原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 主体と対象を意識して考える生活習慣

私たちの思考の原点は授受法であり、授受法とは空間的(構造的)には四位基台であり、時間的(推移的)には正分合である。

したがって常にこれらの枠組みを念頭に置いて思考は展開されるべきである。主体と対象とは四位基台の要の言葉であるが、主体と対象の前に中心があることを当然忘れてはならない。中心がそもそも相反する目的や価値観であれば、この二者は主体と主体になり衝突事も起きてくるわけである。

復帰摂理においては人類歴史を善の主体と悪の主体の闘争史、すなわち善悪闘争史とみなしたことがこれに当たる。

これに対してフィギアなどのスポーツ競技では主体と主体の競争となるが、価値を巡る競争である。

この場合グランプリ・ファイナルの詳細な個々の得点の中で羽生選手が意識していたのは「二桁」だそうである。二桁ということをぼそりと言ったときは何の事やら分からなかったが、詳細な個々の演技の採点表が番組で紹介されているのを見てこのことかと分かった。

つまり、10点以上がとれる大技をいくつ高得点でとれるかが勝敗の分かれ道であると羽生選手は言いたかったのであろう。この点を解説している記事は見あたらなかった。

主体対象で見ればこれが勝利の主体要件であり、その他の技術点は勿論重要ではあるが、比較すれば相対的にみて対象要件となるのである。

主体と対象という言葉はそのまま使っても良いが、主流と傍流、中心と周辺などのように変幻自在に用いればよいようである。

中学生時代にクラスでトポロジー位相幾何学)の話題で盛り上がった。中学生であるから難しいことは分からない。一筆書きに関係があることや、ドーナツとコーヒーカップの形が本質的に同じだと考える学問だという程度の理解である。

しかし、中学生でもドーナツとコヒーカップの形が本質的には同じだということが直感的には理解できたような気がしてみんなワクワクしたものである。

このトポロジーに関連して、数学にポアンカレ予想という難問がある。NHKの番組をもとにいくらか要約してみれば以下の通りとなる。

ポアンカレ予想というのは宇宙の形と構造に関する数学の問題である。誰かが長いロープを持って宇宙一周旅行に出かけたと想像してみて、その人物が旅を終え無事に地球に戻ってきたとする。その時宇宙にぐるりと巡らしたロープは引き寄せていつも自分の手元に回収することができれば、宇宙は丸いと言えるはずである。この考え方を数学的に表現したのである。これが今日ポアンカレ予想と呼ばれているものである。

宇宙の外から宇宙を眺めることができれば宇宙の形が分かるかも知れないが、宇宙の外に出なくとも宇宙の形を知る手懸かりがあるはずだと彼は考えたのである。

ところがこの難問は多くの数学者を悩ませ人生を狂わせるほどであった。消耗し憔悴しきって死んでいく姿には、求道の行脚の中で倒れていく者が現れる信仰の道に似ているかも知れない。

数学者がこの問題を解決する際に悩んだ問題の中に、宇宙を一回りした縄を引っ張って回収する際に、こんがらがって縄に結び目ができてしまうことだった。解決の道を見いだせずに立ち止まっていると、ウィリアム・サーストンという天才的な数学者が独創的なアイデアを出した。

 多くの数学者が囚われていた紐の結び目に視点を注ぐのは止めて、宇宙が丸くないとしたら他にどんな形があるのだろうか?宇宙がある形をしているとすれば、どんな形が考えられるのか、宇宙の外側からしか分からぬ形を身近な日常生活に見る木の葉の形などの分類をしながら考察して、苦節十年。

1082年に、宇宙がたとえどんな形であろうと、最大8種類の異なる形の断片からなっているはずだとの結論を得るに至ったのである。これはサーストンの幾何化予想と名付けられ た。

三次元多様体は一様な幾何構造の断片に分解できるだろうというものであった。

万華鏡の中の有限のビーズから無限の形が現れるように、宇宙もまた最大8種類の形の組み合わせからできた形を持っているに違いないと彼は考えたのである。

8つの形のうち一つは丸であり、その他は穴の空いた形であったので、それらが一つでもあれば回収できないことに気づくようになったのである。

サーストンの幾何予想の証明はそれに含まれるポアンカレ予想の解決でもあったのである。

サーストンの事例をみて思うのは、陽性と陰性を考える相対思考で、表がだめなら裏、上がだめなら下ということで、ある方法で充分に考察されたのに期待できる成果を得ることができなかった際には、その方法や前提条件を放棄して、その立ち位置とは反対の方法や前提とは何かを尋ねて模索する方がよいということである。前提条件を離れる。そして反対に向かう。反対側とは何か。そこから再出発する。

統一原理では被造世界の存在物を性相と形状、また陽性と陰性の共通事実を保有する6つの階層で単純化して説明している。サーストンの場合は無数の形が考えられる中から最大8種類の形とその組み合わせに単純化して見せたのである。

考え得る形の中でこの8つが主体であり、その他は対象である。羽生の場合は二桁の得点を如何に伸ばすかが主体であり、その他の得点は対象である。

また宇宙の外側からその形を観察できないサーストンは、現実の生活で自然や身の回りの存在の具体的な形から考察を始めたのである。

自然界の共通事実がないか確かめてみることから神の存在を考察する創造原理もまたこのような考察であった。

 

「見えるものから見えないものへ」という思考はこういう事を指しているのである。サーストンの言葉で置き換えれば「数学は旅に似ています。見たこともないものを何とか見ようとする努力なのです。」

サーストンの功績を受けてハミルトン博士がリッチフローという特殊な方程式を使えばサーストンの幾何予想とポアンカレ予想を証明できる可能性があると主張した。

ここでグレゴリ・ペレリマンンの登場である。

このリッチフローの方程式とはペレリマンが学生時代に親しんでいた物理の方程式であった。ところが、時代はこの微分幾何学の時代からトポロジーの時代に移行したと誰もが思っていたときであった。

ペレリマンがポアンカレ予想の証明をインターネット上に乗せた翌年、プリンストン大学に招待され、大勢のトポロジー専門家や数学者の前で講演がされたが、その証明に使われた数学はトポロジーではなく微分幾何学やペレリマンが高校時代に学んだエネルギーやエントロピーなどの物理学の知識を駆使したものであった。

数学にとれわれていると数学の問題が解けないこともある。

異分野の物理学の観点によって数学が進展するときがある。

科学において世界的な碩学や権威であったとしても、それは本人が専門とするある分野においての事である。神は統一智で世界を創造されたのであるから、分類された学問の個々の実力で解明される範囲には限界がある。数学と物理学という一見近いと思われる学問にしてこれである。

我が国にはこの学問の境界を打ち破ろうとした小室直樹がいた。しかしこのような本物の学者を招聘する大学は皆無であった。

文鮮明 恵父もあらゆる分野の科学者を一同に集って絶対的価値の探求を議題に学術会議を10年以上に渡って続けられたが、神を中心とせず、たこ壺化した学問の限界に渇を入れ警鐘を鳴らしたかったのかも知れない。

 

次回は主体を主体たらしめている主体性とは何か?対象性とは何かを考えてみたいと思う。