原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 統一思考 統一智(無分別智)から見た 良きサマリア人の譬え

仏教では殺生を嫌う。生命に価値を置くからである。統一原理に学べば、魚ですら自らの生命に価値を置く存在ではなく、人間に吸収されその人物の大義に同参することに価値を表す存在であることが分かる。

むやみに生き物に手をかける外的殺生も忌み嫌うべきものではあるが、よりいっそう憎むべきは魚が生命を捧げた人間が創造本然の価値を表す人生を全うできないことであり、彼らの尊い生命が無駄死に終わるからである。このような内的殺生こそ現に慎むべき問題なのである。

それが聖書に「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ロマ書8章19節)と言われる所以のひとつである。

文 鮮明 恵父によって我々は大変な神様からの宿題を解き明かされたのである。

何故我々人間が万物の主管主として立つかと言えば、偉そうにして好き勝手に振る舞うためではなく、命あるものも命無きものも人と一体となって地上天国実現の御業に同参する栄光に浴するためである。

さて、良きサマリア人の譬えを日本国際ギデオン協会の聖書で読んでいきたい。この協会が多くの日本人の永遠の生命が蘇生されるために膨大な聖書を無償で配布されたことに心から敬意と感謝を捧げたいと思う。

ルカによる福音書10章25節~37節に書かれているが、28節までとそれ以降に分けて考えてみたいと思う。

25  するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」。

26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

28 彼に言われた、「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

 

律法学者もイエス様も律法の核心の理解は、愛神と愛人であり一致している。神を愛するというのは神と一体となることであり、人を愛するというのは人と一体となることである。正確な理解ではなく大ざっぱな表現で言えば、統一原理では前者を信仰基台といい、後者を実体基台と呼んでいる。

エス様の統一智(仏教の無分別智)で言うと、神の喜びと私の喜び、私の喜びと人の喜びに境界はなく、一体一如であるということである。

したがって神を愛することと、神が愛する人を愛することは一致するのである。

文豪トルストイが書いた「靴屋のマルチン」という話がある。原文を知らない私であるが、もう絶版かも知れないが米川正夫訳がお薦めである。ヘルマン・ヘッセ高橋健二訳で読むときのような、平易ではあるが味わいのある文章であると感じるからである。この話は愛神愛人の一致がよく理解できる参考になるかと思われる。

マルチンは妻を失い、子供までも亡くして悲嘆にくれ、人生の意味を見失い途方に暮れた毎日を過ごしていた。神様にも不満の思いが沸いてきていた。ある日マルチンのところに訪れた者に自分のことを打ち明けたいと思い話してみると、涙を流し慰められ読むようにと聖書を置いて行かれた。何気なく読んでいくと冷え切っていた心がみるみる温かくなっていくのを感じた。

ある日神様の声がした。「マルチン、明日お前の所へ行く。」

本当にそうなのだろうか?マルチンは精一杯おもてなしできるよう準備して待っていた。窓から外の様子に気を配っていたら、雪かきをしているおじいさんが見えたので家に招いて紅茶をご馳走した。また貧しい母親が赤ん坊を抱いて寒そうにしていたので、ショールをあげた。だがいっこうに神様は訪れない。するとおばあさんのリンゴを盗む少年を見かけ、少年を捕まえおばあさんに謝罪するように言ってとりなし、お金を払って少年にリンゴをあげた。もう二度と罪を犯してはいけないと・・・。しかしついに神様の訪れはなかった。そう思いきや、神様が現れてマルチンに言った。「マルチン、今日わたしがお前の所に行ったことが分からなかったのか?」それを聞いてマルチンはびっくりしたが神様がおっしゃることがさっぱり理解できなかった。すると神様のお姿が、自分がもてなしたおじいさんや母親や少年の姿に変わっていた。

愛のあるところに神があるというお話である。

信仰基台:神と一体 神の心情の体得 これによって得た性品をわたしは神格と呼び、それに基づき生きることを超常生活と呼んでいる。

実体基台:神と一体となった人と隣人の一体 これによって得た性品をわたしは人格と呼び、それによって生きることを日常生活としている。

人間は霊人体と肉身からなる二重体なので二つの生活をするのであるが、動物ではなく神の子として誕生した人間の本質的性品や生活は言うまでもなく前者である。さらに言えばこれらは二つのように見えてひとつなのである。統一原理には悟りという言葉はないが、あえて統一原理の悟りは何かといえば、イエス様の語られた二つの重要な律法である愛神と愛人を一如に捉えることであろう。それがイエス様が語れれる永遠の生命に至る道である。さて続きである。

 

29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣人とはだれのことですか」。

30 イエス様が答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

32 同様に、レビ人(びと)もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

33 ところが、あるサマリア人(びと)が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら。帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

36 この三人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

 

隣人とは誰のことなのであろうか?愛の人であられるイエス様は通常我々が理解しているような身近に生活している人というようなお答えをなさらなかった。

私が若いときに、杉瀬 祐という人が書いた愛の構造という本によって、新約的な御言葉の理解というものを教えられるきっかけとなったことがある。外的ではなく内的に。行為ではなく動機に。解釈の鍵を求めていく姿に大変眼が開かれた気がした。

確かその本では、イエス様のこの譬えは、具体的な隣人が先にあって、その後その人に対する愛の行為があるという、我々の常識的な理解とイエス様の語られることは違っていると書かれたいた。

つまり先に愛するという行為があって、その後に愛された人が隣人になるのだというイエス様の論理である。卓見であると今も思う。

我々が愛して初めて我々の隣人たり得るのである。

ところが信仰のある祭司やモーゼと同じ部族のレビ人は素通りしていったのであった。

何故彼らは素通りしたのであろうか?

相対思考 立場は暴利を表す。

エルサレムからエリコに向かう道は、エリコが海抜260mの低地であり、エルサレムとの高低はほぼ1000mもあり、地形は山賊が隠れたところから不意打ちしやすいところであった。

つまりまだ襲った山賊やその一味が近くにいないとは言えないような情況であったと言える。そのとき袋だたきにされ半殺し状態で息も絶え絶えの人の立場に立てば、その希望するところは人の助けであり、それはそのまま強盗に襲われた人の利益である。一方、通りがかりに襲撃されて死にそうな人を見た者の希望は、自分もこんな危険なところにいてうかうかしては同じ目に遭うかも知れぬという危機感からさっさとここから離れ去ろうということであり、それがそのままこの人の利益であると言える。相手の立場に立つか、自分の立場に立つか、それが問題である。それが自らの生死を決めるのである。

自分と同じように隣人を愛するというのは、たんに尋常なときにそうするだけではなく、非常事態のときにすら同じように自らの危険を顧みず愛するということなのである。

これを東洋では孟子惻隠の情として説いている。自分が絶体絶命の窮地に陥ってしまうやも知れずとも、けっして見過ごすことができない心情のことである。

統一智で考えると、相手の立場も自分の立場もなく、ただ神の立場だけが存在するのである。心が一つであり行為も一つ、一体一如なのである。

エス様や文 鮮明 恵父は御生涯を神の立場で貫かれた至宝の御方である。本当に本当に人類にもったいない御方なのである。

相対思考 普遍性と個別性を意識して考える。

すると譬えの前半は普遍的な多くの人にとっての永遠の生命を得る道を尋ねた者であり、後者はすでにそのような律法を私は守っていますけど、一体隣人とは誰のことですか?というふうにこの律法学者個人についての個別性の問いであると考えられる。

あらためてこの譬えを読んでみると、私にはこの強盗に襲われた人とイエス様のイメージが重なって感じられて仕方がないのである。オリブ油や葡萄酒で傷口を手当てしているシーンがあるからかも知れないが、このような方法は実際に当時使われていた方法である。何故だろうかと考えてみた。

エルサレムは聖地であり神や神に関する世界を象徴している、一方エリヤは神が約束された地への入り口に辺り、ギデオン協会由来のギデオンですら手こずった城壁に囲まれた町である。ついに悲願はモーゼの後継者であるヨシュアによって陥落された。

聖地エルサレムから罪の町として知られていたというエリコに向かう人は、神の元から罪悪世界に派遣されたメシアのようなイメージを私は持った。

十字架の道はまだ先のことではあるが、それでも多くの迫害と嘲笑や不理解などで肉的傷ではなく、霊的傷を多く負われて、だれも正しくお迎えしておもてなしをする者がいない、見捨てられ放置されたようなそのお姿が思い起こされたのである。

さて、この譬え話の前後を見てみることにした。

22 すべての事は父からわたしに任されています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。

23 それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたが見ていることを見る目は、さいわいである。

24 あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

 

一言で言って私がメシアであるという宣言である。イエス様はヨハネによる福音書14章6節~12節にも書かれている。その中に「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(6節)とある。

神を愛する信仰によって神と人が一体になり、その人が神の臨在を内に感じながら人を愛する信頼によって人と人が一体になる。

もし人類始祖アダムとイブが堕落していなければそのままそのとおりであるが、実際は堕落してしまい、原罪を背負い、それが綿々と人類に遺伝の如く受け継がれ、その結果堕落性むき出しの堕落人間に陥ってしまったのである。

そこで、信仰基台と実体基台を築いてメシアを迎える基台を創らねばならず、次にメシアと一体になることが永遠の生命を得る道となったのである。

詳しくはこの各種基台はアダムの堕落以後神が立てた中心人物や中心勢力によって成されて今日に至っているのである。復帰原理を学ばれる必要がある。

さて、譬え話の続きで聖書に書かれているのは、あのマリアとマルタの話である。マルタは家にイエス様を招いたが接待に忙しく立ち回り、イエス様の足下ですっかりイエス様のお話に聞き惚れているマリアに手伝うようイエス様に言ってほしいと願った。

ところがメシアの御言葉に一体となることが永遠の生命に至る道なので、かえってイエス様はマリアが正しいとされたのであった。

私たちは道ばたに捨てられた石のようでもあり、招かれざる客のようでもある。サマリア人ユダヤ人と異邦人の混血の中で多くの異邦人の慣習にに染まり、ユダヤ人にある意味さげすまれていた存在であることを考えると、我々のような本来選ばれた立場ではない者に似ているようである。

そんな存在であれ正しく主を迎え、おもてなしできれば幸いが訪れることであろう。

律法学者に対して、イエス様は果たして隣人となるのか、メシアとなるのか、律法学者の意図とは別に本人の個別的問題の提起が為された結果になっているように思われれる。

無くてならないものは多くはない、いや一つだけである。