原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 立場と望利を意識して考える生活習慣

国会改革の議論が為されている。国家全体を代表する総理大臣は国内の様々な問題の解決にリーダーシップを発揮していかなければならないと共に、世界の多くの国々とも互恵発展の為の交流を推進していく必要がある。

世界と国家と地方はあたかも太陽と地球と月の関係にも似た、全体と個の二重目的をもって存在し、地球に比される国家は、より全体としての世界を主体として個体として対象の立場で存在し、一方47県に対しては全体として主体的立場に立ち、それぞれの県は個として対象の立場で存在している。

厳密には現在世界政府の如き統一した機関は存在しないのではあるが、アメリカ合洲国やEUの拡大の動きなどは、国家を超えた枠組みの中にしか解決できない問題を共同体構想で模索するものであった。

勿論可能性もあれば限界もある。

現在、ウクライナ問題が発生しているが宗教の個別性や民族の個別性がぶつかり合うのが、国家が二分されていく時に見受けられる現象である。

第二次世界大戦後、連合軍が主動で組織された国連は、その性格上連合国のそれぞれの個体である国家の利益を指向した複合体であり、残念ながら世界万国万民の公益に立つものではない。

ところで人間社会の各階層に現れる組織を形成する最も基本的核組織とは何であろうか?

それは家庭である。また家庭の形状的日常生活に対する性相的営みは家庭礼拝である。

中東におけるイスラエルとアラブの対立、さらにエルサレムユダヤ教イスラム教キリスト教のそれぞれの聖地として存在していることを思えば、これら三者が同じところで別々の礼拝をしているということである。

この解決しがたいと思われる宗教対立を背景にした政治対立は、アブラハムの家庭問題が本質である。神が愛されたアブラハムは御心を完全に果たすことができず、アブラハム・イサク・ヤコブの三代に渡って完遂すべく摂理が延長された。そこで神は見かけは三代であっても神の御旨を成就する一代と見なし、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と自ら名乗ったのである。

厳密にはヤコブの家庭に置いて決定的に二つの民族が形成される原因が発生したのである。イシマエルもアブラハムの血統であるため、その後孫も神によって祝福され民族を形成するようになった。

この家庭問題を収拾するために来られた方が。イエス・キリストであられた。

人類始祖であるアダムとイブが父となり母となって神の理想の家庭を築き、氏族→民族と反映して地球上に神の愛を体得した神民による至福世界が約束されていたはずであった。

神と一体となった真の父と真の母の理想を、アダムとイブが堕落によって失ってしまったので、神のお望みにならない罪悪世界が地球の隅々まで展開してしまったのである。

福音書とはGood News 良き知らせである。何故によい知らせなのであろうか?

それはアダムとイブが堕落によって失った「真の父母思想」をもってイエス様が降臨されたからである。アブラハム家庭問題を元返していく道筋を立てるべく来られたのである。

「罪なき者から石持て打て。」と淫乱の女ですら助けたイエス様が、何故、母マリアを叱責されることがしばしば見られるのであろうか?

特に他人の結婚式の手伝いに忙しくする母に「私の時はまだ来ないでいる。」と嘆かれたのである。

子羊の婚姻、即ちアダムに代わりイエス様が神の祝福を受けた聖婚をイブに代わる女性と成就して、創造本然の世界を、家庭→氏族→民族と拡大して行くはずであったのである。

この神とイエス様のみの知る子羊の婚礼の奥義を人類に歴史上初めてあからさまに解明された御方が、文 鮮明 恵父なのである。

本来仲睦まじい家族であったはずの者たちが、分裂し挙げ句の果てには対立し抗争するという始末に成り果ててしまったのである。

この家庭問題を家庭解決して行こうというのが、神の祝福による合同結婚式である。

恩讐であるイスラエル人とアラブ人、ユダヤ教イスラム教が失われた理想家庭を求めて本来の家族に復帰されていく神の摂理である。同様にユダヤ教キリスト教も結婚によって一つになって行くのである。

恩讐が神の元に結婚すればその福は神が責任を持つのである。反発し合う血統を夫婦が克服し解消し葛藤と争いのない共通の子孫を持ち、子孫に引っ張られて先祖も元返していくのである。

このことはクリミア半島においても、世界中の如何なる紛争地の問題の解決に置いても共通であり、一時的な解決はその他の方法が見つかることがあっても、永続的な根本解決には至らないのである。

それはただ神が使わされた真の父母による祝福された聖なる結婚によって築かれた人類一家族理想の他にはないのである。

EUであれ何であれ、この核組織である家庭問題を抜きにしてはその目的は遂げることができないのである。

私は以前より不思議でならなかった。

議会政治には二院制が見られるのは何故なのであろうか?

両院制から一院制に変更したデンマークスウェーデンなどの存在があり、我が国に置いても良識の府として期待されてきた参議院が機能不全に陥っているような状態にあり、衆議院だけで良いのではないかとか、メンツを潰してはいけないので両方御破算にして、新たに統一された院を創ってはなどと議論がされているようである。

国会議員という職業は県民の陳情の窓口のような様相を現しているのはよく知られたところである。県民がある人物を選ぶというのは、自分にとって或いは自分たちの県にとって利益になると考えるからであろう。

県を代表した国会議員が国会に臨むと言うことは、県という立場で議会に参加すると言うことであり、議員を選んだ有権者は自分の立場、即ち己が利益によって選んだのである。末端の有権者も彼らに選ばれた議員も利己的な立場で選び選ばれ行動するわけである。

果たしてこのような期待を背負って集まってきた議員が本当に国家全体の利益を追求して実現へと導き出せるものなのであろうか?

国益の追求と実現のために国会が開催されるべきであれば、ひも付きでない人間による必要がある。脱藩ならぬ脱県議員の参加である。

国家という全体と県という個体の希望や利益の狭間に揺れ動いているのが議員の実体であろう。

では両院制というのを全体院と個体院のような形にはできないものであろうか?単なる思いつきである。

従来型の県の民意や利益を代表しながらも全体としての国政に参加する院を仮に個体院と呼ぶ。これに対して県という柵に関係なく国家のあるべき姿や利益に奉じる院を仮に全体院と呼ぶ。全国区である。

衆議院参議院という区分に合理性がない以上早急に何らかの代案を創らなければならないであろう。

全国区で選挙する得票数の上位者に票が集中してしまい、多く必要とされる人材の選別をするには有効に機能しにくくなる。そこでその反省から個人ではなく党に投票する、比例代表制というものが登場することに至ったのである。

これで県という拘束をある程度は解き放たれる事はできた。しかし、いずれかの党に属すれば、その党の利益に左右されることになる。

人や組織の立場とは、それの希望を表し利益を表している。

意見というのは一聴正論のように聞こえるものではあるが、概してその人の立場や所属の利害に基づいていることがしばしばである。医師会の応援を得るのであれば、その利益の代弁者にならざるを得ず、電力会社の支援を受ければ、やはり同じ事になろう。

全体最適に向けて国会や選挙や議員などの根本的な改革が求められている。私自身これからもあれこれ考えを巡らしていきたいと思うのである。