が、地上天国実現の御旨に歩まれる真の父、文鮮明 恵師がある時祈られた際に、腹に刃物を当てて御旨成就のための決意と、神に対する絶対宣誓をなされたとの証しを聞いて、自分自身の責任心情に退路を断つために、同様の事情において目的を果たさんとし、勝利したと聞いた。
文鮮明 恵父が 神と人類の運命を背負って如何に困難な道を一瞬一瞬歩んでおられるのかが本当に分かったという。二度と同じ事はしたくないと言っておられたと聞いた。
このお二人の行いは現実世界に生きるこの世の人にとっても、真実の世界に生きることを求めるわれわれ信徒にとっても、奇妙奇天烈・とんでも・怪しいの類であることには間違いがない。
しかしながら、彼らが天に捧げた心情は決して侮ることができない。
先日、真の御母様の動画を見ていたら、韓国人なら誰でも知っている素晴らしい韓国女性の名前が二人出てきた。
私は全く知らなかったのでネットで調べてみると。
韓石峰という書家のエピソードは以下にあった。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2010/06/1006j0702-00003.htm
もう一人申師任堂は以下の真ん中ぐらいに記述がある。
http://syukakusha.co.jp/onna.html
申師任堂のエピソードのなかで、夫が科挙の試験に合格するために10年間家を出て行くことを受け入れたのに、数日にして夫が帰ってきてしまったことを悔しく残念に思って、ハサミを取り出し夫が志を捨てるならもはや生きていく価値は無しとばかりに、自害すると言って諫めた女性である。
大した女である。
賢母良妻の代表として韓国では語られているという。
日本では良妻賢母と書き、順が逆なのが両国の違いがでて面白いところである。
さて、われわれ人間は時に自らの体を切りつけ、命を絶ってでも、価値ありと考えるものに重きを置くのは何故であろうか?
われわれ人間は二つの命を持っていると統一原理は説いている。
ひとつには霊人体の命であり、ふたつには肉身の命であるり、主体と対象の関係を持っている。
霊人体の命、すなわち永遠の生命の求める絶対価値に生きるのが、神の似姿たる、神の子として生まれてきた我々の宿命である。
そこで自分の身体や命を差し置いても、希求する時が訪れるのである。
恵可は自らの悟りのために、腕を捧げるという。
腕を捧げるに、如何なる次元に置いて、つまり個人→家庭→氏族→民族→国家→世界→神
の道あり、主に捧げるに親→子→孫の三代がある。
三代にして神の宿る家庭が完成することを思えば、三代によって主に仕える道がある。
最後に恵可の表情のアップを見ながら、われわれの覚悟を確認したいものである。