原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 統一思考 イエス様の統一智から見た 韓国ドラマ ホジュンと放蕩息子の譬え①

偉大な文鮮明 恵父が誕生した朝鮮という国には、一体どのような素晴らしい精神風土があり、心情の伝統が存在するのであろうか?

若い頃は非常に期待したものであるが、残念至極なことばかりが目に付き、心痛たまれぬ日々を送り今日に至っている。

ところがこういうドラマをはたして日本人に書くことができるであろうか?と思わせられるような作品に出会うことがあり、随分信仰の糧となり確認の機会を与えられることがある。

ホジュン」というドラマも誠に考えさせられるドラマである。現在Gyaoで無料配信されているが、13話以降が見られるのでその話を振り返ってみたい。

ホジュンという主人公は、現在で言えば警察と軍の機能を併せ持つような組織の地方責任者を父にもつ、しかし正妻の子ではなく妾の子である。

ドラマの正妻はマルタのような葛藤する女であり、ホジュンの母はマリアのような従順な女である。現実の社会でも時折正妻から生まれた子供より、妾から生まれた子供に優秀な者が現れることがあることを不思議に思ったことがあるが、ドラマの設定も一理あることなのかも知れない。

それはさておき、信仰的にみると不倫によって生まれた子供であるホジュンは、天使長ルーシェル(ルシファー)の謀略による淫行関係が原因で人類の始祖アダムとエバが堕落し、そこに原罪が発生し、それを受け継いで来た堕落人間である我々の立場に似ていると言える。

妾の子であるという自分の力ではどうにもできない立場によって、いくら努力しても差別され、蔑まれることに心は荒れすさみ、ならず者のような人生を送っていた主人公のホジュンが、朝鮮一の名医であり、心情の医師、すなわち心医であるユ・ウィテという正師に出会って、人間の本性(ほんせい)を取り戻していく物語と捉えることができる。

さて、13話からは現代で言う大臣経験者の奥様が難病にかかって命が失われそうになり、大臣の息子が父に代わってホジュンの師匠のユ・ウィテに救いを求めてやって来るという内容である。

ところが、多くのらいびょう患者の看病が優先されるため、弟子のホジュンを「この者は信頼にたるものです。」といって、貴賤の区別をつけず、医師としての優先順位を押し通してしまう。

身分の低い者の対応に憤りはするが、母のため共にホジュンと実家に帰ってきたが、案の定、父もユ・ウィテ本人が来ず、母の重病に際して代理人を連れてきた息子を叱責する。

すったもんだあった末、診察することになったが・・・。治療が進む中でも元大臣は色々と不信が消えず、もし妻の命に万一のことがあれば、お前の命は勿論のこと、その師であるユ・ウィテの命もない者と思えと警告する。ついにある治療上の要求からホジュンに対して怒りを爆発させ、ホジュンを牢に閉じこめてしまい治療は中途で途切れてしまう。しかし何とかホジュンは逃げ出したが、それを知った元大臣は多くの家来を集めて彼を捜索させたのである。明け方になっても見つからぬと騒いでいる中に、以前に元大臣に対して薬を煎じるのに33種類の水があることを説明していたホジュンが、再びその水を天秤に下げて人々の前に進み出た。

私の命はどうなっても良いが、死に瀕する病人を前に何もせずにいることは到底耐えられない。命を差し上げる前に、医師としての務めを全うさせてほしいと懇願する。

驚き呆れた元大臣ではあるが、そこまで言うこの男に一点の希望を掛けてみることにする。何人もの医師を呼んだが口先だけの輩ばかりであったので、到底信じられる立場でもなかったのだが・・・

妻は劇的な回復を見せついには何とか歩けるところまで回復した。

ホジュンは自らの死は潔く覚悟ができていた。しかし、ならずものとして生きていた自分に人間としての本性(本性)に目覚めることをもたらしてくださった大先生の命が、自分の至らなさによって危うくなることは胸が痛い、その先生は拙い私を信頼して送って下さっているのである。張り裂けそうな、死ぬより辛い心情の境をホジュンは、ただ師が教えて下さった、患者に対して真心からの精誠を尽くす道に集中したのである。

そこに十字架を超えた、その先にある復活があったのである。

イエス様の時には弟子たちが主の命を思うどころか、師に代わって自らの命を捧げることも覚悟ができなかった。再臨主の時もまた弟子たちの情けない有様の収拾を度々文鮮明 恵父がなされるため、度重なる十字架の道を代わって歩んで下さったのである。

「我が師の命を賭して歩む。」という体験こそ、不甲斐ない弟子たちが、師と私の間に二心無く、一心に、またその行動は一如に存在することが許されるただ一つの道なのかも知れない。日常にそのような姿勢を表し得ぬ事は慚愧に耐えない。

しかし、人生において正師に出会えたと言うことは、既に半ば答えを得たと言うことであるに違いない。

さてところがこのように一件落着したはずの物語であるが・・・

元大臣から是非にと家を造って差し上げたいとの提案も断ったホジュンであったが、医師の国家試験がすんなり通るようにと推薦状を書いてあげたいという言葉には心が動く。

母や妻子が今も自分の志を達成するために、苦労して働き、家の生活費をまかなっている事が、脳裏によぎり、その誘惑に負けてしまう。

妻は立派な心がけで、貴方には実力で十分試験に受かる事ができるはずなので、そのようなものに頼らず自らの力を信じてほしいと訴える。

天情をとるか人情をとるか、それが問題である。

ところがこの推薦状を書いてもらったことが師であるユ・ウィテの知るところになり、本人の目の前で燃やされてしまい、即刻破門を宣告されてしまったのである。

この推薦状を受け取ってしまった瞬間から、ホジュンには医師としての資格が失われてしまったのだと喝破したのである。厳しい厳しいお言葉である。

もしその人の母が危篤にあるとき、実の母を心配すののではなく、むしろ再臨主が私情を捨てて置き去りにしてこられた、主の御母様の行く末に心奪われ、それによって非情にも実の母を忘れる者は幸いである。その者は再臨主の愛を知るであろう。妻子の悲運に我々は振り回されてはならず、ただただ真の御父母様が私と人類にどれほど貴重な宝家を天に人知れず捧げてこられたかを思うべきであり、否、べきではなくむしろ当然の帰結であろう。

信仰は動機の聖別であり、動機の成長である。

数々の計り知れない死を賭して歩みこられた、我が師 文鮮明 恵父の御姿を追い求めて、心情の境を超えていきたいものである。

 

ホジュンの動画は以下にある

http://gyao.yahoo.co.jp/p/01006/v00007/