原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 原因と条件を意識する生活習慣(主体性と対象性)

統一原理ではあらゆる被造物が生じてきた第一原因のことを神とよんでいる。勿論この一言で表すことができる御方では無いので、神の理解には様々な御言葉とそれを中心とした信仰の実践も不可欠である。その点を了解した上でこの原因性を鑑みるに、あらゆる人生における創造活動の根元に原因性があると思われるのである。神という中心が人間主体に臨在され、初めてここに本然の主体性を得る。その時現れる性質が原因性である。文鮮明 恵父におかれてはこの原因性は絶対原因性となる。

世の中では自責と他責という言葉が時々使われている。この言葉は私が知る限り20年以上前に新将命氏が考えた言葉である。責任は我にあり、とするか他の人や環境にありとするか、その態度が本人の向上に大きく左右するといった主張であったかと思う。なかなか簡明で的を射た表現である。

かって文鮮明 恵父が久保木会長に日本に起こる全ての問題が自分の責任であると思うようにしなさいと言われ、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、全部自分の責任と思うようにしたと、久保木先生が講演で語られた事を思い出す。落語がお好きであったので軽妙な語り口で多くの人を魅了されたことが懐かしい。たまたまご本人から直接お聞きしたことがあったが、実はフランス文学にご関心があって学びたいと思ったことがあったそうである。かなり熱っぽくお話しされたのでびっくりしたのを覚えている。

主体性というのは原因性のことである。この原因性を自ら引き受けるというところに、自発性 すなわち自由の問題がある。また対象に働きかけるというところに創造性がある。天地創造とは無からの創造である、何らかの質料とでも呼ばれるものが神とは別途にあって造られたのではない。もしそうであるならば二元論に陥ってしまう。無からの創造とは神が自ら生み出したという行為である。そこで人間の創造活動でも生み出すという表現が使われるのである。神によって全愛全知全力で生み出されたのが天地、すなわち霊界と宇宙であり、その最終的結実として誕生したのが人間である。神が全身全霊をもって生み出したので、対象は第二の自己といえるのである。道元の言う全機現や文鮮明 恵父の言う完全投入とは先ずもって神が身をもって示された伝統なのである。

我々日本人はあらゆる行為に道をつけ、何々道と呼んでいる。これは世界的にも希有のことだそうである。この至誠こそは本来高らかに世界遺産を申請すべきものである。

最近NHKのプロフェッショナルの流儀という番組を二本見た。一つは佐藤オオキというデザイナーの話で世界の一流ブランドから仕事の依頼が殺到している方である。もう一人はパリのトップテイラーとなった鈴木健次郎である。お二人ともまるで修行僧のような精進と、まるで献祭の捧げ物であるかのようなお仕事の精誠である。顧客の難しい要求に答えるだけではなく、要求する以上に提示できるよう絶え間なく問題に挑戦されておられた。

第二の自己を造るというのは実りであり果実であり実績である。

番組の詳細はここでは語らないが、一つだけテイラー鈴木健次郎の仕事のことをお話ししよう。フランスで最も有名な弁護士のエルベ・テミムというスーツに詳しい人物がいる。彼が極めて薄い生地でトラベル・ジャケットを作ってほしいと依頼してきた。

通常厚手のコットンの生地で作るものである。二重のポケットがあるので、薄い生地で作ると重みでいくつもの窪みができてしまう。他のテイラーで断られてきたのではないかと疑ってしまうほど、透けて見えるような生地には不可能に思える。

私は若い頃フラノでできたダブルのスーツを着たことがある。その時、正式な名称は知らないが襟の部分の縁をぐるりと、着る時まで形くずれしないように、糸が施されていた。仮縫いのように白い糸ではないし目立たないのでそのままにして使っていた。また別のスーツでは前の二つのポケットの上部を型くずれしないように施された糸を解かずにしてポケットは使わなかった。ひょっとしたら、それぞれそのままにしておくものなのかも知れない。ともかく厚手の生地で二重ではないポケットですら、よれることは多い。よくもこんなものを作ったものだと感心した。トラベル・ジャケットというものは自分には野暮ったく見えていたが、この超薄手の生地でつくられたスーツは洗練された感じがした。できあがった作品を見て弁護士の意図がよく分かったように思えた。

素晴らしい日本人の仕事を拝見して思うこと。原因が我にあるというのは、自らが原因となって対象に働きかけた結果に対して一切の責任を引き受けるということであり、結果というのは実績という結果のことである。

さてアカウンタビリティという言葉を耳にすることがある。

通常は説明責任と訳されているようである。私は英語に詳しくはないがどうも英書を翻訳したビジネス書などを読むと意味が違うように感じてきた。私の感覚では実績結果責任のような感じである。このような責任に対して付随するのが説明なのではないであろうか?つまり前者が内容であり後者が形式である。

ともあれお二人の仕事に対する責任感をみるにつけ、やはりそうでは無かろうかと思った次第である。通常は個人というより組織に使われるようではあるが、個人に対してもこの言葉をあえて使うならば、できあがった作品の制作過程こそ、顧客に作品がこのように結実した事に対する説明であろう。企業の実績の言い訳に使われるよりも、個人の品格に使われた方が言葉は救いを感じることであろう。

さて、対象性とは何か?私はとりあえず条件性とみている。主体と対象を原因と条件に対応させると、使い勝手がよいからである。

以前に仏教の縁起について少しブログに書いたことがある。ブッダが説かれた縁起は一般に存在するものはそれ自体で存在するのではなく、諸条件によって生じるのであるというように説明されている。

複数の条件によって成るというのである。

ところで、発芽のために必要な条件として、水と酸素と適当な温度が必要であると言われている。この時種子が原因となる。種子の中の発芽し生育しようとする力、原力があり、この原力はただ伸びようとする力ではなく、成熟に向かって描かれた設計図が内在されている。これらの主体と対象、原因と条件の授受作用(相互作用)によって合成体としての発芽という現象が現れるわけである。

誰でも知っているこの例は、主体と対象、原因と条件の基本的な使い方のイメージ把握を容易にしているように思われる。

事象の現れた原因と条件を把握せよと言うことである。あるときはこの二つは本質と現象に対応しているようである。

中高のの数学で習ったことはすっかり忘れてしまったが、何故か補助線を引くとか条件の整備をするという言葉は不思議と今でも覚えている。どのように使ったかも忘れてしまったのにである。

先のテイラーの鈴木さん達の仕事を見ると、対象に課題や問題を抱えているときに、主体が完全投入や全機現によって既存の条件の活用から新しい条件を創りだし条件の整備をすることを仕事とみているように感じられる。

ここで大切なことは、「変えられるものと変えられないもの」という視点である。

主体であるから先に動く、手動である。ではどう動くかと言えば、変えられるものと変えられないもの、コントロール可能なものとコントロール不可能なものを峻別して、変えられるものに集中するということになるようである。

しかし、どんなにノウハウやテクニック、さらにその奥の思考態度を学んでも、ある種のセンスが最終的には重要になってくるように思われる。

ポアンカレ予想を解決しようと挑んだ数学者達は当代第一といわれる数学者であった。彼らはその解法に身を捧げ廃人のようになってしまっている。

同じように諸条件を活用しながら挫折に至っている。位相幾何学によって解決しようとしていたが、その前の時代に全盛であった微分幾何学の知識が必要であり、かつ物理学的な発想が必要であった。

単なる視点の移動ではなく分野の異なる視点が必要であった。このような視点を直感的に得るためには、人間の霊性とその開発こそが必要なのではなかろうか?私はそう思うのである。

 

次回につづく