原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 時間展開と空間展開を意識して考える生活習慣

以前にも述べてきたように、時間と空間とは存在物ではなく、全ての存在物が存在するための存在形式であると言うのが統一原理の解釈である。

したがってあらゆる存在物は空間展開と時間展開をもってその存在を表現していると言えるのである。そこで何か具体的なことを考察する際には、時間的な側面を具現していく時間展開と、空間的な側面を具現していく空間展開をセットにして行う事が自然なのである。

難しいことを言わなくとも誰もが知っていて実際に行っていることである。例えば京都に旅行するというテーマがあって、では何処と何処の寺院などの名所に行くかと言う空間展開があり、それではそれらの例えば7つの場所に行くとして、出発地点からどの様な順序で移動して、それぞれ移動時間や滞在時間ををどれだけとることにするといった時間展開がある。

そんなことは当たり前だと誰でも思うものであるが、国民が選んだ民主党政権は如何であったであろうか?たいそうなことを言いはするが、ロードマップがしっかり提示されたことがあったであろうか?そこで国民はアマチュア政権であると判断したのである。何しろ菅直人にいたっては仮免発言が堂々と為された事が証言として思い起こされる。党としての意思決定の機構すらなく、一部の人間の独断で重要な案件は決められていたのであるから、構造や機能をかたどる空間展開もままならぬ様相であった。

笑うこと泣かれ!政治家もスコミも、それに乗せられた国民も、民意民意と騒ぐが、民意がもたらした災いと損害をとくとご覧あれである。

民意が正義であり、民意はいつも正しいとお考えであろうか?

残念ながら民意こそ衆愚政治の温床である。

我々一般庶民は日常の周辺事に目が奪われることが多いのである。言ってみれば蟻の目である。しかし政治家はそれでは困るのである。国家の発展の未来最適と全体最適のバランスを見極め決断を下さねばならないのである。鷹の目が望ましい。

日本教と対極と言われるヘブライズムでは民意ではなく天意を知る中心人物、すなわちリーダーがかえって民意の意図を打ち砕き、天意に従うようリードすることが勤めであるとされてきたのである。

西欧のリーダーシップは中心人物がある決断をし、反対の人々を含めて多くの人々を決断の方向に束ねていく、リードしていく様相をしている。それに対して日本のリーダーは人々の陳情をくみ上げて対処する受け身の姿勢が強いと思われるのである。ビジネスマンは違うという無かれ!経団連の会長をとくと御覧あれ!何処も同じ秋の夕暮れであろう。

さてかく言う私も人格の歪曲にひどく悩まされ、なかなか矯正され得ぬ身であるが、それ故人格完成には人一倍関心があるのである。

そこでたびたび例に挙げてきた「連体」に登場して貰うことにする。

時間展開があれば対応する空間展開を求め、空間展開があれば対応する時間展開を求める。

全ての存在は性相的(全体的)な目的と形状的(個体的)な目的という二重目的を円和に統一する連体として存在する。

第3節 創造目的のところで連体のより詳しい説明があるが、これを空間展開の表現と先ず見る。するとこれに対応する時間展開的表現はないか?と考える。

すると原理講論 後半の 緒論に (三)復帰摂理歴史と「私」 がある。歴史の結実体としての私である。

格調高い文章なのでそのまま味わいたいと思う。

 「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。従って、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それ故に「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、はじめて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。従って、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人達が達成することができなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。

 

仏教学者の故玉城康四郎先生が輪廻転生の結実体として業熟体と称されていたことは興味深いものがある。

さて、ヘブライズムの流れを継承するキリスト教や統一理論はハッキリとした歴史観を持っている。これに対して仏教は概して歴史観は希薄である。

仏教の悟りである主客統一や自然との一体、統一原理で言う連体は主に空間的内容について語っている。そこで連体の空間的展開ということで空間的連体ということができよう。

統一原理では主客統一が、第一に神と我の主客統一であり、第二に我と人の主客統一であり、第三に我と万物の主客統一である。我と人の主客統一で最も重要なのが、主体としての男性と相対としての女性の主客統一である。仏教では神の代わりに仏を主体と立てた主客統一はあるとしても、男女の主客統一はない。キリスト教にも存在しない。これがあえて統一原理のなかで悟り相当するところは何か?と尋ねなれたとすればその特徴となる。

さらに際だっているのが、個人的な今という時や私がその中に存在している現在の世界という断片的な時間ではなく、継続された時間である歴史的な一体性に注目し、さらにはこの歴史は神が立てられた歴史であるが故に、この歴史の目的の達成の中にあり使命を継承し責任を果たすべき存在として、私があるというように、連体の時間的展開としてのいわば歴史的連体、あるいは時間的連体として我々は存在しているとされている。

前者の悟りが至難である以上に、後者の悟りは遙かに体得に困窮する性質のものである。前者が静的な悟りであるとすれば、後者は動的な悟りと言うこともできるのである。

新約聖書の一番初めの記述は何であろうか?マタイによる福音書はギデオン教会の聖書では「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まる。

血統すなわち血は心情を表すので、血統転換は心情転換という表現が為される。

何故この系図の話を持ち出すかと言えば、時間的連体とは時間的一体性のことであるから、アダムを見つめる神の心情、ノアを見つめる神の心情、アブラハムを見つめる神の心情、ヤコブを見つめる神の心情、その子ヨセフを見つめる神の心情、その兄弟ユダを見つめる神の心情、その息子の嫁タマルを見つめる神の心情・・・・と果てしなく現代に至るまで続く心情の継承者という連体が時間的連体の核心であるからである。

つまり空間的、時間的側面の中心を貫く第三の連体が心情的連体である。勿論これらは別々に三つが存在するのではなく、一つの連体を構造的に説明した際の三つの側面と言うことである。一体一如、統一されているのである。

時間的連体はこの世ではエコロジーとして時間的善循環の思想が知られている。

さて、このような三つの側面をもつ連体を人類史上初めて体得され、全生涯に渡って実践された御方が、天地人真の父母様 文鮮明 恵師である。悟りという世界に関連づけて先生を理解しようとすれば、ひとつに以上のようになるのではないであろうか? アージュ!

私は主客統一がユダヤ教の流れや、イスラム教の流れや、仏教、儒教の流れにもあり、そこから対話の道が開かれるのでは無かろうかと予想している。何分不勉強なので今は控えざるを得ない。機会があればその辺りも話せる日が来るかも知れない。