原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 二性性相 神と被造世界、神と我々の人生

如何なるものであっても、それ自体の内においてばかりではなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、はじめて存在するようになるのである。

 

 被造世界に見る存在物の6層:素粒子・原子・分子や植物・動物・人間 には

全て内にも、外との関係にも、陽性と陰性の 二つの性質があり、この性質には見えない形である相があるので、二性性相と言い表す

 

素粒子は陽性か陰性か中性を帯びていて、これらが二性性相の相対的関係を結んで原子を構成する。原子も陽性と陰性を帯びるようになり、これらの二性性相が相対的関係を結ぶことによって、物質の分子を形成し、このように形成された物質は二性性相の相対的関係を結ぶことによって、植物や動物に吸収され栄養となっている。

すべての植物は各々雄しべと雌しべとによって存続し、動物は雄と雌によって繁殖生存するのである。神が最初の人間である男性のアダムと女性のイブを造られたが、全ての存在は、例えば電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と原子の結合によって形成されているように、雄しべ雌しべ、あるいは雄や雌も、各々内部において陽性と陰性の二性性相の相対関係を結ぶことによって、はじめて存在している。さらに、

 

如何なる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、即ち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによって個性体を、ある目的を持つ被造物として存在せしめるようになるのである。

 

 

被造世界に見る存在物の6層:素粒子・原子・分子や植物・動物・人間 には

外形と内性を備えていることが分かり、見ることのできる外形は、見ることのできない内性に即してそっくりに現れることから、見ることのできない内性の中には、必ず何らかの形があって、それにそっくり似ている有様で、外形にも対応して現れるようになる。内性は内に性質ばかりか、見えない形である相を持つので、正確には、性相と呼び、外形も外に形を持つだけではなく、素材を持つので、正確には、形状と呼ぶべきものになっている。

物質界に三層のように展開する素粒子や原子や分子は、それぞれ合目的内命性を持っていて、それにそっくり対応して、合い相応しい体(たい)を持っている。合目的な内から命ずる性質や作用が性相にあたり、体が形状ということである。同様に、人間に心と体があるように、動物にも人間の心に似た動物心とでも言うべきものがあり、ある目的を指向して動物の体に対して主体的な原因となっているので、これに応じてその肉体は生の営みをするのである。植物にも植物心とでも言うべき性相的な部分があり、人間の心のような作用をするので、固体は有機的な機能を維持するに至るのである。

 

原因的本質の神の本性相と本形状→結果的現象であるエネルギー→素粒子→原子→分子→植物・動物・人間という風により上位の存在を形成する目的を指向し展開されてきている。

存在界の存在物に普遍的に共通する性相と形状、また陽性と陰性が現れてくるためには究極の第一原因の中にもこのような様相が現れる原因となっている、性相や形状が備わっていなければならない。

このような被造世界の原因としての二性性相を持ち、時空を超えて、つまり存在物が存在するための、存在形式である時空間の外に、超越して存在する究極の第一原因を神と呼ぶのである。

性相と形状に関しては西洋ではアリストテレスが形相と質料という把握の仕方で考察され、陽性と陰性については東洋で陰陽の哲学として展開し、その相対的関係の作用である、授受作用に関しては、インドでは仏教が縁起として考察されてきたのである。このような本質と現象に関わる東西の思想を円和一如に表現され、各々の位置と役割をその秩序の下に統一できるとすれば、現実世界もまた一つになる日が訪れる日を期待することができるのであろうか?

人間の能力を向上させるために、かっては現象としての動作を主にフォーカスして改善をはかってきた時代があり、原因としての脳の構造と機能の研究に脚光が当たった時代があった。人間がもし神のに姿として創造されているとすれば、我々は無形の神の本質的性質である心情や神相に遡って考察をしなければ、本然の人間としての面目を果たすことはできないことだろう。

再臨の主であられる文鮮明 恵師が地上に訪れた現代こそ、人類が幼年ならぬ妖年期の終わりを迎える時なのである。

 

神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。

神の世界では性形も陽陰も統一され一体一如である。 

さて、芸術家は被造世界の存在物を対象として創作活動を為してきた。被造世界の階層性は合目的性を備えている、円一な世界である。

ここで見られる合目的性の価値的側面を表して私は昇価性とみなし、またこの合目的性の表現形式を奉献性とみたのである。そこで芸術は単に美を表現するに止まるのではなく、絶対価値を希求して存在する世界を対象とする限り、絶対価値を突き抜けて神の栄光に直結せざるを得ないのである。真美善の三大価値の美を主役に立ててはいるが、善でもあり、真でもある、統一された絶対価値の永遠性に根ざすもののみが、真に芸術の名に価するのである。

そこで宗教芸術こそが芸術の頂点になるのである。

再臨の主であられる文鮮明 恵師が誕生された1920年を中心にして、霊界の協助がピークを迎え、芸術家達にも、インスピレーションの恩恵が注がれたのである。しかしながら、芸術家は再臨主の下に馳せ参じ、その教えを説かれ、神の心情の本質を理解するばかりか、体得し、神やキリストと一体一如になって、神が為された天地創造の如く完全投入する時に、堕落世界を突き抜けて、新しい世界の心情芸術を開花させることができるよう予定されていたのである。

一体芸術家の本望は何であったと言うのか?それは生きる芸術であられる、イエス・キリストと同時代に生き、その栄光の御姿を描くことに尽きるのである。

ゴッホが偉大であるのは単に画家としての天才にあるのでは決してない。教師として種蒔く人に挫折し、牧師として種蒔く人に挫折し、画家として種蒔く人に挫折するのである。神の御言葉を蒔く種蒔く人、イエス・キリストを敬慕尊崇し、イエス様を中心とした12弟子になぞられた、画家達の共同体、即ち天国生活を夢見て、同士を求めたが、来たのはゴーギャンだけだった。そのゴーギャンとも仲違いをする。

生涯評価されず、その絵は皆無に等しいほど売れず、友もなく孤独な生涯であった。文鮮明 恵師の言葉に「過ぎ去ってみれば愛であった。」という言葉がある。ゴッホは、生前中には誰にも理解されず、評価されず、見捨てられた画家であった。しかし、その絵は売れなかったため、点在することなく、美術館に集められ、多くの人が見ることができている。神はゴッホの神に対する信仰と愛とを決してお忘れではなかったのである。結果として、ゴッホは画家という立場で、徹底的な自己否定の人生、つまりイエス様が歩まれた、孤独な茨と十字架の道を追体験するような、同じ事情を通じて、天宙に立つイエス様の孤高の心情に触れることを許されたのである。さて、ゴーギャンは原罪に対する罪の意識に悩むことのない、タヒチの人々の暮らしに楽園を夢見たのである。

 

今日は不思議と予定とは違い、こんな話になってしまった。