原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 個と全体を意識して考える生活習慣

深層NEWSに下村文部科学大臣共栄大学藤田英典教授が、道徳教育を強化する事を巡って討論をした。

下村大臣が気の毒なくらいかみ合わない不毛な議論であった。下村大臣はかなり丁寧に説明されておられたが、ことあるごとにそれは認めないわけではないがしかし・・・というような議論の進め方をされたいた。

はっきり言えば、二枚舌の人間とまじめに議論しようとしているような感じで、下村大臣が気の毒でならなかった。さらにたちが悪いことに、藤田教授は見るからにいい人なのである。つまりご自身はご自分がどのように癖のある話し方をされているのかご存じないようなのである。一体大学での講義もこのようなものなのか?ご自身の考えの核となる価値観を明確に示し、相手が分かりやすいように順序立てて話すことが成功しているとはとても思うことができなかった。ご専門の社会学の用語を使う際の定義が曖昧であり、できれば例も分かりやすいものを加えれば良かったと思われる。下村大臣が意味をくみ取れず困っているように見えた。

相手の意見の出し方が闇討ちに似ていて、誤解による見当はずれのところから来るので大臣は途方に暮れておられた。

藤田教授が最も強調しておられたのが、「道徳は教えるものではなく、経験によって育まれるもの」という主張である。

どうやらこの表現で主張したいことは、強制や押しつけでは道徳は身に付かないという事らしい。さらに教科書自体の選定を国がすることにも異を唱えている。

これに対して下村大臣は戦前には修身を教えるのにこの箇所はこう指導するようにと言うような面があったことは認めるが、政府が行おうとしていることは、そう言う関与はなく単にみんなで考えるための素材を提供することであるといった趣旨を伝えた。

正式の教科に道徳の授業が格上げされるには、①特定の教師②教科書③評価の三点セットを満たさなければならず。

①については英語の教師のような技能というわけには行かないにしろ、何らかの基礎知識を教師が身につけていなければならないと考え、教師が身につける内容や仕組みなどを検討して貰っているとのことであった。

②現在配布されている「こころのノート」は教科書ではなく教材(副次的な参考資料)であったが、これを全面改定して教科書にするという。教科書になるためには専門の教師が必要になるとも言える。

③については通知表の1・2・3・4・5の五段階評価である。

ところで道徳は特別教科として扱われ、通知表の評価は行動評価の欄にあるようなOで示される。良いところのみの評価である。

藤田教授は評価すべきではないという。評価は仮面を被ったよい子を作るだけだというような趣旨の内容と思われる発言をされた。教科書はよい子を演じるようにし向けることしかできないと考えておられるようであった。

藤田教授は意図したことが意図せざる結果をもたらすという社会学の概念である「予言の成就(実現)」という言葉を出して説明しようとしたが、しどろもどろで実にわかりにくかった。後に検索で調べると、ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾他訳、みすず書房を参考にして実に丁寧に纏めてあるサイトを見つけたので以下に示す。実に分かりやすく纏めている。例も分かりやすい。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kyotsu/1999/9902prophecy.htm

ではどういうふうにすべきだと藤田教授は考えているのか?品川の学校に指導しているのが、「江戸しぐさ」による授業だそうである。しかしこれも選定して始めるとすれば、教授のおっしゃる強制に当たるであろう。

この江戸しぐさとは20年ほど前は商人の繁盛しぐさとして知られて来たものである。江戸っ子の心意気があって、それに相応しいしぐさがあるのである。しかしもっと大切なことは、江戸に限らず日本中にかって存在していた志の教育ではなかろうか?

道徳が人としてあるべき心の姿勢や動機の正しさを、倫理がその表現形式としての作法やルールを相補いながら存在しているのであろう。

藤田教授は政府(全体)が作った教科書などの道徳は個人に押しつけられるべきものではないと考え、各自が体験を通じて育まれていくものであり、作為的なものは排除されるべきだとお考えのようである。あたかも政府が全体主義の権化でもあるかのように考えておられるのではと勘ぐらざるを得ない。この方が日本教育学会の会長だというのだから驚きである。くわばらくわばら・・・

倫理道徳というのは全体と個のバランスを取り持つものである。それにも拘わらず道徳を画一化したものでなく多様な価値観を含まなければならないと主張される。果たしてそんなことが可能であろうか?

下村大臣が言われているのは、諸外国では宗教的な背景があり、その影響の中で生まれた道徳があるが、日本ではないので言ってみれば現実にある古今東西のものの中からいいとこ取りをしたものをもってするしかないということである。つまり「画一」ではなく、国境を越えて普遍的に認められ得る、「核一」的な道徳を標榜していると言うことである。

藤田教授は子供達が道徳を身につけたかどうかを評価する方法は、アンケートであれ何であれ存在しないと言う。ここまで言うとなれば議論も道徳教育も無意味であろう。

山本七平日本教という概念を提案された。西欧キリスト教社会が神を中心とするのに対して、日本の社会では人間が中心であり、一番大切なのは人間であるという根底の理解があるとした。これに西欧の個人主義が浸透すれば、道徳という普遍性を前提とする価値観さえも、個々人の多様な価値観を受け入れるべきであるといった考えに到達するのであろうか?恐るべき屁理屈である。

アダムとイブが人類共通の始祖であるならば、現在各国で話されている言語間で相互理解が可能である事は、各言語に共通する核言語のような領域があるからなのであろう。

チョムスキーが普遍文法の存在に言及していることを何処かで聞いたことがあるが、アダムとイブが人類共通の先祖であれば、頷けることである。彼らが用いた初期言語が全体であり、こんにち多くの言語に分かれ至った多くの言語は部分と考えられる。

メシアの降臨によって再び言語は一つに収束されるのであろう。

先日りLixilの社長がGEなどアメリカの企業では変革を起こすことができるリーダーが求められ、そのようなリーダーによって業績が向上するという考えが広く行き渡っているとし、たとえ入社したばかりの人間でもリーダーの候補者と見なせば、リーダーとして育つための教育に惜しみなく投資するという。

これに対して日本ではいわゆる全社員の底上げにより、改善を積み重ねその総和で競争に打ち勝つというスタイルである。残念ながら昔も今も調整役という意味でのリーダーが我が国に跋扈しており、変革を起こすリーダーは非常に少ないようである。

西欧は全体を引っ張っていくことのできる個の活躍を求め、日本は全員経営といったように末端の個に求める。

パレートの法則から80%の業績をあげることのできる20%の人材といった意識は少ない。

古くはユダヤ人の選民という概念や旧約聖書のギデオンが真にやる気のある人だけに削減して、少数精鋭で事を為すことから、現代のエリートに至るリーダーは個によって、部分によって業績をあげて、その結果全体が恩恵に与るという発想があるのであろう。

日本人は細部をさらに複雑にするのが好きな民族なのかも知れない。

重箱の底をつつくというのは、外国からはかえって個性としても映ることがあるようである。

Katy PerryTeenage Dreamという曲は3つのコードでできているという。サビの部分も3コードである。ところが木村カエラのButterflyはたぶん40コードぐらいあるという、また転調も多いのが日本の曲の特徴であり特異な点であるという。

リーダーシップやトップダウンによる教育改革が日本でも行われているとクローズアップ現代で放送されていた。大阪維新の会のもと大阪府教育委員会 委員長 中原 徹氏の改革である。以下に番組内容の起こしがある。動画ももう少しすればアップされるだろう。維新にはカリスマのある人間がもう一人いることを知った。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3470.html

 

最後に評価の方法であるが、生徒参加型評価にしてはどうであろうか?

二重丸で表現し、内側は教師で外側は生徒の評価とする。ある一定以上の、例えば半数以上のクラスメイトにOが与えられれば外側のOもつける。二重丸になる。大切なことは教師の目だけではなく、実際に一緒に生活している子供達から見た自分の評価でもある。それこそが社会性だからである。