原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

授受法 相対思考 対極の概念や視点で考えを相互交流させる生活習慣

相対思考というのは、一言で言えば、物事の両面を見なさいということであり、両面思考と言い直すことができる。

すると相対思考の一番目は言葉、すなわち概念の両面思考とも言うことができる。

表があれば裏がある。本音もあれば建前もある。氷山の一角というように、見える部分もあれば、見えない部分もある。プラスの面もあれば、マイナスの面もある。利益もあれば、コストもある。機会もあればリスクもある。

ある視点で物事を考えていくときには、必ずこれとセットで、対極にある視点からも考えて、さらにこの二つの視点を見ている、高次の視点で統合して考えるようにする。

このことは対極にある概念を比較検討していく作業であるとも言うことができる。なにかの事柄について考えるときには、必ずその言葉に相対する、対応する、反対側にあると思われる言葉に関心を振って、二つの言葉の意味する両面から考える癖を徹底的に付けて、何かを考えるときには無意識に、自動的にそのような操作をやってのけられるようにするのである。

二番目は視点の移動である。一つの視点(主張)から反対側に位置すると思われる別の視点(主張)を見出し、それぞれの主張が理に適っていると思われる、ある事実に基づく理由を交互にやりとりして、弱点や優点を比較検討したり、疑問点をこれはどうか?あれはどうか?こういうことか?と頭の中で質問したり、答えたりしながら、どちらが正しいと思われるか、或いは何が正しいと思われるのか、吟味していく思考である。

ディベートの競技のように、あるテーマを巡って、一つの主張について肯定の立場に立つ人と反対に否定の立場に立つ人が、互いの主張の合理性を議論するように、自分の頭の中で二つの視点や主張を一人二役で議論していく方法である。

ここで気を付けなければならないのは、ディベートではどちらかの主張が正しいと判定され、もう一方の主張は間違いという判定になろうかと思うが、これはおそらくディベートの技術の向上に目的の重心があるからであろう。

しかし、我々は誰の主張が正しいかというよりも、むしろ何が正しいと思われるか知ることを目的としたいと思うのである。ある意味で論争的であると言うより、対話的であると言えるのかも知れない。

したがって、相対思考というのは対極の概念や主張を相互に吟味してい真理や真実に至る、授受法的思考のことである。

三番目は相手の意見に相対する立場にあえて立ち、考えたり質問したり主張したりするような、主張者の対極に立ち考えることである。

友人でも誰でもいいのであるが、誰かがある事柄に対して意見を言っている時に、そのことに対する自分の意見のことは考えずに、単純に意見を言っている人の主張に対して、この点はどう思うのか?こんな例外があるようだけれど・・・こんな風に考えてはどうか?というように、先ほどのディベートのように、否定の(反対の)立場に立って、質問したり意見を言っていくのである。

ここでは目的が非常に重要である。その目的とは自分の思考の歪みや偏りを矯正するする為である。決して相手を言い負かしたり、打ちのめしたりすることが目的ではないということである。

相手の反応をよく見て、ああ言えばこう言う自分の姿に、相手が気分を害しそうであれば、気分を害さぬように適切な配慮や言葉の組み立てをしなければならないであろう。

つまり自分の立ち位置や主張をしっかり持って議論するわけではないので、議論をゲームのように楽しむと言っても、まるで暗闇から襲ってきたかと思えば、暗闇に消え、また現れるというような有様になるので、まじめに議論している人に対しては不誠実と受け取られても致し方がないとも言える。

勉強させて頂くのであるから、感謝と尊敬の念で接することができるよう心したいと思うのである。