原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 性相と形状を意識して考える生活習慣②内容と形式

平成天皇の若かりし頃、すなわち皇太子の英語教授として、20年間英語を通して「生き方」や「考え方」を教えた人物にレジナルド・ホレス・ブライズ(Rejinald Horace Bryth)がいる。

HAIKU(俳句)の著者であり、その世界的伝道者であり、かつ鈴木大拙の弟子でZEN(禅)の正しい理解と体得と普及に生涯を捧げた人である。

ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで夏目漱石も聴講した中世英文学の泰斗、W・P・ケア教授に文学にとって言語が如何に重要かを学んだそうである。

さて、ある時ブライズ先生がペンか鉛筆を机の下に落としてしまったのであるが、すぐには拾おうとはせず、殿下の反応を伺って、それから質問をされた。

「さて、どちらが拾うべきであろうか?」

すると殿下は答えられた。

「近い人が拾うべきだ」

合理的なご回答である。しかし、ブライズ先生は、

「それではメジャー(ものさし)を持って来てもらいましょうか」

とユーモラスに応答した後で、

「身分の高い人が拾うべきだ」

「身分が上の人は常に下の人に仕える用意ができてないといけない。それが、『ノーブレス・オブリージ』(noblesse oblige 高い身分に伴う義務)である」

と語り、また個人の「自発性」を貴重視された。近い人が拾うということには自発性がない、合理的ではあるが人間性がないと彼は考えたのである。自発的であるためには強制があってはならない。その教えがあってか「くれぐれも強制などないように」と天皇はおっしゃることがある。

天皇という内容があり、その形式がある。

内容は国家の祭司であり、国民の父である。

その輝きは、”Dignity"(威厳や品性)である。

形式は考え方であり、生き方であり、行為である。

東北の震災の被害住民に膝をついてねぎらいのお言葉をかけるお姿をみると、永きに渡って天皇という役目を果たされてこられた、充実感がお顔に現れておいでのようにお見受けされる。

統一教会アベル・カインという言葉がある。

アベルは信仰の上位者、カインは信仰の下位者のことである。

アベルはリーダーであり、カインはフォロアーである。

これを外的に見ればアベルが上位者であり、カインが下位者であるが、内的に見れば逆転し、アベルは支援者となり、下位者となる。そこでイエス様は十字架に向かう前に、弟子たちに洗足を施され、仕えるリーダーたれ!と喝を入れたかったのである。

フィギアスケートのシーズンである。

フィギアの評価には技術点と芸術点とがある。

技術点はルールに如何に忠実に演技できたかであり合理的判断、芸術点は個性と人間性の判断。

芸術は全て表すべきものが既に内にあり、それに相応しい表現方法によって表されるべきものである。

表すべきものが内にない人は決して芸術家にはなれない。素晴らしい技術家にはなれるかも知れない。科学技術であればそれで充分であろうが、芸術ではそれでは中途半端になることであろう。

音楽では特にそれがばれてしまうようである。コンクールで優勝したからといって芸術性が高いとは限らないのである。

個性真理体である人間の内容とは、意識的にせよ無意識的にせよ、自らの個性に従って選び抜かれ蓄積された価値体系のことである。それによって生き、それによって考え、それによって行動する。これが人生形式や思考形式や行動形式を求め現しているのである。

我々にとって大事な学習事項は、知識の集積ではなく、先ず自分自身に神が与え給う個性や資質が何かを、価値との関係から探り出し解き明かして、次に必要な知識を学ぶことではなかろうか?

人間は自分が誰なのか分からずにいるので、迷いの中にいるのである。半分は人間の責任として見出さねばならぬものであり、半分は人間の努力をして育て完熟させなければならぬ性格のもののようである。

ブライズは本質を考える生活習慣があったようである。

キリスト教の本質は、「キリストはあなたのために死んだ」であり、仏教は、「我々はすべて仏性をもっている」であり、禅は、「あなたが宇宙である」と自覚することである。

ブライズ先生、ありがとう―天皇陛下の家庭教師