原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

天聖教と天一国憲法 天宙に立つ真のお母様の決心覚悟と心情の境

御旨というという大志を抱き続ける夫が、病に蝕まれて、砕け散っていく病床の中でさえ、魂は、神が先駆け歩んで来たった、その路程に重なり、さらに前に進んで、夢は果てしなく創造本然の純無垢な清浄世界を、駆け抜ける。

その真の御父様が聖和されて、1周年を迎える時、誰よりも、理不尽な苦難の数々の道を共に歩まれた、真のお母様であればこそ、天に行かれた真の御父様に至誠の供え物を捧げるべく、一心不乱に祈られてこられたであろう事は、疑いの余地のないことである。

天聖教の正しい増補と天一憲法の発布は真のお母様が、聖和1周年を迎える捧げものとしては相応しく思われたことは、至極当然のことのように思われるのである。そのご心情をよくよく与して善しとされるよう整えて差し上げるのが、祝福家庭の責務であろう。この日のために精誠を尽くされてこられたお母様があまりにも不憫に思えてならないのである。

そこでどういう契機があって、天聖教の増補改訂や天一憲法の草案の動きが始まったのか、末席の信徒に知られるはずもないが、そのような霊的に暗く未熟な信徒でさえ、真のお母様の心情を、しっかりと受け止めて、具体的な形としていく、手続きののなかで、不手際が起こっているように思えてならないのである。勿論、諸先輩の方々のご尽力には敬意を表するものであり、また感謝もしてはいるが、それでも、天の願われる基準という点から見れば、結果としてはなはだお粗末であったと言われても、弁解の余地がないのではなかろうか?

ある日本の責任者の説明として伝え聞くところには、真の御父様の監修された内容が70%ほど削られ、2000年以降の重要な御言葉をその分追加することになったのであると語られたというのである。

それが事実であるとすれば、違和感を持つ者が出てきたとしても致し方があるまい。

通常増補改訂とはできるだけその真意を正しく伝えるために、誤値を正し、加筆修正するものと相場は決まっている。

これでは編集者であられた真の御父様の心情を蹂躙するも同然の結果である。

そればかりか真のお母様の心情も蹂躙されている。

真のお母様にしても、真の子女様にしても、その支える基盤の脆弱なことは目を見張るばかりである。

仮にもし、サムライの時代であれば、天下に進み出て責任を取って、この編集責任は我にあり、と言って市中を引き回される罪人の如く、信徒の嘲笑と叱責の渦中にと、腹を決めて懺悔をする者が現れていたとしたら、収拾の落としどころが見つかったように思えてならないのである。

昔で言えば腹切り、切腹である。

幾たび死すとも、砕け散るとも、の精神や何処?

保身か?それとも保信か?

それが問題である。

天下に大恥をさらし、あたかも閉門の家のごとく扱われ、果ては地獄に行くことになろうと、良いではないか?

その地獄の底に 文鮮明 恵父が尋ねてきて下さらないと誰が言えよう?

たとい、永遠に尋ねて来られなかったとしても、胸の中の一片丹心のこの思いが消えるはずもない。

文鮮明 恵師 の真の愛によって救われたというのはそういうことであろう。

ホジュン」という韓国のドラマは我々にアベルの正道について具体的に考察する機会を与えてくれる。そのドラマのクライマックスで、主人公のホジュンが心医(心情の医師)になるべく、師と仰いでいた先生が、病に倒れ今際の際の時、ホジュンに、医学の発展のために「死後我が内臓を取り出し研究せよ。」と厳しく命じて遺言とするのである。

涙も鼻水も涎もたらして、張り裂けそうな心臓を押さえながら、敬愛する先生の五臓六腑を取り出して、図や特徴をホジュンは書き留めていくのである。凄まじいシーンである。

これを見るたびに、私は文鮮明 恵師の五臓六腑を切り裂き破裂させてきた張本人なのだと、思い知らされるのである。真の御父様の砕け散ったお体を踏み越えて、真の御父様が見つめておられた円和理想の世界に旅立って行かねばならぬと、悔い改めに導かれるのである。

基元節も南北統一の日も生きて迎えることを、我々の罪故に閉ざしてしまったことが、恥ずかしくてならないのである。

 

本来であるならば、真の御父様の指導の下編集された天聖教は、第一部などのようにして、そっくりそのままの姿で残し、2000年以降の重要な御言葉は真のお母様が編集された内容として、第二部としていれば、真の御父母様が神様に捧げる美しいハーモニーになっていたことであろう。

旧約聖書新約聖書に合本と分冊が存在するように、使い勝手を考えていくつかの分冊にすることも可能であろうし、聖書のように実に薄く丈夫な紙を用いることもできよう。

サタンの仕業が常に分断にあり、神の御業が統一にあることを思えば、真のお母様にこれ以上の心労を与えるような、決起大会のようなあり方は上善の策であろうか?疑問の残るところである。

正論は結構ではあるが、難しい判断の時である。

顕進様を支持される多くの信徒が玉石混淆の情報を発信しているようである。

私のように清平でビビンバを顕進様から配られたくらいの、面識しかない者でも、顕進様は政治家としての天品があられ、国進様には経営や経済に通じた天品があられ、亨進様には宗教性の天品があられるように感じられる。

この清平でははじめて遠くから亨進様をお見受けし、睨むように食い入って見つめてしまっていた。その視線に気づかれて、誰だろうと驚かれた様子であった。ご立派に成長なされたお姿に感無量であった。

当時、坊主頭の作務衣のような出で立ちの青年は、多くの誤解の中にあった。21年間の修行の路程を定めて求道の中に身を置かれておられた。

「はげ頭と苺」という亨進様の著書には信仰告白、つまり自分の父親を単なる宗教指導者ではなく、メシアであると悟った際のいきさつが書かれている。

ある禅の寓話を亨進様は真の御父様にお話ししたのである。

一日の農作業を終えた農夫が、一寝入りしたつもりが、眼を覚ますと既に日が暮れていて、急いで家路につくと、なにやら生き物が迫りくる気配を感じ、逃げ延びたが、目前には崖が現れ、思い切って飛び降り、すんでのところで一本のつるに捕まり、かろうじて助かった。

がけの上を見ても、がけの下を見ても、お腹をすかした虎が、「こっちへ来い。食べてしまうぞ!」と言っている。

それどころか、黒と白のねずみが一匹ずつ、頼りの命綱のつるをガリガリかじっているではないか!万事休す、絶体絶命の瞬間、そっと目を開けてみると、目の前に甘くておいしそうな苺があった。思わず頬張ってみれば、そのおいしかったことといったら・・・

一般の解釈では、人生には様々な艱難辛苦が訪れようと、それに囚われずに、視線を別に回せば、そこには格別の味わいが待っているということになろうか?

その話を息子から聞いた、文鮮明 恵父は、間をおかずに言ったのである。

「うん。それは分かるけど、それならその苺を、そのねずみと虎にもやらないとね!」

神様が善人にも悪人にも等しく、太陽の光を注ぎ、雨の恵をあたえるように、相手に価値があるから、与えるといった、条件付きの愛ではないのである。無境界にして無条件の愛!瞬時に無意識にさっとお話しされる真の御父様をご覧になって、自分の父が単なる宗教的指導者ではなく、悟りの境地を既に体現されている方なのだと悟ったというのである。

それより、父親はメシアとなったのである。

驚くほど率直にその辺の事情をご説明されておられる。立派な御方である。

さて、顕進様がマスコミにインタビューされた動画がYouTubeにアップされていたことがあった。

ちょうどイエス様が弟子達に向かって「私を誰と思うか?」と言われたように、インタビューした人は顕進様にあなたの父親は誰だと思うか問いつめたのである。残念ながら、メシアであるとははっきり答えられなかった。答えずらそうにさえ見受けられた。

これがいつ頃のことかは覚えていない、我々の信仰の基本は、誰でも知っているように、神観・罪観・メシヤ観が基本である。もし、昔も今も変わらずこの信仰観をお持ちでいらっしゃるなら、亨進様のように、一刻もは早く神の導きのあらん事を祈るばかりである。洗礼ヨハネの如く自らを慕う者たちを天父に繋ぐことができないからである。その永遠の命が失われるからである。

御生前中に悟って頂きたかったのではあるが、これも、恵父が先ず実子をさておき、養子のような我々に貴重な御言葉と心情を注がれたにも関われず、その預かりものを、きっちりと御子女様にお返しすることが、充分にできなかったことに、根本の問題がある。

誠に申し訳ないのである。

しかし、我々の人生経験が実は失敗の蓄積であることが多いように、子女様の紆余曲折に見える道も、神の神秘な導きによって、大きく実を結ぶ日が来るに違いない。

神様は一つ、父母様も一つ、そして子女様も一つである。

さて、韓鶴子 真のお母様は1月7日、韓国加平で開催された指導者会議にて見事なご決断をされたのである。

神様の名前を変える必要があります。「神様」と呼ぶよりは「天の御父母様」と呼ぶべきです。・・・・今からは私たちは統一教会ではありません。世界平和統一家庭連合です。

統一教会とは1954年5月1日に世界基督教統一神霊協会として登録されていたのであるが、文鮮明1994年5月3日に文鮮明 恵父によって世界平和統一家庭連合に変更され、2009年には当時の世界会長であられた 文亨進 恵師によって統一教会に再度変更されていた経緯がある。

真の御父様が動なら、真のお母様は静。

自分から前に出て行かれる方ではなかったように思う。

私はこの発表に真のお母様の決心覚悟と霊界からお守りしておられる真の御父様の臨在を強く感じたのである。

子女様には子女様の深い御洞察と配慮で過去に名称の変更があったのであろうと了解しているので、子女様に対して批判の気持ちは毛頭ない。

子羊の婚礼があるまでは、宗教は善の天使が中心になって導いてきた。救いの中心は個人の救いであった。

神の家庭理想が第一のアダムによっても、第二のアダムによってもなされず、第三のアダムの再臨主の降臨まで流れ来たったのである。

天使型宗教は子女型宗教とも捉えることができ、子女間の宗教観という意見対立が宗教対立の核心である。

子女のけんかは親が収拾するのが世の常である。

そこで理想家庭の中に人類は向かって行かざるを得ず、個人を中心とした宗教の使命は徐々に終わりを告げ、個人の信仰から、真の理想家庭の生活の時代に歴史は推移してゆくのである。統一教会が神の祝福による合同結婚式を挙行する理由の一つがここにある。

天宙に立つ真のお母様の決心覚悟と心情の境!

心から感謝する次第である。 アージュ

 

 

 <追記>

 当時は、わたしはお母様がお父様を恨み、復讐していることに全く気づかないでいた。

お父様にお母様が完全に一体化されているものとすっかり思っていた。

そこで、お母様の発言がお父様と一体化されているゆえに、「神様」と呼ぶのを「天の御父母様」とお呼びしようとおっしゃっておられるものと思っていた。

大変主体的になられたお母様のお姿に、お父様の働きがあるからであろうと考えていた。

未熟であったので、いち早くお母様の情況を把握できず、侍義の時代でありながら、自分のなすべき責任を果たすことができず、お母様に対して尽くすべき道理を怠り、正しい道に悔い改めてくださるよう尽力を怠ってしまった。

自分自身、なんとも無残な体たらくであったと痛感する。